【2】置き去りの屋敷と、騎士団台所での再出発
あの騒ぎのあと、形式的な調書を取られただけで、「もう帰っていいよ」と声色を抑えて告げられた。
調書を担当した見習いらしき騎士は、私の身元になど興味もなく、ただ摘発現場の一人として扱っただけだった。
両親のことを尋ねられることもなく、私の素性など最初から誰も気にしていなかったのだろう。
行くあてもなく、冷たい外気が肌に刺さる路地を歩き続けた。
夜を越せそうな場所など思いつくはずもなく、雨風をしのげる唯一の建物というだけの理由で、結局、伯爵家へ戻るしかなかった。
そうして屋敷へ戻ると、父と母の姿はどこにもなかった。
机の上には、書きかけの手紙が一枚。それも書き損じで内容は不明。悪筆なので、父だろう。
鵞ペンが斜めに転がり、インク壺は空になっていた。
応接間のキャビネットは空っぽ。
玄関に置かれていた外套掛けも空になり、棚の上の小物まで消えていた。慌てて持ち出したことだけが伝わる乱れ方だった。
屋敷を出てからたいした時間は経っていないはずなのに、この空虚さは、前から出口だけを探していた者の手つきだと嫌でも分かった。
金目の物という金目の物は、すべて持ち去られている。
つまり、両親は、私を娼館に売って得た金を握りしめ、夜のうちに逃げたのだ。
残されたのは、広いばかりで冷えきった屋敷と私一人。
使用人など、とうの昔に解雇されて久しく、屋敷の管理はすべて母が『妻の手慰み』と称して放置していた。
もはや、水は出ず、風は通らず、壁には雨の筋が染み込んでいる。
不幸中の幸いだったのは、ここに誰もいなかったことだ。
当然、両親の心配なぞしてない。使用人たちがいたなら、私は彼らの生活の心配まで背負わねばならなかったかもしれない。
自分一人を養うのが精一杯の状況で、誰かを守る余裕などない。
その意味では、置き去りにされたのが、私だけというのは僥倖と言えるのかもしれなかった。
もっとも、私を売った金が、両親にとっての『最後の資金源』だったのかと思うと笑うほかないのだが。
……いや、笑えない。
親というのは、子の未来を託す存在だと、ほんの少しは信じていた自分が情けない。
ほんっとに情けない。
屋敷の石造りの壁に背を預けて、私は腹の虫が鳴るのをじっと聞いていた。
パン一つ買える銅貨もない。
だが、座っていても、腹の足しにはならない。
誰に見られているわけでもないというのに、そう思った瞬間、みじめさが噴き上がり、私はようやく重い腰を上げた。
薄汚れたドレスの裾を軽く払い、通りへと足を踏み出し、屋敷の空気を背に押し出すように、つま先へ力を送った。
人々の喧騒が押し寄せる市場の中に紛れ込めば、しばらくは孤独も紛れるだろう。
と、思ったが実際は逆だった。人の中にいるほうが孤独は増す。いや、空腹が増す。
野菜を売る女の声、鍋を叩く露店の主、濃い香辛料の匂い熱気。
人の肩と肩が近く、すれ違うたび布と革の擦れる音が耳に触れた。
煮込みの匂いに混じる香辛料の刺激が肺に入り、現実が喉を掴む。
どこかに、パン一切れと引き換えに、何かをさせてくれる場所はないだろうか。
今日を越えられるなら、選り好みしている場合ではない。
皿洗いでも、雑巾がけでも、荷運びでも構わない。
貴族の矜持など、とっくに埃まみれの納戸に置き捨てた。
生きるために使える手なら、何だって動かす覚悟はある。
そんな思いを巡らせながら通りを歩いていたとき、前を横切った人波の向こうに、一人だけ明らかに場違いな黒が立っているのが目に入った。
足取りが浅くなり、つま先が石畳を探るように止まった。
鍛えた体に沿う黒い外套、肩口には王国騎士団の紋章。
昨日、娼館で見た黒い軍装と同じもの。
そして、銀の留め具と整った横顔は、見間違えようがなかった。
あの騒動の中で、私に声をかけた騎士だ。
「騎士様!」
張った声は、思った以上に大きく響いた。
男が振り返り、そして、目が合った。
私が呼んだ声に反応したのか、彼は群衆の波の中でこちらに歩いてくる。
道ゆく人々が自然と脇に逸れ、やがて彼は、石畳に立ちすくむ私の前で足を止めた。
私は、他家のメイド服よりも粗い縫い目の古びたドレスの裾を握りしめ、内心では喉の奥に詰まった何かを押し出すようにして、一歩、前に出た。
「君は、昨日の……?」
「ええ、あなた方が摘発した店の従業員ですわ。リディアと申します」
「リディア……って……」面頬の奥で、彼の眉がぴくりと動く。「もしかして、エルフォード夫妻の娘か?」
「両親のお知り合いでしょうか?」
「知り合いというか……」
