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二人してオンボロ宿の部屋に戻る。アルと二人でこうして一緒の部屋で過ごすのはもう珍しいことではなくなっていた。二人部屋だというのにベッドが一つしかないのは、あの老婆が要らぬ気を回したのかもしれないな。
本当にアルと一緒にいると初めての体験ばかりだ。これまで長い間生きていたのに私は生きていることを放棄していた気がする。狩りに行ったり、服を買いに行ったり、星空を見たり。そんな些細なことがとても幸せで。アルが横にいてくれるだけでこんなにも景色は違って見える。願うなら、もっと早くにこの男に出会っていれば良かった。でもそれは私の勝手な願い。アルに願望を押し付けて、勝手に期待して。そんなもの迷惑だろう。ってこいつは私の事、迷惑じゃないとか言ってたな。本当に馬鹿な奴だ。
「どうした? 神妙な顔をして」
私が黙っていたせいか少し心配そうな顔でアルはこちらを見つめる。その表情を見ると胸の奥から何かが溢れ出しそうになって、慌てて首を振った。
いけない、この男の優しさに最近は甘えすぎている。何もかもを吐き出してしまいそうになる。ただのアイリスとして横にいられれば十分なのに、欲張ってしまいそうになる。
これ以上感情を踏み込ませたらきっと戻れなくなる。だから、今はまだ――――
「何でもないさ。明日また森を歩くと思うと少し憂鬱でな」
「行きは俺に抱えられてた癖によく言うぜ」
「……そうだな。お前がいてくれて助かったよ。感謝している」
素直に感謝の言葉を口にするとアルは照れたように頬を掻いた。こいつにはこういう態度の方が効果的らしい。なんだか新鮮な反応だ。
「アイリス、何を笑ってる。もしかして俺は茶化されたのか?」
おっといけない。つい素直なアルの態度に口元が緩んでしまったようだ。アルの問いに違うぞ、と答えながら口元を隠した。もう遅いか。
「すまない、気にしないでくれ。お前の反応が珍しくてな。いつも余裕綽々といった様子なのに。たまに可愛げのある反応が見れるとつい、な」
「何だそれ。俺だっていつも余裕ってわけじゃねえよ」
拗ねてしまったのか不機嫌そうに呟くアルがまだ面白い。やっぱり可愛いじゃないか。
「女とここまで二人きりってのも初めてだしな。どうしたらいいか分からなくなる時もある」
アルがそう言ってくるのは意外だった。普段の様子からは想像出来ない言葉だ。思わずまじまじと見てしまうとアルは視線に耐えられなくなったのかそっぽを向いてしまった。
いつも大人びているというか、いざという時は落ち着いている印象があるだけにその態度が新鮮で微笑ましい気持ちになる。
「私も初めての経験だよ、こうして男と二人きりで過ごすというのは」
そう返すとアルは驚いたような顔を向けてきた。それから嬉しそうに笑う。
あぁ、そういう顔を見せられると困ってしまうな。胸が締め付けられるようで、でも嫌ではない感覚。今まで私が知らなかった、知ろうとしなかったものだ。
もっと知りたいと思ってしまう。もっとアルの事を知りたくて、一緒に居たいと思えて。けれど同時にそれが叶わない事も知っている。だからこそ、私はこの時間を大事にしたいんだ。
「じゃ、お互い初体験ってことか」
「意味深な言葉を使うな」
わざとらしく肩を抱いてくるアルに突っ込みを入れつつ窓の外を見る。すっかり日が落ちてしまい暗くなってしまっていて、夜空に輝く星が綺麗に見える。こうして二人で並んで同じものを見て話せるだけで幸せだと感じられた。
