【4】前任者の企みと、誘拐
台所改革から数週間が過ぎた、この日。私は、市場への買い出しを任され、籠を抱えて通りを歩いていた。
先日、グレイに焼いたアップルパイへ想像以上の反応が返ってきたことをふと思い出す。
あの男の表情はほとんど動かないはずなのに、あのときだけは視線の温度が変わった。あれを思い返すと、自分でも理由のつかみにくい浮つきが生まれる。
朝の陽光が露を弾き、並んだ果物の色が視界を明るくした。
周囲から漂う香ばしさと、人々の声が途切れず流れ込んでくる。
露店では行商人が干し肉を吊し、香草を束ねた籠を客に差し出していた。
騎士団の食卓を思い浮かべながら歩く自分に、ようやく『普通』が手に入りつつあると感じた。
……今日は、イチジクとたっぷりの胡桃の蜂蜜タルトでも焼こうか。
そんな他愛ない考えが浮かんだ瞬間、足の運びが一呼吸分だけ遅れた。
みぞおちの下がわずかに強張り、籠の重さが手からずれる。
背後で歩幅の違う気配が混じり、風が一筋だけ逆へ流れた。
その気配は一人分ではなく、もう一つ影が重なるように寄ってきていた。通りの流れから外れたその足音だけが、周囲と噛み合っていない。
市場の喧騒が薄れ、店先の明るさが背後へ置き去りになる。
いつもなら遠回りして大通りを抜ける。人混みに肩をぶつけられるのが嫌で、無意識に避けてきた癖だ。
だが今日は、浮ついた気分に背中を押されるように「近道をしよう」と判断してしまった。荷物が軽く、帰ったらすぐ仕込みに取りかかりたいという思いもあった。
露店が途切れ、客の靴音が消えた。
代わりに、規則の合わない二つの足音が背後で重なる。誰かが意図的に歩幅を合わせず距離を詰めている。
気づいた瞬間、肩が上がり、体が半歩だけ引き返そうとした。だが裏路地の入口まであと数歩という位置で、逃げる道を選びきれない。
細い道に足を踏み入れた拍子、袖口を掴まれ、次の呼吸の前に腕を後ろへ強く引かれた。
息が跳ね、視界が乱れる。
すぐに口元へ大きな手のひらが押し当てられた。
「声を出すな」
耳朶に落ちた声は低く、冷えた鉄の刃先のような硬度を帯びていた。
背中が石壁に押しつけられ、腕をねじられる。
力では勝てないと悟った瞬間には、麻を叩いて作ったような袋を頭から押し被せられた。
視界が黒に沈む。強い恐慌が跳ね上がり、声が出ない。
体が引き上げられる感覚のあと、肩口を乱暴に掴まれるたびに呼吸が途切れた。
肩を引く力が三度目に変わった。最初の男と違い、腕の角度が甘く、手の大きさも違う。
二人以上に運ばれている──その気づきが、恐怖を押しつぶすよりも『把握しなければ逃げられない』という判断を押し戻した。
噛み殺すように息を整え、鼓動の速さを押さえつけた。
◇
どれほど運ばれたのか分からない。
同じ速度で歩く者と、引きずるように歩幅の揃わない者がいる。その乱れが腕へ伝わり、扱われ方の差がはっきりと出ている。
その不一致を手がかりに、数歩おきに地面の沈みへ変わる感触を数える。
だが、上手くはいかない。
袋の内側では自分の息だけが反響し、耳を澄ませても街の喧騒は遠く、かわりに草を踏む微かな擦れが混じる。
湿った土の匂いが、途中から草の青い匂いへ移り変わり、風に運ばれてきた鳥の声が一度だけ高く跳ねた。
街では聞かない無き声だ。
森の縁か、林道か──そういう絞り込みだけでも、暗闇の中で位置を探る手がかりになる。
その匂いはすぐ途切れ、また土と湿気のこもった空気へ戻る。どこかの建物の中へ引きずり込まれたのだと、床の傾きが告げている。
袋が乱暴に引き剥がされ、私は床へ投げ出された。
目が慣れるにつれ、薄い明かりの中、小部屋は狭く、壁は湿り、床には泥の跡が幾重にも刻まれていた。
