【1】娼館行きを命じられた令嬢と、騎士団の摘発
夕食の時間。広い食堂の隅で、冷えた蝋燭の光が、銀食器の縁を鈍く照らしていた。
皿に盛られたのは、硬く乾いた黒パンと、うっすらと色のついたスープ。
肉の姿はなく、脂の香りもない。煮込まれた豆と野菜の色だけが、役者を欠いた皿の中央に残っている。
かつては領地の年貢で食卓に肉が並んだ時期もあったが、父が管理を放り出し、領地を王家へ返還してからは食卓の内容が削られ、今ではここは『爵位だけが残った家』である。
エルフォード伯爵家の名は、本来なら誇り高いものだった。
先祖は王に仕えた優秀な近臣で、戦乱を収めた功績により爵位を賜ったと伝えられている。
その名が、薄い味のスープと黒パンの晩餐に沈んでいるのだから、先祖が棺の中で泣いていないか心配になる。
誇り高かった家名も、今や羽より軽い。
それでも父と母は、何事かを演じるように、銀食器を手に取り、白い手袋をはめた手元を気取って動かしている。
貴族とは、かくも滑稽なものか。
皿の上に何が盛られていようと、体面と形式さえ整っていれば、それで貴族は貴族なのだというのだから馬鹿馬鹿しい。
私は空腹に軋む胃袋を押さえ、無言でパンにかじりついた。
ごつっ、と音がして前歯に衝撃が走る。
「……」
同年代の令嬢たちは舞踏会で華やかにお披露目され、将来の夫候補を探しているというのに私はどうだ?
──黒パンと格闘している。
思えば、『令嬢らしい暮らし』というものを、送った覚えがない。
二十歳の令嬢が、デヴュタントも済んでいないなど、誰が信じるだろうか。
しかも婚約者もおらず、それどころか縁談の話は一度も来なかった。
伯爵家の惨状を知る者が避けたのか、私が『可憐な令嬢』に見えなかったのか、あるいは両親の評判のせいか……そのあたりは誰にも確かめようがない。
使用人が消えてからは、破れた寝具を繕い、埃の溜まった廊下を一人で掃き歩いている。
刺繍ではなく『実用の裁縫』の腕ばかり磨かれる令嬢など、そう多くはあるまい。
だが、家が崩れゆく速度のほうが早い以上、針仕事くらいは自分でこなせなければ生き残れないのだ。
この家で働く手は、もう私しかいない。
けれど、この程度の努力など両親の浪費の前では、井戸へ滴る一滴にもならない。
顔立ちだけなら「美人」と言われたこともあるのに、父と母を反面教師にしたせいか、令嬢らしい儚さやふんわりとした甘さは欠片もない。
どちらかといえば『一人で荒野に放り出されても生きていけそう』な面構えだ。
もっとも、満足に食べていないせいで骨ばっていて、華奢さだけはご令嬢方に羨ましがられそうではある。まあ、羨ましがられたところで、こちらは健康が心配なのだが。
しかし、仮に誰かが縁談を持ってきても、きっと私のこの『荒野対応型の顔』を見て引き返したに違いない。
スープの皿に手を伸ばし、スプーンで一匙すくって口に運ぶ。
口に広がるのは薄い塩気と、豆の青い匂いだけ。
食事とは、空腹を満たす営みだとばかり思っていたが、これはもう、胃に空気を注いでいるだけにすぎない。
だが、この不味いスープは、私が作ったものである。
とはいえ、私は決して料理が下手な女ではない。そこは誤解していただきたくない。
材料も調味料も底を突いているせいで、今の味は低い水準に落ちているだけで、本来の腕は『料理上手』の部類に入る。
自己申告だが、これだけは信じてほしい。私だから、この程度の不味さなのだ。
台所に立つことを恥としている母は、かつて平民の女中に命じて作らせていたが、彼女たちが去ってからは、私が代わりに引き継いだ。
金のかからない工夫だけが、この家で私に許された数少ない自主性である。
そんなわけで、私は草の名前を覚え、煮方を試し、塩の加減を探った。
「──リディア」
長い沈黙の中で、父が唐突に私を呼んだ。
「お前も、もう年頃だ。そろそろ、家のために働いてもらわねばならぬ」
こちらを見ることすらしない声。
実の娘へ向けるべき気配が一欠片もない。
口の中に残ったパンくずを無理やり飲み下し、問い返す。
「働く、とは……奉公ですか?」
「まあ、そのようなものだ」
父はあらかじめ用意していたであろう小さな紙片を差し出した。
「二日後、ここに行きなさい」
紙には、娼館の名前と雑な地図が殴り書きされていた。
刹那、食堂に冷たい沈黙が落ちた。
「ごめんなさいね、リディア……」
母は白いハンカチを目元に当てたが、生地は乾いたままだ。涙など一滴もないのに、泣く仕草だけで全て許されると思っている。
