第二話 静寂の海、火薬の匂いと黒曜の神殿
シュンッ。
転移の副作用である軽い眩暈が収まると、俺の革靴は、新宿のアスファルトとは決定的に異なる感触を捉えた。 ふかふかとした、微細なパウダーの上に着地した感覚。そして、全身にかかる重力がフワリと軽くなる。地球の六分の一。
俺は、緩めたネクタイをそのままに、ゆっくりと目を開けた。
そこは、圧倒的な「死と静寂」の世界だった。
視界の上半分を占めるのは、大気というフィルターを通さない、暴力的なまでに鮮烈な宇宙の黒と、針で突いたような無数の星々。あまりに星が多すぎて、星座の形すら判別できない。 そして視界の下半分は、モノクロームの荒野だ。無数のクレーターが穿たれた、灰色の砂漠が地平線まで続いている。
ここは月の裏側。地球からの電波も視線も届かない、永遠の影の領域。
「……ふむ。相変わらず、ここは空気が薄いな」
俺は真空の中で、肺に残った空気を吐き出した。 本来なら即死する環境だが、百年の進化を経た俺の肉体(外見は人間だが、細胞レベルでは竜の特性を維持している)は、自動的に【環境適応】モードへと移行する。皮膚の強度が上がり、代謝が極限まで低下し、体内の魔力循環だけで生命活動を維持する。
俺は鼻をひくつかせた。 真空に匂いはない、というのが地球の常識だ。だが、俺の【竜の嗅覚】は、宇宙服のヘルメット越しでは感じ取れない、月面の微細な塵の「匂い」を捉えていた。
それは、古い火薬の匂いに似ていた。 何億年もの間、太陽風に晒され、微小隕石の衝突で焦げ付いた、乾いた鉱物の焦燥臭。それが、俺にとっての「宇宙の香り」だった。
「さて、と。仕事の時間だ」
俺はスーツの埃を払う仕草(実際には埃は舞い上がらず、すぐに落下する)をしてから、意識を集中させた。
『ユニークスキル:【空間把握(S)】最大展開』
俺の脳内に、月面裏側の三次元地図がグリッド状に展開される。 物理的な地形だけではない。重力の歪み、微弱な磁場の流れ、そして――「不自然な空間の断絶」。
(……見つけた。座標、北西へ約3キロ。クレーター『ダイダロス』の縁の地下)
そこには、自然にできたとは到底思えない、幾何学的な「歪み」が存在していた。まるで、完璧な球体の一部が、無理やりこの荒野に埋め込まれているかのような違和感。
俺は地面を蹴った。 1Gの環境に慣れた体で6分の1Gを蹴ると、まるでスーパーマンの跳躍だ。一飛びで数十メートル。灰色の砂煙を上げながら、俺は音のない世界を滑空した。
数回の跳躍の後、俺は目的の巨大なクレーターの縁に立った。 そこから見下ろした光景に、元ドラゴンの俺でさえ、息を呑んだ。
「……なんてこった。こいつは、とびきり古いな」
クレーターの底、本来なら隕石の衝突跡があるべき場所に、それは鎮座していた。
巨大な「構造物」だった。
高さは優に百メートルを超えているだろう。それは、地球のどんな建築様式とも似ていなかった。 まず、色が違う。 太陽光を反射しているはずなのに、その構造物は光を「吸い込んで」いた。濡れたような、深い漆黒。素材は黒曜石に似ているが、見る角度によって、表面にオイルを垂らしたような玉虫色の――毒々しいまでの青や紫の光沢が走る。
形は、鋭角的でありながら有機的だった。 巨大な水晶の柱を何千本も束ねて、無理やりねじ曲げたような、フラクタルなデザイン。全体が一つの巨大なエネルギー回路のようにも見える。 それは、月面に「建てられた」というよりは、月という星の肉を食い破って、内部から「生えてきた」かのような、異様な存在感を放っていた。
圧倒的な質量と、古代の威圧感。 もし俺がただの人間なら、これを見ただけでSAN値(正気度)を削られていたかもしれない。だが、俺のエンジニアとしての魂は、恐怖よりも先に興奮で震えた。
「魔法を超越した超高度な科学技術の結晶だ」
俺はクレーターの斜面を滑り降り、その黒い神殿の足元へと着地した。 近づくと、その巨大さがさらに際立つ。俺など、足元の砂粒に等しい。
俺は、玉虫色に輝く黒い壁面に、そっと手を触れた。
ヒヤリとした感触。 その瞬間、指先から、膨大な情報が流れ込んできた。
『解析開始……エラー。未知の言語体系。論理構造の復元を試行……』
俺の【空間把握】が、この構造物の「内部構造」をハッキングしようと試みる。 壁の向こう側には、物理的な扉はない。だが、空間が複雑に折り畳まれた「結界」のようなものがある。
(なるほど。物理的な鍵ではなく、空間座標を特定のパターンで歪ませることで開く仕組みか。まるで、超複雑なパズル認証だな)
俺はニヤリと笑った。こういうパズルは得意だ。 俺は脳内で、絡み合った空間の糸を一本ずつ解きほぐしていく。数億通りの組み合わせの中から、たった一つの「正解ルート」を導き出す作業。
カチリ。
脳内で、小さな音がした気がした。 次の瞬間。
ズズズズズ……ッ!
足元の月面が微かに振動した。 俺の目の前の、継ぎ目一つなかった黒い壁が、音もなく左右にスライドし始めた。 開いた口の奥から、これまで嗅いだことのない匂いが漏れ出してきた。 それは、強烈なオゾンの匂いと、何万年も密閉されていた埃っぽい金属臭。そして、微かだが、どこか甘い、生物的な気配。
開口部の奥は、完全な闇ではなかった。 壁面に埋め込まれたラインが、心臓の鼓動のようにゆっくりと明滅を始めたのだ。 その光は、地球には存在しない色だった。蛍光のシアン(水色)と、毒々しいマゼンタ(赤紫)が混ざり合った、目に痛いほどの光。
その光が、神殿の内部へと続く長い回廊を照らし出した。
『危機察知(S)】発動! 内部、高エネルギー反応を確認!』
俺の本能が、警鐘を鳴らした。 この遺跡は、死んでいない。俺が扉を開けたことで、「目覚めた」のだ。
俺はネクタイを締め直し、革靴でその異界の床を踏みしめた。
「さて、と。どんな未知技術が潜んでいるか、お手並み拝見といこうか」
俺が足を踏み入れた瞬間、背後の扉が音もなく閉ざされた。 俺の目の前には、未知のテクノロジーと、古代の謎が眠る深淵が広がっていた。