壁は粗い石を積んだだけで、隙間から外気がわずかに入り込む。床は左側へ下がっており、建物全体が片方へ沈んでいるようだった。
出入口は一つ、扉まで三歩ほど。
誘拐犯は、三人の男。
騎士団にいる誰にも似ていない、濁った光の目。奪うことへ慣れた人間の目だと、瞬時に察した。
恐怖が先に来たが、その次に来たのは嫌悪だった。こちらを値踏みする視線が、私を『人間』ではなく『品物』として測っている。
その目つきに、単なる盗賊ではない『目的の一致』がにじんでいた。
「あんたに恨みはねえが、あんたの前任からの依頼でな」
『前任からの依頼』──その一語で誰が背後にいるか分かった。
市場で憎悪の目を向けてきた女だ、と。
「馬鹿、ぺらぺら喋るな」
「いいだろ別に。明後日の夜明けには船の上。一月後には隣国の奴隷市で売り物だ、聞かれても問題ねえよ」
「ったくよお。……まあ、そういうわけだから、お嬢ちゃん、大人しくしてろよ」
縄を投げられ、手首を後ろで縛られる。
粗い麻紐が容赦なく食い込み、息が漏れた。
麻紐は固いが、指先に触れる繊維の端がほつれている。
袋に使われた布も厚手ではなく、手で探れば縫い目の甘い箇所があった。
──日が落ち、外のざわめきが次第に遠くなる。
男たちは交代で見張りながら低い声を交わしていた。
一人は足を引きずり、もう一人は酒の抜けきらない呼気で喉が濁っている。
三人のうち一番若い男だけが警戒心を保っているが、視線が散りやすい。
「船は明後日か……明日の夜明け前に動かなきゃ俺たちが捕まる」
「騎士団が本腰入れたら終わりだからなあ」
「本腰なんか入れるかよ、賄い婦に」
「ははっ。それもそうか」
「……つうか、味見してもいい?」
「えっ、俺もしたい!」
「馬鹿共が……だめに決まってんだろ、生娘じゃないと高値がつかねえんだよ」
「ちえっ」
会話が、肌の内側で冷たく広がる。
前任の賄い婦に嫉妬され、商品として計算され、ただそれだけで今ここにいる。その理解が背筋を固くした。
とんでもない奴らだ。
値札で人を測って生きてきたお前らなぞ、糞尿まみれになってのたうち回ったのち死ね、と心の中でこっそり思う私の奥ゆかしさを見習え。
ふいにグレイの顔が浮かび、顔を左右に振る。
……なぜこんなときに思い出したのだろう。
逃げ場を奪われた状況で、誰かの名を思い浮かべようとする自分が嫌だった。
助けを求める癖など身につけた覚えはないのに、状況が逼迫すると反射のように誰かを思い浮かべるらしい。
その反射が、私の一番嫌う『甘さ』に見えて腹の底が冷える。
──助けなど来ない、と考えたほうがいい。
状況を動かせる手段は、自分の足と手だけだ。
結び目の角度、床板の軋む位置、男たちの呼吸の深さ。
どれを崩せば隙が生まれるか、順番だけを頭の中で並べ替えた。
◇
深夜。
三人のうち二人は、机にもたれたまま眠り込んでいた。
もう一人も、目をこするだけで、意識の半分は落ちている。
空気には酒と汗が入り混じり、湿った木材の匂いが低く沈んでいた。机の下には転がったワイン瓶が四本見える。
前祝いと称して飲んだらしく、部屋全体が酒の匂いを吸い込んでいた。
私は壁に背を預け、呼吸を整えた。
小部屋の隅々まで静けさが染み込み、三人の浅い息だけが途切れ途切れに続いている。
手首の縄はきつく、だが結び目は完全ではない。
指先に触れる麻紐の繊維を一本ずつ辿り、どこが緩んでいるか探った。
繊維の一部は汗を吸って硬くなり、別の部分は乾いたまま鋭く皮膚を裂こうとしていた。
皮膚に食い込んだ部分を押し広げるたび、指先に固い繊維が刺さる。その痛みが腕の内側へ鈍く押し上がってきた。
「……っ、い」
──抜けろ!
