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【3】甘い贈り物と、路地の視線

 私が騎士団の台所で働くようになって、八日が過ぎた。


 あれほど荒れていた食堂も調理場も、今では人の声と食器の音で満ちている。


 昼の喧噪が終わり、夕食の賑わいが過ぎて、皿を拭き終えた団員たちが「風呂が混む前に行く」「巡回の時間だ」と言いながら持ち場へ散っていった。

 私だけが後片づけの仕上げを引き受けたため、台所には一人で残っていた。


 しいん、と静寂がうるさい。などと矛盾した感想を抱くが、この静けさは伯爵家で感じていたものとは違う。

 孤独の冷たさではなく、働き終えた身体から熱が抜けていくような、落ち着いた達成感だった。


 二日前の昼、若い騎士たちが掃除してくれた部屋は陽当たりがよく、薄い毛布でも身体が休まる。

「ここが空いてるぜ」「陽が入るので暖かいですよ」と、押しつけがましくなく言ってくれたのだ。

 思い出すだけで、口角が上がる。

 今日も、食事を出すたびに「うまいっす!」「助かる」「おかわり!」と声が飛んだ。

 そのたびに、あの家で過ごした日々が、少しずつ遠ざかっていく。


 腹が満ちること。

 眠れる部屋があること。

 誰かが、私の作った料理を「美味しい」と言ってくれること。

 その全部が、今の私には信じがたいほど贅沢だった。



 空になった大鍋を磨きながら、ふと、背後に気配を感じた。

 振り返ると、黒い外套をまとったグレイが立っていた。革手袋を外して腰に挟む仕草で、今しがた持ち場から戻ったのだと察した。


「手伝うか?」


 低く、穏やかな声。

 私はエプロンの裾を軽く持ち上げ、礼を取る。


「私の仕事ですので問題ありませんわ」


 グレイは台所を一瞥し、歩みを短く止めた。


 表情は変わらないまま、眼だけが控えめに動く。

 丸椅子へ向けられていたはずの目が、途中で私の手元へ流れ、そのまま鍋の縁へ、また私の顔へ、小さな往復を描いた。

 そして、ようやく決心したように、隅の丸椅子へ腰を下ろした。

 背筋は沈まず、少し硬い。

 彼がどう距離を取ればよいか測っている最中だと分かった。


「……少し、話せるか?」

「ええ」

 私は、台所の手拭きをたたみながら、小さく頷いた。


 ふと、彼の視線が私の腕に落ちる。

 煤で少し汚れた袖を見て、眉がぴくりと動いた。


「君は……貴族の出だろう?」


 からかうでもなく、ただ静かに呟かれた言葉だった。


「そうですが、もはや、かつての身分に縛られる理由はございません」


 言いながら、自分でも驚くほど、あっさりと口が動いた。


 グレイは、じっと黙っていた。

 呼吸の深さを測るような間があり、ようやく、私は自分から口を開いた。


「私は、親に売られました」


 淡々とした口調で告げる。

 この人になら話してもいい、そう思えたからだ。


「借金まみれの家でした。私は、『最後の切り札』だったのです。娼館へ売られ、両親は私を置き去りにして逃げました。……あの店を摘発したのはあなた方でしたね。あのとき怒ってしまいましたが、今は助かったと思っております」