しかも、絹のハンカチだ。以前から密かに出入りしている馴染みの商人がいて、母はそこからだけは品物を取り寄せる。金がなくても支払いを先延ばしできると踏んでいるのだ。
そんなものを買う金があるなら肉が食べたいが、この母ときたら欲しいものがあったら買わずにはいられない性分である。いや、病気なのだろう。きっと、買い物をやめたら死ぬ生き物なのだ。
そもそも、自身の異母姉から父を奪うようにして結婚して以来、親戚づきあいをすべて失っているというどうしようもない人間である。
父は顔色一つ変えず、言葉を重ねる。
「親孝行できると思ったときに親がいないというのは寂しいことだからな」
「……」
親孝行されるほど『親』をしたこともないくせに図々しい──地獄に堕ちろ。
さすが領地を失って以降、その場しのぎの言葉で全てをやり過ごしてきた人間の言葉だ。
帳簿の数字もろくに読めないくせに、こういう判断だけは大胆である。
「今がそのときだ」
「……」
つまり、父は「若く、汚れぬうちに、売り飛ばさせてくれ」と言いたいわけだ。
それが、この家が掲げる救済策らしい。
いや、救済などではない。ただ、少しでも多くの金を引き出すための、打算でしかない。
私は、笑った。胃からせり上がる冷たい乾笑いを、上品な形に取り繕って。
「承知いたしました」
声は、奇妙なほどに澄んでいた。
尊厳を失いかけたときほど、叩き込まれた礼儀が先に動く。
幼いころから、家格だけは保とうと両親が見栄に固執し、家庭教師を雇ってまで礼儀作法だけは叩き込まれた。
背筋を伸ばし、テーブルに肘をつかず、完璧な礼儀作法を崩さずに、私は続ける。
「いっそ、高く売れてみせますわ」
誇りなど、とっくの昔に骨の髄まで食いつくされている。
なのに、なおも形式にすがって言葉を飾る自分が可笑しい。
屋敷の修繕も、暖炉の薪も、食料の買い出しも、できる限り私が埋めてきた。
それでも家計は底が抜けた袋のように落ち続け、最終的に売られるのは私自身。
近ごろは、いつの間にか姿を消した家具や食器が増えた。父と母がこっそり質に流しているのだろうが、これについての説明は一度もされていない。
浪漫も夢も幻想も、祈る神すら残っていない。
私は、冷え切ったスプーンを置いた。
これ以上、偽りの晩餐を続ける意味はない。
家に残る理由も、家にすがりつく理由も、もうどこにもない。
それに娼館に行けば腹が膨れる。
◇◇◇
娼館の門を初めてくぐったとき、最初に抱いた感想は、「寒い」だった。
昼間だというのに、館の中は薄暗く、石造りの廊下はしっとりと湿り気を帯びていた。
光はすぐに壁に吸い込まれ、窓から差す陽すらここでは無力らしい。
足元にはじんわりと冷気が這い寄り、靴の底を通じてじくじくと足首を凍えさせる。
私は、この『寒さ』が空気のせいなのか、それとも未来への不安のせいなのか判断できなかった。
背筋をすうっと冷気が撫で、息が浅くなる。
……いや、弱気にはなるまい。
ここで働けば飢える心配はない。三食は出る。
両親に振り回される日々も終わるのだ。
着慣れない、けばけばしいドレスの裾をぎこちなく持ち上げながら、私はその場に突っ立っていた。
生地は肌に馴染まず、肩はどうにも落ち着かず、何もかもが私の輪郭にそぐわない。
借金の抵当に出された衣装部屋から、残っていた『派手だけが取り柄』の古着を無理やり着せられた結果である。
赤と金の刺繍をこれでもかと散らしたそのドレスは、私の意思など最初から無視して、『売り物はこちらです』と告げる札のように身体にぴたりとまとわりついて離れない。
まさか、自分の身なりが値札代わりになる日が来るとは思わなかった。
「こっちだよ」
案内役の女が、玄関で立ち尽くしていた私の腕をつかんだ。
慣れた仕草で廊下を進み、奥の小部屋へ引き込んでいく。
扉の内側は薄闇が溜まり、化粧品と香水、それに焦げた煙草の匂いが層になって漂っていた。
椅子に腰を下ろす間もなく、女は慣れた手つきで化粧道具を並べる。
筆もパフも使い古され、鏡の縁には何度も手入れを後回しにされたような染みが固まっていた。
「んじゃあ、とりあえず笑ってみせてぇ? 艶っぽく。こんな感じにぃ」
鏡越しに、女がシナを作り笑う。
私は、反射的に、完璧な貴族式の微笑を作った。
口元だけで微笑む。下品にならず、崩さず、感情を混ぜすぎず。
盾になる術として、これだけは嫌でも覚えた。
しかし、女は思いきり眉をひそめた。