時間の感覚が曖昧になる中、指が一本、縄の外へ滑り出た。
息を潜めて力をこめると、手首がじゅっと焼けるように痛み、そのまま抜けた。
だが、問題はここからだ。
床の軋む場所、扉の音、光が漏れる角度。一つでも誤れば終わり。
眠っている二人の呼吸は浅く、もう一人は椅子にもたれたまま頭を揺らしている。
その首の角度が変わるたび、椅子の脚がかすかに軋んだ。
その音に三人全員が起きそうで、肺が動くのを抑え込む。
辛抱良く待ち、三人の呼吸が均されたのを見計らい、脚へ力を通して静かに体を起こした。
壁伝いに扉へ向かい、蝶番の位置を指で探り、錆びた金具の段差を確かめた。
扉の下部へ手を添え、木の繊維が擦れない角度だけを選んで押す。
内部の湿気とは違う温度で、一歩外へ出れば足音が外壁に跳ね返ると直感した。
扉の隙間から夜気が薄く流れ込み、皮膚の温度が急に落ちる。この冷たさですら、自分の動きを照らし出す合図のように思えた。
身を滑らせるように外へ出る。
外には本来一人見張りがいるはずだが、酒臭さが残っているだけで姿はない。中で眠っている。
走れ。
捕まるな。
生きて帰れ。
◇
遠くで狼の遠吠えが聞えた。
すでに五回は転び、膝の皮が裂けた場所から鉄の匂いが上がっている。
でもここでは止まれない。
足が痛い。
……もう走りたくない。
唇が勝手に震え、息が乱れた。言葉にならない音が漏れ、口内の温度が落ちる。
夢中で走り、何度も草の茂みに脚を取られた。
湿った根が足裏に絡み、土の重みが靴底へまとわりつく。
背後で何かが折れる音がした気がしたが、振り返る余裕はなかった。
……どれだけ走っただろう。
地面の傾きが変わり、靴底へ石畳の硬さが戻った。
その硬さが骨に食い込み、痛みが逆に街へ帰ってきた確かさを知る。
道の先に、ぼんやりとした灯りが揺れていた。
その光が見えた途端、視界の端が白く滲み、脚の動きが一拍遅れた。
辿り着くまでの数歩が、ひどく長く感じられた。
店先の油皿が夜風に照らされた程度の光が、『希望』に見えた。
私は、その光へ向かって歩いた。
足の裏に石畳の硬さを感じたあたりから、走る気力が削れていた。
そのため歩幅も揃わず、片脚ずつ引きずるような進み方になった。
やがて、見覚えのある通りが目に入った。
市場だ。
昼間は人の声で溢れている場所なのに、今は痩せた猫が一匹横切るだけで、通りは空っぽだった。
店先の前に座り込んでいた酔っ払いの男が、ちらりとこちらを見やる。
何か言いかけた様子だったが、私の顔色と格好を見た瞬間、言葉が消えたようで、すぐに視線を逸らした。
……寝る場所は騎士団の寮だ。
けれど、今はまっすぐ帰る気になれなかった。
なんせ血まみれ、泥だらけ。桶一杯、お湯が欲しい。だが、深夜に台所は入れない。
それ以上に──どうしても詰め所へ寄りたかった。
私は足を市場の端へ向け、城壁沿いの道を、息を殺しながら歩いた。
石造りの角を曲がると、騎士団の詰め所が見えた。
その前で、何やら揉めている声が響いている。
「放せ! 今すぐ探しに出ると言っている!」
グレイの声だった。
どうして、あんなに叫んでいるのだろう?
詰め所の入口は明るく、五人の団員がグレイを囲んでいた。両腕を押さえようとする者、背中を引いて止める者、前に回って行く手を塞ぐ者で三層になっている。
倒れた槍が二本転がり、机からこぼれた報告書が床一面に散って靴に踏まれていた。
鎧と肩が連続してぶつかり、止めに入った団員同士が「すまん!」と謝りながら押し返すという、混乱の形がそのまま視界に入ってきた。
「副団長! 深夜の捜索は危険ですってば!」
「そうですよ、せめて朝まで待っ──」
「朝まで待って何になる!」
「ぐ、ちょ、グレイさん! うっ、肘が入った……痛~~~っ」
「おい! 誰か! 手伝ってくれ! 副団長を止めるにはあと三人は必要だ!!」
「放せと言っている!!!!」
「ひえ~~」
その声量に、一人が押し返されそうになっていた。
私は、とにかく近くまで歩いた。
足を出すたびに視界がかすみ、石畳の起伏が歪んで見えたが、なんとか出入口の影まで辿り着いた。
入口に立つ団長がいたので、聞いてみることにする。
「団長様……あの、グレイ様は、どうかされたのですか?」
「それがなあ、リディアが攫われ──」
団長はこちらを振り返った瞬間、眉が跳ね上がった。
それから私の服についた血と泥へ視線を落とし、彼が叫ぶ。
「──リ、リ、ディア!? お、お前、無事だったか! おおいっ! 皆! リディアが帰って来たぞ!!」
団長の声にグレイの動きが止まり、ばっとこちらを向く。
金の瞳が、灯りの下で固まった。
肩を掴まれていないほうの手から指先の力が抜けたように見えた。
「…………ただいま戻りましたわ」
彼は一歩だけ前へ出た。
そして、その歩幅の先で、張りつめていたものが切れたように私の名前を呼んだ。
「リディア……!」
走る勢いではなく、落ちるように近づいてきて、私の肩を掴み、その腕が私を抱き寄せた。
息も乱れている。普段の冷静さはどこにもない。
私より高い体温が体を包む。
呼吸を抑えきれないときのように、熱が断続的に押し寄せる。
私は、その腕の重みだけで、現実へやっと戻ってきた気がした。
「無事で……良かった……」
グレイが絞り出すように言った。
返事より前に身体の重さが急に戻り、膝が落ちる。
落下の気配に合わせて腕が腹の下へ回り、地面へ沈む前に受け止められた。
「部屋へ運ぶ」
私は逆らえず、ただ彼の胸元の布を掴んだ。
──走り続けた先に、この男のいる場所しか浮かばなかった。
帰ってきたかったのは、騎士団そのものではなく、この男のいる騎士団だった。
視界が沈む寸前、その事実だけが頭に残った。