 そこで言葉を切り、炭で黒くなった指先へ視線を落とす。


「エルフォード家は、もう形だけのものでした。最後に残ったのは私だけで、名を支える者もおりません。そう思うと、自分が看板だけ残した影のように感じられます」


 グレイは、ただ黙って聞いていた。

 遮ることも、慰めることもなく、まるで冬の湖のような凪いだ眼差しで。

 私は、何かを手放すように、ふっと息を吐いた。


「『誰かのため』ではなく、『自分のために』何かをしたのは、たぶんこれが初めてなのです。ですから、今、初めて自分の手で生きております」


 少し硬くなった声を、グレイはじっと受け止めていた。

 そして、しばらくして、低い声を落とす。


「両親に会いたいか?」


 私は、首を傾げた。


「今の話の流れで、私が『はい』と言うと思いますか?」

「すまん」


 言いにくい、と顔に書いてある。

 そのまま視線が半歩だけ揺れて、言葉の続きが見当たらないようだった。


「……もしかして」


 私は、こういったことに目敏い。


「事情を把握しておられるのですね。両親の行方も、もう確認がついたのでしょうか?」


 問いかけに応じる前、彼の息がいったん止まり、言葉を選ぶ沈黙が生まれた。


「……ああ。逃亡していたエルフォード夫妻は、国境沿いの宿屋で身分を偽って潜んでいた。娘を──君を、娼館に売って得た金が、そのまま違法組織の金庫に流れ、国境警備の混乱に加担した証拠まで出た」


 グレイは続ける。

 声を整えるように喉が動き、視線が一点へ固定された。


「夫妻は王都に移送されたのち、半日の審問で爵位剝奪と全財産没収を即座に宣告された。家名は抹消され、平民より下の『無籍階層』として強制労働所に送致された。今後の復権は禁じられ、生涯、国籍台帳の欄外に『国家秩序を害した者』として記録され続ける」