「なによ、それぇ。そういうんじゃなくてぇ……ほらぁ、男に媚びる感じだよぅ、分かるでしょ? もっとこう、誘うような笑いっていうかさぁ」
「こうですか?」
ニィ。
女はあからさまに頭を抱え、「まあ、まだ若いもんねぇ」とため息交じりに肩をすくめた。
ふと、女の肩越しに、廊下の奥から重い足音が近づいてきた。
女が手を止め、顔をしかめる。
「……はあ、嫌なのが来たぁ。洗礼だから仕方ないんだけど、新人の最初の相手が決まってんのは最悪だよねぇ」
化粧の匂いがこもる狭い部屋に、ひやりとした気配が流れ込む。
先程から、廊下の空気が張りつめ、客の足音が途切れていた。
出入口のほうから人の動きが止まり、館全体の気配がぴたりと固まっている。
靴音が扉の前で止まり、ギイィ……と扉が開き、女と入れ違いに館の主らしい男が姿を見せた。
「代金はもう伯爵家が受け取ってるから逃げても無駄だぞ、うちは払った金分は必ず回収するからな」
第一声がこれだった。
黒い上着をだらしなく羽織り、無精ひげをあえて残したような顔つき。
ギラついた眼だけが異様に光っていて、入室するや否や、値段のついた肉でも扱うような視線が、顔から足先まで迷いなくなぞり、値踏みの数字だけを冷ややかに計算している。
男の顔には、仕事より下心を優先しているのが隠しきれない笑いが貼りついていた。
第一印象は最悪だった。
それでも、この場では彼が雇い主になるのだから、尽くさねばならない。
嫌だが、生きるために飲み込むしかない。
だからこそ、私は姿勢を正して礼を尽くした。
「ご挨拶が遅れました。本日よりこちらで務めることになりました、リディアにございます」
男はぽかんとした顔をし、口の端をひきつらせた。
あ、失敗した。
と思った。
この場に合わぬ挨拶だったと気づいた。
相手は返す言葉すら見つけられないようである。
挨拶の余韻がまだ宙に残っていた。
男が口を開こうと息を吸った、その一瞬の隙──
どんと扉が叩きつけられ、室内の空気が裏返った。
次いで、怒号が石の床を揺らすように響き渡る。
「王国騎士団だ! この館を摘発する!」
朗々とした声だった。
剣より先に理想を振りかざすような、若さと正義の混合物であり、法の重さよりも正義の熱気が先に飛び込んでくるようなはつらつとした響きだった。
館は即座に混乱に包まれた。
「ぎゃっ」「どいてよ!」という声が重なり、椅子ががたんと倒れ、グラスがころころと床を転がる。
階段から駆け下りてきた半裸の女が、ズダダダダッと勢いよく滑り降り、裾を握った男と正面からぶつかって、べしゃりと転がり込む。
別の男は、片足にしか通していないズボンを引きずりながらばたばたと裏口へ走り出した。
館の主が「どけっ!」と怒鳴り、私の肩を乱暴に押しのけて逃げる。
その勢いで体がぐらりと傾いたところで、視界の端で騎士服の若い男が横へ駆け抜けていく。
目の前を、逃げ出す男たちの背中と、転げる女の足が入り乱れて通り過ぎていった。
その裂け目の奥から、黒い布が足の動きに合わせて流れるように現れた。混乱の渦の中で、規則正しい靴音だけが床をしっかり踏みしめる。
現れた男は、戦場ではなく王宮の階段に立つべきような装いをしていた。
黒のロングコートは磨かれた革のように光を拾い、軍装は体の線をすっと描き、要所に散った金の意匠が、荒れた部屋では場違いなほど気品を放っている。
銀の髪が額に触れ、金の瞳がこちらを捉える。ひどく整った顔立ちで、場違いなほど絵になる男だった。
彼が私の前で歩みを止める。
「君、大丈夫か?」
周りのざわめきが一瞬止まり、空気が詰まる。
落ち着いた声が、現実離れした救いの形をして耳に届いた。
その問いかけに、私は即座に返す。
「大丈夫ではありませんわ!」
差し伸べられた手は、べしっ! と強めに払った。
「唯一の稼ぎ口が、たった今消えました!」
「……は?」
「どうしてくれますの!?」
騎士は理解が追いつかない様子だったが、こちらはそれどころではない。
明日からの食い扶持が消えるのだ。当然怒る。腹を空かせた生き物としての正当な怒りだ。私にとっては今まさに死活問題なのだから。
絶望である。せめて温かいスープ一杯飲んでから絶望したかった。
だからと言って、摘発が悪くないのは分かっている。
分かっているが、タイミングが悪すぎる。
そして、分かってはいるが言わずにはいられない。
「……許すまじ、騎士団」
こうして、私は腹を空かせたまま人生の分岐点を迎えたのである。




