6.道草(香奈)
夏至の頃である六月の午後四時前という時間は、夕方というにはちょっと早すぎるから電車の中はがらがらに空いていて、学生の姿はほとんどない。部活動をしていないあたしが帰るこの時間は大体いつもこんな感じだ。
うちの学校は大小織り交ぜてかなりの数の部活や同好会があり、掛け持ちもOKだから、大抵の生徒は二つか三つの部を掛け持ちしてアフタースクールライフを満喫している。あたしも、陸上部からマネージャーにと熱心に誘われたけど断った。
あたしはあくまで自分が走ることが好きだったわけで、どんな形でもいいから陸上に関わりたいんじゃない。その辺がどうも理解してもらえないのがもどかしい。あたしが諦めたトラックを走る他の人の姿を見るだけでも厭なのに、ましてや応援なんて……できっこない。やりたくない。陸上にはもう関わりたくない。
でも、陸上以外にやりたいことなんてないから他のクラブに入ろうって気も起きない。こんなんじゃいけないっていうのは分かってる。でも……。
鬱々としているうちに、電車はあたしの家の最寄りであるJRの山田上口駅に停まった。最寄りといっても郊外にあるあたしの家まではここから5kmはあるからバスに乗っていくわけだけども。
ちょうどバスが来るタイミングだったから早足でバス停に向かい、なんとか乗り込むことに成功する。市の中心部とは違い、郊外に近いこのあたりはバスの本数が少ないから乗り損ねると30分、1時間待ちはざらにある。
ガラガラの路線バスの出入口に近い席に座り、窓の外を流れる景色を眺めていると、商店街のパン屋さんの幟が目に入り、そこから連想で朝食で食べた近所のパン屋さんの食パンを思い出す。
美味しいパンやったなぁ。たしか、メロンパンとクロワッサンが特に美味しいんやったっけ? せっかくやし、このまま寄ってみるかなー。
普段は家がある団地前のバス停で降りるけど、今日はあえて一つ手前の万所橋のバス停で降りてみる。そこから歩くことおよそ200メートル。白い壁と灰色の屋根、オレンジ色のドアとその上の緑色の雨よけのひさしテントが特徴的な可愛いお店『ワイズベーカリー』に着く。幟が出てるからまだ営業しとるね。ヨシッ!
──カランカラン……
「はい、いらっしゃいませぇ」
入り口を入ってすぐ右手のレジカウンターに立っていた店員のお姉さんが素敵な笑顔で迎えてくれる。白と黒の細かい千鳥格子のコックコートにデニムエプロンを着け、黒のキャスケット帽を被ったちょっとたれ目でおっとりした雰囲気をまとった20歳前後ぐらいに見える美人のお姉さんだ。
「あ、どうも。なんか、メロンパンとクロワッサンがすっごく美味しいって聞いたんですけど……」
「あら。ということは初めてのお客さんかな。うふふ、後輩が来てくれて嬉しいなー」
「ほえ、後輩?」
初めて会った人にいきなりそんなことを言われて驚いていると、お姉さんはスッとあたしの制服を指さす。
「その制服。相鹿やんな? うちも相鹿の食物調理科の卒業生やから懐かしいなぁ。伊勢からやとちょっと遠いし電車のアクセスも悪いから女の子で相鹿に通ってる子ってあんましおらんし、なんかほっこりするなー。あ、商品はそこのトレイとトング使ってセルフで取ってぇな。メロンパンはそこでクロワッサンはこっちやに」
「あ、はい。アザマス」
相手が先輩と知った瞬間につい背筋が伸びてしまうのは体育会系の悲しい性だ。とりあえず言われるままにトレイとトングを手に取って改めて店内を見回す。
六畳ぐらいのこじんまりした売り場スペースには足踏みミシンの台をリメイクした陳列台があってその上に並んだカゴにパンが入っている。前面がガラスのスライドドアになっている冷蔵ショーケースにはサンドイッチ、サラダ、デザートが並んでいて、壁の棚には食パンや焼き菓子が陳列されている。
売り場の奥にはテーブルが二つだけ置かれている狭いイートインスペースも設けられている。
ピーク時間を過ぎているからか、売り場の種類と数は少なくなっていたけど、それでも目的のメロンパンとクロワッサンは確保できたので、とりあえずそれだけトレイに載せてレジに持っていく。
「はい。ありがとうございます。……イート席空いてるけど食べてく?」
「あ、はい。じゃあせっかくなんで使わせてもらいます」
「じゃあ、パンは温めてお出しするね。お会計420円です」
「Poypoyで」
「はーい。ではこちらのQRコード読み取りでお願いします」
──ポイポイッ♪
「はい。ありがとうございますっ! じゃ、用意してお席までお届けするのでちょっと待っとってなー」
言われるままにイート席に移動する。スペースは狭いのに天井が吹き抜けになっているので閉塞感がなくて意外と広く感じられて居心地がいい。イート席には店内限定のメニュー表もあり、プレーンオムレツとかパスタメニューもあるみたい。お値段もかなりリーズナブルだし、近所だし、けっこう穴場かも。
厨房の方から漂ってくるバターの甘い薫りとコーヒーの香ばしい匂いに期待感でワクワクしている自分に気づく。食べ物にワクワクするなんていつぶりやろ?
「はい。お待ちどうさまー」
お姉さんがアカシアの木のトレイに焼き直したメロンパンとクロワッサン、それに注文していないコーヒーの入ったカップを載せてあたしの前に置く。
「え? あたし、コーヒー注文しとらんけど」
お姉さんがウインクしながら人差し指を唇の前で立てる。
「これはうちのオ・ゴ・リ。内緒やに? あ、今さらやけどコーヒーは大丈夫やった?」
「大丈夫です。ありがとうございます。いただきます」
「ごゆっくりどうぞー」
ニッコリと笑って戻っていくお姉さんにちょっと見蕩れる。
はー、素敵な人やなぁ。美人で優しくて人当たりも良くて、こんなお姉ちゃんおったらよかったのになぁ。
【作者コメント】
かなり露骨にモデルになった店が特定できるレベルの解像度でシレッと登場させていますが、沙羅さんの職場であるワイズベーカリーのモデルは作者が経営しているお店なのでノープロブレムです。伊勢にお越しの際はリア凸していただいても構いませんが……これが大事なのですが、残念なことに来ていただいても綺麗なお姉さん店員はいません。ダンディなイケおじ(笑)がいるだけです。