 つまり、エルフォード家が没落したということだ──そのことを聞いても、私の胸は痛まなかった。

 だが、困ったことも出てきてしまった。


「教えてくださり感謝しますわ。……ですが、犯罪者の娘がここにいては、あなた方にご迷惑がかかってしま──」

「咎はお前には落ちない。罪は両親にのみ帰するものだ。お前は巻き込まれた側で、責められる理由など一つもない」


 遮られた言葉には、ほんの少しの『焦り』を感じた。


「…………では、私は……ここにいても、いいのですか?」

「いろ」


 一言だけだった。けれど、ありふれた同情ではない、重みのある声だった。


 私は目を伏せ、小さく頷いた。


 不意に、グレイが椅子から立ち上がる。そして、懐から包みを取り出し、押しつけるように渡してきた。


「……食え。この店の菓子は美味い。……なんだ、その、あれだ……美味い飯への感謝の気持ちだ」


 不器用な台詞と仕草だった。


 私は、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。


「ありがとうございます、グレイ様」


 心から礼を言う。

 本当に、嬉しい。


 グレイは何も答えず、くるりと背を向け、台所を出ていった。

 その背中を見送りながら、私は包みを胸に抱きしめた。


 包みの中身は、チョコチップクッキーだった。


 さっそく、一枚齧る。

 バターの風味と、ブラウンシュガーの甘い香りが口いっぱいに広がり、ゴロゴロとしたチョコチップの濃厚な甘さが一日の疲れを癒した。



 寝床に戻ったあと、灯りを消しても意識が冴えたままで、あの不器用な差し出し方ばかり思い返していた。

 誰かから贈り物を受け取った記憶は八歳で止まっている。屋敷を去る前の最後の使用人が憐れんでくれた飴玉があったきりだ。

 そんなに久しぶりなら、焼き菓子一つで落ち着かなくなるのも順当だろうと理屈では分かるのに、どんな顔で礼を言えばいいのか考え始めてしまった。


「……だめよ。勘違いしては、いけないわ」


 あの人はあれを、ただの労いとして渡したのだ。


 こちらが過剰に意識しているだけだと分かっているのに、台所に立つときの距離を想像してしまい、布団を頭まで引き上げた。



 ◇◇◇



 朝食の皿を片づけたあと、在庫を確認しようと貯蔵棚を開けたところ、少なくなっていることに気づいた。

 粉袋は底を見せ、干し肉も心許ない量しか残っていない。


「買い出しへ行ってきますわ」


 帳面を閉じ、外套へ手を伸ばしたところで、廊下の空気がすうっと動いた。そんな気がした。

 影が落ち、気配が近づく。


「俺も同行する」


 振り返るまでもなく、グレイの声だった。


「市場に行くだけですのに?」


 向かい合い言えば、「ああ、そうだ」の返事。

 朝に確認した彼の出勤札は白色だった。つまり非番だ。


「……非番ですのに?」

「そうだ」

「お休みしなくてもよろしいので?」

「ああ」


 理由の説明はない。

 だが、断らせる気はないらしい。


「では、お願いします……」

「ああ」


 何を気にして同行するのか分からず、理由を測りかねた。

 もしかして、金額をごまかすと見られているのか、と思考が一度止まる。

 両親の残した悪評を思えば、そう判断されても不思議ではない。



 彼と並んで騎士団門を出ると、いつも気安い見張り番たちが慌てて姿勢を正した。


 普段よりも周囲の視線がこちらへ寄っているのを感じ、気まずさをごまかそうとしたが、言葉が浮かばず、結局伝えそびれていた礼が口をついた。


「あの……昨日はありがとうございました。クッキー、美味しかったですわ。夜でしたので、一枚しかいただいておりませんが、大切に食べようかと思います」

「……そうか」


 ごほん、と空咳をする彼の耳が少し赤くて、それを可愛らしいと思ってしまった。

 そして、その赤みが消える前に、前から気になっていたことを口にした。


「グレイ様は、甘いものはお好きですか?」

「…………好きだ。……実は、目がない」

「ふふ。それならよかったです。今日はパウンドケーキでも焼こうかと思っていたので」

「……そうか」


 クッキーのお礼に、とは言わないでおいた。


 ◇


 騎士団を離れると、通りの人の流れが急に多くなった。

 屋台の声が重なり、通りの熱気が肌へまとわりつく。魚や焼き菓子の香りが、歩くたびに流れを変える。

 そんな周囲を気にするでもなく、グレイは歩幅を揃えて先へ進む。

 市場につくと、彼は店について案内をはじめた。

 どうやらこれが同行の理由だと分かり、ふっと肩の力が抜けた。


「この前の肉屋は避ける。品質が悪い」

「まあ。グレイ様は目利きができるので?」

「君ほどではない」

「ふふ、そうでなければ困ってしまいますわ」

「それもそうだ」


 そんな調子で市場を歩くあいだ、周囲の視線だけが落ち着かなかった。

 顔の整っているグレイは目立つ。

 放っておいても視線を集める男が、よりによって私の籠を持って歩いている。


「……み、見られていますわね」

「気にする必要はない」

「……」


 見られることに慣れている美男とは、これいかに。


 今の今まで異性と並んで歩く機会などなかったのだと気づき、歩幅を合わせ続けるだけで意識がそちらへ引っ張られるが、気を取り直して、野菜を選び、香草を束ね、粉袋を二つ手に取る。

 ただの買い物のはずが、そわそわしてしまう買い物になってしまった。


 そんな自分を持て余しつつ足を進めていると、近くの屋台の会話がふっと止まり、視線が流れた──裏通りの入口に、人影があった。


 若い女だ。


 グレイに秋波を送る女たちの目とは明らかに違う。

 言い表すのが難しい視線。笑みでも、怒りでもない。形の定まらない視線が、服の端から指先までじっくりと往復していた。

 重く、じとりした、そんな目線……。

 そして、私には誤解しようのない憎悪の目を向けている。


「……あ」


 声をかける間もなく、その女は踵を返して路地へ消えた。


「今の女性……」


 思ったままを口にすると、隣のグレイが足を止めた。


「あれは前任の賄い婦だ」

「え、私の前に働いていた女性ですか? 辞めたとおっしゃっていた……?」


 正確には、彼は「団員に不必要な接触はするな。前任者は、それで退いてもらった」と言っていたが……私はそれ以上は言わなかった。

 いや、言えなかった。言葉を足すより、違和感のほうが先に膨らんだのだ。


「団員との距離感が測れないようだったから辞めてもらった」

「……その団員とは、グレイ様のことですね?」

「そうだ。俺の私室に勝手に出入りしようとして止めたこともある。退かせた理由はそれだけではないが、対外的にはそういうことになっている。詳しいことは彼女の尊厳に関わるから言えない」


