28.キャブレター(香奈)
響子さんのゴリラから取り外した気化器を手に、床に胡坐をかいた佑樹がいつものように説明を始める。
「キャブレター、通称キャブは、液体のガソリンを細かい霧状にして空気と混ぜた、いわゆる混合気にしてエンジンの燃焼室に送り込む部品な。……そうやなぁ、身体に例えれば肺みたいなもんかな?」
あたしは彼の横に並んでしゃがんで、その手元に注目しながら説明に耳を傾ける。これもいつもの通り。ただし今日は佑樹を挟んで反対側に響子さんもいて、あたしと同じように佑樹の手元を覗きこんでいる。
「ふむふむ。どういう構造をしてるんだい?」
「それは今から説明するよ。……まず、この本体の外側にあるレバーがチョーク。暑い今の時期はほとんど使わんけど、寒くなるとガソリンが気化しにくくなるから混合気が薄くなってエンジンがかかり難くなるんさな。そういう時はこのチョークのレバーを引く。そうすると流れ込む空気の量が少なくなるよって気化ガソリンの量が少なくても混合気が濃ぉなるんさ。ちなみに今みたいな暑い時にチョークをかけると混合気が濃ぉなりすぎて逆にエンジンがかからんくなるけどな。おけ?」
佑樹がチョークレバーをカチャカチャといじると、その動きに合わせて空気取り入れ口が開閉するのが分かった。
「なるほど。濃すぎても薄すぎてもダメ。適度な濃さが大事ってことか」
「うん。これは陸上やってたから原理はなんとなくわかる。空気が薄い高山トレーニングですぐ息切れしちゃうのと同じやね」
「そう……かな? まあ香奈ちゃんがそれで納得しとるんやったらええわ」
次に、佑樹がキャブレターの外部についている二つの大きさの違うマイナスのねじを示す。
「こっちの大きい方のねじがアイドリングスクリューで時計回りに回せばアイドリングの回転数が上がる。んでこっちの小さい方がエアスクリュー。締めたり緩めたりしてアイドリング時の空気の量を調整する」
「調整は難しいん?」
「うーん。こればっかりはやりながら覚えていくしかないやろな。実際にエンジンをかけんと調整できんしな。さて、そんなら今から分解するけどこの作業は香奈ちゃんにやってもらおか。響子さんは汚れていい格好じゃなさそうやで見学な」
「ん」「頼むぞかなっち」
両手に軍手をはめて、佑樹からキャブレターとプラスドライバーを受け取る。キャブレターは手のひらに収まるサイズだけど、鋳物だから意外にずっしりと重い。
「スクリューとは別の……これ、この二つのプラスねじを緩めればキャブレターが上下に分かれるから、とりあえずこのねじを二本とも抜いて。中にガソリン溜まってるから開けるときボウルの上でやってな」
ステンレスボウルの上で指定されたねじを外すと、キャブレターがあっさり上下二つに分かれ、バシャッとガソリンが溢れる。中は空洞になっている。
「この空洞は?」
「燃料タンクからキャブに流れ込んできたガソリンが一旦ここに貯まるんさ。で、ここからキャブの上側にあるこの二つの穴、メインジェットとスロージェットっていうんやけど、ここを通って霧状になる仕組みになっとるんよ。……このミニスパナとマイナスドライバーで外せるから、メインジェットとスロージェットも外してみ? ジェットは真鍮製で傷つきやすいよって、扱いは慎重にな」
「はーい」
言われたとおり金色のメインジェットとスロージェットを外してみる。
「おっけ。そんならその穴を覗いてみや?」
「うん。……何も見えんけど?」
「私にも見せて。……ふむ。何も見えないな」
「うん。調子の悪い奴はだいたいその穴が詰まっとるな。その穴をきっちり貫通させとかんとアイドリング時にガソリンをエンジンに送れへんから、混合気が薄くなってどうしても回転数が下がるんよ。せやでエアーコンプレッサーで穴詰まりを吹き飛ばして貫通させる。ちょっとメインジェット貸して」
「はい」
あたしから受け取ったメインジェットに佑樹はエアーコンプレッサーの噴出し口を当てて、プシュッと高圧の空気を吹く。
「ほい、もう一回覗いてみや?」
佑樹から返されたメインジェットを覗いてみると、シャーペンの芯よりもうちょっと細いぐらいのトンネルが貫通していた。
「おー、これが正しい状態なんやね?」
「どれどれ。ホントだ。向こう側の光が見える」
「そう、これが正常な状態。じゃあ同じようにしてスロージェットも貫通させたって。それから、キャブに空いてる穴全部に一回ずつプシュッとしたってや」
スロージェットをたった今佑樹がしてみせてくれたのと同じ要領で貫通させ、キャブレターの各所にある穴──ガソリンや空気の通り道もコンプレッサーの高圧の空気で穴詰まりや汚れを吹き飛ばす。