男の声に、言いにくさのような濁りが混じるも、私にはそれを追求する元気も時間もない。
周囲の人々がちらちらとこちらを見てくるが、私は視線を遮らず、まっすぐ彼を見上げた。
「とにかく、あなた方のせいで、私は職を失いましたの」
誇張でも、嫌味でもない。
事実である。
だからこそ、私は胸を張った。
「ですので、お仕事をくださいませ!」
男は一瞬、目を細めた。
「……料理の心得はあるか?」
逃げ場を失った者の必死さだけは、彼にも伝わったらしい。
「ございます。少しだけ。家では、食事作りを任されておりましたので」
その言葉を聞いた途端、男の視線がわずかに変わった。
値踏みでも同情でもなく、こちらの『使える部分』を探るような、『人事』の目つきだ。
私は何か言わねばと焦り、思いついた順に口をつないだ。
「煮込み料理と、揚げ物が得意です。パイと、ジャム作りも。……あの、以前、料理を生業にしている方に少し褒めていただいたことがございます」
言ったあとで、自分がやけにがむしゃらに聞こえた気がして、喉の奥が熱くなる。
男は腕を組み、短く息を吐いてから考え込んだ。
市場の喧騒が二人のあいだをすり抜け、その沈黙がとてつもなく長く感じられる。
「……」
「……」
それからようやく彼は、小さく頷いた。
その頷きには、仕事相手を見極めた者の納得がにじんでいた。おそらく、私の短い爪や荒れた手が判断材料になったのだろう。
「丁度、賄い手が足りていない。やってみるか?」
男は腰の鍵束の中から、一つの鉄鍵を迷いなく選び取った。その動きだけで、ここに出入りする権限が『彼のもの』だと分かる。
私は鉄鍵を受け取り、深々と一礼した。
「ありがとうございます。精一杯、務めさせていただきます」
ようやく、地面の下に沈んでいた人生に、一筋の横道が見えた気がした。
道がどこへ続くかは分からない。
けれど、少なくとも今は踏み出す足が前を向いている。
人生、転がり続ければ意外と道は開けるものらしい。
それが、たとえ騎士団の台所であろうとも。
◇◇◇
こうして私は、王国騎士団の『台所』へと辿り着いた。
もちろん、それは文字通りの意味であり、比喩ではない。
ちなみに、台所に行く道すがらの市場の屋台にて、串焼き五本と果実水と揚げ団子と蒸かし芋を買ってもらった。全部食べた。美味しかった。
男──グレイ・ランヴェルク副団長に無言で案内された先は、騎士団本部の裏手に位置する古びた石造りの建物だった。
壁には煤けた跡が残り、扉の蝶番はきしみ、入口の床石には油染みらしき黒い斑点が広がっている。
グレイは扉の前で足を止め、何の説明もなく、ギィと音を立てて扉を開けた。
中から立ちのぼる、何とも言えない混沌の匂い。
彼は中を一瞥し、低く言った。
「……試しだ。ここをまともにできるなら正式に雇う。できなければ即刻追い出す。それと一つだけ──団員に不必要な接触はするな。前任者は、それで退いてもらった」
その声音には容赦も情けもなかった。
けれど私にとっては、それで十分。むしろありがたい。
曖昧な情や馴れ合いで与えられる居場所より、明確な基準と実力主義のほうが、よほど居心地が良い。
私は拳を握り、一礼した。
団長は既婚で寄宿舎も食堂も使っておらず、台所の人事は副団長に一任されていると耳にしたばかり。つまり、この男が私の人事を握っているというわけである。
腹を括ろう。
ここで駄目なら次はない。
──そして、扉の中へ足を踏み入れ、立ちすくんだ。
「……」
『言葉を失う』という表現が腑に落ちる。
グレイの「ここをまともにできるなら」という言葉の意味が骨身に染みた。
床一面に、小麦粉が吹雪のように散乱している。
調理台には焼け焦げた鍋がそのまま放置され、鉄の鍋は内側が炭のように真っ黒。
半分火の通った肉は、切りかけのまま冷え、手を加えた者の気配を途中で失ったように放られている。
野菜は山のように積まれて、半分は変色し、あちこちにカビらしきものが浮かんでいた。
焦げ、脂、酸味。それらが混然一体となって空気に染み込み、頭の奥で鈍い痛みをきしませる。
ここは台所などではない。調理という営みが敗北した、戦場だ。
言葉を選ばずに言えば、一言で片づく惨状である。さすがに口には出さないが。
「……ええと」
思わず場違いな声が漏れた。
室内には数人の騎士らしき男たちがいて、それぞれに無言で作業をしていた。
焦げついた鍋を無造作に突きまわす者、落としたパンを拾い上げて平然と棚に戻す者。
調理器具の持ち方からして怪しく、包丁の刃先が逆を向いているのを見てしまったときには、さすがに視線を逸らした。
「どうだ?」
グレイの声がすぐ背後で響く。