 グレイの言葉の余韻が落ち着いたころ、ようやく思い当たった。


 団員たちが「モテ過ぎるのも考えものだ」「私室に裸で忍び込まれるのは怖い」「いや、俺は嬉しい!」と騒いでいた、あの噂。

 あれは、この件だったのか。


「……つまり、グレイ様への恋心を暴走させ、業務に支障をきたしたのですね?」

「ああ。退いたあとも俺のことを聞き回っていたと報告は受けたが、細かい意図までは分からない。最近は君のことも聞いていたようだから心配でついてきたが……害はなさそうだな──彼女はもう騎士団とは関係がない。戻るぞ」


 それきり話題は途切れた。


 彼の同行の理由が、私の金の使い方の監視でも、店の案内でもなく、前任者が私に害をなさないかの見極めだったことが分かったところで買い物は終了した。


 ◇


 市場から帰ると、私はそのまま台所へ向かった。

 歩きながら組み直していた段取りを、早く手で確かめたかったのだ。


 粉をふるい落とすと粒が光を受けて散り、卵を割ると黄身の重みが掌へ落ちた。

 室温で柔らんだバターを木べらで押し返すと、ボウルの底が短く鳴る。

 木べらを回すたび生地の抵抗が腕に返り、混ざり合うたびに表面の艶が深まっていくのが分かった。


 台所が騎士団の空気に染まってから、こうした作業が以前よりも落ち着くように感じる。


「先ほど言っていたパウンドケーキか?」

 グレイに問われ、笑顔で返す。

「ええ。良い干し葡萄が手に入ったので、ついでに保存食用の分も焼きますわね」

「……楽しみにしていいのか?」

「もちろんです!」


 型へ流し込むと、生地が自重でとぷりと広がり、竈の奥で熱を含むにつれて縁から薄く色づいていく。

 その作業を何回か繰り返し、ある分の型すべてを焼いた。



 砂糖が焼けて甘い匂いが立ち、干し葡萄の酸味が混ざると、扉の向こうでドタバタと足音が聞えてきた。匂いを追ったらしい騎士たちが顔を出しはじめたのだ。


「何作ってるんですか!?」


「ふふ、パウンドケーキですよ。ちょうど焼きあがったので召し上がってくださいな」


 鈴なりになっていた団員たちは次々と、パウンドケーキを口に運ぶ。一口が大きい、気持ちの良い食べっぷりだ。


「俺、パサパサ系のケーキは……って、しっとりしてるぅ! んめえ~!」

「んん~~っ!? 南通りの菓子店のより美味いぃ!?」

「はにゃあ……おいちいぃ……」

「おかわりはあるか?」


 大げさな歓声をあげる騎士もいれば、黙って皿を差し出すだけの者もいる。

 彼らの反応を横目に、グレイが二切れ目を手に取った。


「……美味い。いくらでも食べられそうだ」

「ありがとうございます。ケーキに合う紅茶を用意いたしますね」


 熱湯を落とすと茶葉がふわりと開き、蒸気に渋みと甘い香りが混ざる。


 最初の皿が片づくころには、遅れて戻ってきた騎士たちがまた列を作り、口々に「次も焼いてくれ」「常備してくれ」と求めてきた。


 その笑い声の奥で、さっきの視線を思い出す。


 ──裏通りでこちらを見ていた若い女。


 あの目は、たぶん偶然ではない。

 彼女の視線の質が、私の知らないところで既に何かが動いていると告げる。

 ……そんな気がした。

 けれど、騎士たちの声が湯気と一緒に溶けていくのを聞いているうちに、彼女のことは頭から追い出された。

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