エアーコンプレッサーを使いながら、今更だけど、なんで佑樹の家にはこんなにたくさんの作業用の機械や工具があるんやろ? と疑問に思う。この店内スペースは整備工場もかくやというぐらい設備が整っている。
最初の頃はあまり気にしてなかったけど。最近、自分用の工具が欲しくてホームセンターに行ってみて、普段ここで使わせてもらっている工具の値段にビックリした。いくらバイトしてるからって高校生のお小遣いじゃこんなに揃えるなんて不可能だ。
「なぁなぁ、今ちょっと思ったんやけど、なんでここにはこんなに工具とか機械が揃っとんの? こういうのってけっこう高いやん?」
「あ、それ私も思った。うちなんてお父さんの工具箱一個ぐらいしかないよ」
ざっと見回しただけでも、エアーコンプレッサーに各種ドライバー、ラチェットレンチにメガネレンチにスパナ、ペンチやニッパーやプライヤー、リムプロテクターやシザーズホルダーやバンドホルダー、シックネスゲージやチェーンカッターやスクレイパーといった一般的な工具から特殊工具に至るまでずらっと並んでいるのが確認できる。
「ああ、そっか、そうやな。そういやまだ話しとらんかったな」
佑樹がちょっと寂しげな表情を浮かべる。
「「?」」
「ここの工具とか機械はみんな、親父の遺品なんよな。親父はこの喫茶店のオーナーやったんやけど、プライベートでは自分でバイク弄るんが趣味でな。この店も趣味のバイク乗りのおっちゃんたちが集まる店やったんさ。ちなみに香奈ちゃんの[メッキー]を譲ってくれたノブさんもそんな親父の仲間の一人な。そんな親父がバイク弄るんをずっと横で見とったから、俺も自然と整備を覚えたんさ」
「「!」」
何気ない質問のつもりだったけど、思い切り地雷を踏んじゃったみたい。響子さんと焦って視線を交わす。
佑樹のお父さん、もう亡くなっとるなんて……。母子家庭なのは知っとったけど、てっきり離婚だと思ってた。
「一年半……いやもうすぐ二年やな。親父が事故で急逝したんは。そっからこの店畳んだり……まあ色々バタバタしとってようやく色々落ち着いてきたんがこの半年ぐらいかな」
「……ご、ごめんなぁ。つらいこと思い出させちゃって」
「いや、まぁ大丈夫やに。今はもう立ち直っとるし。そりゃたまに寂しくなることもあるけど、親父が大事にしてたこの[しるばー]を弄ったり、乗って走ったりしとる時とか親父と今でもどこかで繋がっとるような気ぃするしな」
爽やかに笑ってみせる佑樹がたまらなく愛しくて、あたしは彼を思い切り抱きしめたいという衝動に駆られた。両手が塞がってなかったらたぶんそうしてたと思う。
と思ったら響子さんがばっと両手を開く。
「さあ、お姉さんがハグしてあげよう。私の胸に飛び込んでおいで!」
なんやとっ! と目を剥くも佑樹が即座に拒否する。
「いやいやいや。とっくに立ち直っとるし。遠慮させてもらうわ」
「なんでだよー」
「妹の情操教育によろしくないわ」
そう言いながらスッと階段の方に視線を移す佑樹の目線を追えば、家政婦は見た状態の咲良ちゃん。
「む。妹さんか。……え? メイド服? ……佑樹、君ちょっと業が深くないか?」
「何を勘違いしとるんや。これは妹のリクエストで姉貴が作った服やで」
「なんと。沙羅先輩はつくづく底が知れないな。はじめまして! 私は轟響子だ。お兄ちゃんやかなっちと同じ学校で、沙羅お姉ちゃんにも以前お世話になったんだ」
「おぉ、そうなのだ。えーと、ワタシは妹の咲良なのだ。今は家事手伝いなのでメイド服を着ているのだ。よろしくお願いしますのだ」
そう言って裾を摘まんでお辞儀する咲良ちゃん。相変わらずめっちゃ可愛い。あたしはだいぶ慣れたけど、所見の響子さんには劇薬すぎたらしい。
「か、可愛いぃ!」
「ぐえぇぇ。絞まってる! 絞まってるのだ! あにうえぇ、かなねぇ、たしゅけて……ぐぇ」
咲良ちゃんの可愛さに脳を灼かれた響子さんがたまらず咲良ちゃんをハグして、絞められた咲良ちゃんがあたしたちに助けを求めるどこか既視感を感じる景色。というか沙羅姉さんがいつもやってるアレ。
「響子さん、そこまでや! あんたには小学生女子へのセクハラ疑惑が掛かっとる!」
「警察に通報した方がええかな?」
「刑事さん、許してぇ! つい出来心だったんですぅ! てかかなっちの目がマジなの止めて!」
「二割ぐらいは冗談やよ」
「八割は本気で通報する気じゃないか!」
そしていつものコントが始まりみんなで笑い転げる。佑樹も咲良ちゃんも無理して笑っている感じではない。
いつも飄々と笑っている佑樹も沙羅姉さんも咲良ちゃんも、みんな人生の辛い時期を乗り越えてきて、立ち直って、こんな風に自然に笑えるようになったんだ。そしてあたしのことも元気にしてくれたんだ。