私が無言でいた時間を、彼はじっと見ていたのだろう。
「手を入れる余地が、たっぷりございますわね」
私は、できるだけ穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「なるほどな」
続きを言うのかと期待したが、彼は黙ったままだった。
この惨状を立て直すには、『料理の心得』などという甘口の言葉では到底太刀打ちできない。
けれど私は、ただの令嬢ではない。
火加減の妙も、味を整える勘も、持っている。
安い食材をどう扱えば美味しく食べられるか、傷んだ野菜はどの部分を落とせば安全か。
森で摘む草のうち、薬になるものと腹を壊すものの見分け方までも。
だから私には、見ればすぐに分かる。
あの鍋の焦げつきは、火加減が強すぎた証だ、と。
あの肉は、常温で長く放置された痕跡がある、と。
あの野菜は、芯を落とせばまだ煮込みに使える、と。
すべては飢えと貧しさの中で身につけた生存の知恵。
これらは身体が先に動くほど染みついている。
エプロンを腰に巻き、きゅっと結んだ。
「では、早速、始めさせていただきます」
グレイはその様子を黙って見ていた。
相変わらず無表情だが、ただの無関心とは違う。その瞳の奥に、わずかな、それこそ、塩一つまみ程度の期待が滲んでいる気がした。
この惨状を、再び『台所』と呼べる場所へ。
人が落ち着いて食事を作り、安心して口へ運べる空間へ。
◇
まず手をつけるべきは、掃除だった。
炭まみれの竈も、煤けた壁も、床に転がった干からびた野菜も、私は一つ一つ、手作業で片づけていく。
火の残った炭をならし、黒焦げの鍋はこすりにこすって鉄の肌を取り戻す。
釜の縁についた煤も、荒縄と灰を使って磨き上げる。
やがて、石造りの竈から、炭と石鹸がほんのり混じった、素朴で清らかな匂いが立ち上りはじめた。
腐りかけた肉は潔く処分し、まだ使える野菜は汚れを落として別の籠へまとめた。
しなびた葉は、とりあえず冷水に沈めて状態を確かめる。
鍋には掃除用の湯を張り、汚れを落とすために弱火で温めた。
炭火の赤い光が石畳に反射し、冷え切っていた空気の澱みがゆっくりと散っていく。
「うわ……台所って、こんなに広かったんだな……」
作業を手伝わされている若い騎士が、目をまん丸にしてぽつりと呟いた。
私はほうきの柄を持ったまま、にこやかに答える。
「掃除が終われば、次はいよいよ本来の使い方ができますわ」
ほうきを壁に立て掛け、袖を一度まくり、磨き上げた竈の上に新しい鍋を置く。
──そう、本来の使い方。料理である。
大鍋にたっぷりと水を張り、まずは新鮮な鶏肉と香味野菜を投入する。
コトコト、コトコト。鍋の奥で小さな泡が規則正しく弾けた。
人参の甘い香り、セロリの清涼な香り、ねぎの青くすがすがしい香り。
やがて、それらすべてが溶け込み、金色に澄んだ極上の出汁となる。
パン生地も、炉の片隅でじっくりと火にかけた。
パチパチと軽やかな音を立て、ふっくらと膨らんだ表面が、じわじわと黄金の焼き色をまとってゆく。
かすかに香ばしい小麦の香りが、鼻先をくすぐる。
鍋の中では、じゃがいもがほくほく、キャベツが湯に触れて層を緩ませ、ふんわり湯気を立てる。
くつくつと深みのある色を深めながら、肉がほろほろと煮崩れていく。
気づけば、台所中が野菜と肉の煮込みの香りで満たされていた。
その匂いに誘われて、騎士たちがぞろぞろと集まる。
けれど、彼らの顔には、警戒と期待が入り混じった、何ともいえない表情が浮かんでいた。
……無理もない。これまでは、焦げたパンか、酸っぱくなったスープか、そのどちらかしか出てこなかったのだろうだから。
だが、私には自信がある。
だから、大鍋の前に立ち、堂々と宣った。
「さあ、冷めぬうちに召し上がれ!」
最初の一人が、恐る恐るスプーンを手に取る。
ぽってりとしたシチューをすくい、そっと口元へ運ぶ。
次の瞬間。
「う、うまいぃぃ……っ」
呻くような声が、鍋の湯気の中から漏れた。
続いて、他の騎士たちも次々とスプーンを手にし、あちこちから驚きと歓喜の声が上がる。
「この野菜、甘い!」
「肉が……柔らかい! ほろほろだぁ!」
「口の中、極楽すぎる……」
「はわわぁっ。おいちいぃぃ」
わいわいと騒がしくも嬉しそうな声が、石壁に反響する。
隅に立つグレイも、無言のまま、シチューを一匙すくう。
口に運び、味を確かめるように目を閉じる。
そして、ほんの一瞬だけ。きりりと引き締まった目尻が、ごくわずかに角度を緩めた。
──手応えあり。
エプロンの裾を整えながら、私は充実感を味わった。