強いなぁと尊敬と憧憬の気持ちがこみ上げてくる。
参ったな。なんだかますます好きになっちゃうやん。
「……ま、昔話はここまでな。エアーコンプレッサー、かけ終わったな?」
「あ、うん」
「よし。じゃあ、今の分解と逆の手順で組み直したって?」
メインジェットとスロージェットをキャブ本体に差し込んでマイナスドライバーで締め、二つに分かれていたのを元のように合わせてプラスドライバーで締め直す。
「はい。できた」
組み上がったキャブレターをあたしから受け取った佑樹がざっとねじの締め具合をチェックする。
「ん、おけ! じゃあ、俺がこいつをゴリラに取り付けるから、横で見とってぇな」
「うん」
佑樹が整備の終わったキャブレターをゴリラに取り付け、外してあったスロットルバルブや燃料チューブも元の場所に取り付けていく。
「んー、響子さん、この純正エアークリーナーは空気を吸い込む性能が低い上に目詰まりがしやすいから、中古で良ければ俺が以前使ってたパワーフィルターに換えてええかい?」
「おお、佑樹のお下がりか! もちろんいいとも」
「ほんなら香奈ちゃん、そこのパーツボックスからФ18ってマジックで書いてあるマスキングテープが貼ってあるパワフィル出して」
「んー…………パイって丸に縦線のマークだよね。……Ф18……これかな?」
「おう。それそれ。元々原付は制限速度が30km/hやからさ、この純正のエアクリーナーはたぶんわざと空気の吸入効率を悪くしてエンジンのポテンシャルを十分に引き出せんようにしとるんよな。これを吸入効率のいい社外品のエアクリーナー、所謂パワーフィルターに換装するだけでエンジンの燃焼効率が上がってパワーアップするんやで」
「ほー、そうなのか」
元々付いていた黒いプラスチックの壷みたいな形の純正エアークリーナーの代わりにФ18のパワーフィルターを佑樹がキャブレターの空気取り入れ口に装着する。
パワーフィルターの取り付けねじを締め終えた佑樹がドライバーを置いてふぅと息を吐く。
「よしっ。これでゴリラのキャブ掃除は一通り終わりやな」
「おお。思ったより早かったね。これでどれぐらい変わったのか楽しみだ」
「とりあえずエンジンかけてみよか。元々動いてたやつだから調整はそこまでせんでもいいとは思うけど。燃料コックを開けたらガソリンがキャブ内に流れ込んでさっきの空洞に貯まる。それを待ってからニュートラルでキックやな」
「わかった。かけてみる」
響子さんが燃料コックを開け、キーを回すと緑色のニュートラルランプが点灯する。それから少し待ってからキックペダルを踏み込む。
──スコンスコン……スコンスコン……ドルンッ! トットットット……
三回目のキックでエンジンがかかり、アイドリングを始める。
「そのままアクセルを吹かさずに様子見やで」
「わかった」
──トットットットットットットットットット……
さっきみたいにだんだんアイドリングが下がってエンストすることなく、エンジンは安定したアイドリングを続ける。
「おお。すごいよ! すごく安定してる」
「だいぶ良くなったな。でもまだちょっとアイドリング低めだから少しだけ回転数上げとこか。香奈ちゃん、アイドリングスクリューをちょっとだけ時計回りに回して」
「はい」
マイナスドライバーでアイドリングスクリューを回すと一気にエンジンの回転数が跳ね上がり、慌てて少し戻すと元の回転数より少し上がったぐらいで落ち着いた。
──トットットットトトトトトトトトト……トットットット……
「どう……かな?」
「うん。ええと思うよ。響子さん、響子さんが信号待ちしてる時って軽くアクセル吹かしてこれぐらいで回してると思うけどどう? 感覚的に」
「あ、そうだね。ちょうどこれくらいかも」
「おっけ。じゃあ慣らしでこの近所を軽く走って戻って来てくれる? 問題なければそれでいいし、なんか気になるとこがあるなら調整するし」
「分かった。じゃあちょっとひとっ走りしてくるよ」
響子さんがゴリラを押して外に出ていき、やがてエンジン音が離れていき聞こえなくなる。
そして佑樹があたしの方に向き直る。
「お待たせ。じゃあ[メッキー]を外に出して、動かしてみよか」
【作者コメント】
この作品、ガチで整備シーンを描写している話は実はほとんどないのです。理由は内容が専門的すぎて小難しくなってしまいほとんどの読者にとってちんぷんかんぷんになってしまうから。比較的分かりやすいキャブの整備の話でもたぶん難しかっただろうなーと思ってますがいかがでしたか? 引き続き応援いただけると嬉しいです。