アルという男は信頼できる。私はアルという男を何も知らない。アルの過去も、アルがあの森に一人で暮らしていた理由も知らない。それでもこうして横にいるだけでアルの良さを知っていった。アルは間違いなく私の恩人。私が消える前に私は彼に何かを残したかった。私が王宮から抜け出すときに持ってきたものといえば一つしかない。それはアレサンドラ王家に伝わる、代々アレサンドラ王家の女性に受け継がれてきた銀の短剣。この短剣には少々不思議な呪いがかかっている。その呪いに関係してこの銀の短剣は世界で最も信頼する男性に渡すというのがアレサンドラ王家の風習となっていた。要は結婚の時とかに男に送るモノというわけだ。私の場合はその前例を覆すことになるだろうが。
「なぁアル、お前に渡したいものがあるんだ」
私の顔を見つめるアルの手に、私はずっと持っていた鞘に収まっている銀の短剣を手渡した。
アルは私の行動の意味を理解していないようで不思議な顔をしていたが、それでいい。この短剣を渡す意味を知られたくない。この短剣を渡すということは『貴方を信頼しています』というメッセージだからな。そんなことを面と向かってアルに伝えられるわけがなかった。
「これ、お前がいつも持ってた短剣じゃねえか」
「ああ、それはプレゼントだ。アル、お前にやるよ」
そう言って私はアルに微笑んだ。
「大事なものなんじゃないのか?」
私の行動を不思議に思ったのかアルは首を傾げる。確かにこの短剣は私が産まれたときから肌身離さず持っているもので、お守りのようなものだった。大事なものには違いない。それでもこの短剣をアルに渡したかった。アルにアレサンドラ王家の風習を知られたら赤面ものだったが、この秘密は墓にまで持っていってやる。
「お前に持ってて欲しいんだ」
そう告げるとアルは少し考える素振りを見せたあとに分かった、と言ってくれた。
良かった。礼として価値の高い私の短剣を渡せたことに安堵しつつ、胸の奥にある罪悪感のようなものに気付いてしまった。私が消えてもこの短剣を見て私を思い出してほしい――――そんな私の女々しい願いが込められている気がするから。だからそれを否定するために言葉を吐いた。
「その短剣には希少なミスリル銀が使われ、貴重な呪いがかかっている。私を何度も助けてくれている礼だ。遠慮せず質屋なんかに持っていってもらっても構わない。王都の一等地に家が建つくらいの値段になるはずだ」
「マジか」
アルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、驚いていた。ふふっ、面白い顔だな。
「嘘をついてどうする」
「そんなん聞いたらもらえねぇだろ」
「俺に遠慮するなとか言ってたのはお前だろ? だったら礼くらい好きにさせろ。お前が持っておけ。あ、金に換えてもいいからな」
「そんな話聞いて売る訳ないだろ。分かった。……ありがとな、大事にする」
アルはそう言いながら、とても大切そうに私の短剣を受け取ってくれた。こんなにも喜んでくれるとは思わなかったな。
「俺もお前に何か渡せれば良かったんだが」
「服、買ってくれたじゃないか」
ちょっと申し訳なさそうにしているアルはそう言いながら頭を掻いていた。馬鹿な奴だ。既にアルは私に沢山のものを与えてくれた。それだけで十分なのに。
「値段的にこの短剣とお前に買った服じゃ釣り合わねぇって思っちまうが」
「礼というのは価値で釣り合いが取れるものでもないと私は思っている。お前のくれた色々なモノが私にとってはとても嬉しかった。だから、こっちの方が感謝しているくらいだよ」
アルだからこそ、私の短剣を託した。私の隣にアルがいる事実に何より感謝している。無限ではない時間の、大切な限られた刻。刻まれる時間の中でアルと共にいた時間が何より暖かかった。
「価値とか値段とかもあれだけどよ。プレゼントってのは誰から貰ったかとかも大事なもんだ。だからアイリス、ありがとな。お前からのプレゼントだ。大事にするぜ」
照れ臭そうにそう言うアルの笑顔は無邪気な少年のように幼く見えて、思わず胸がきゅっと締め付けられるような感覚に陥った。
「二回も大事にするとか言わないでいい」
胸を締め付けられるような感覚に気付かれたくなくて、ついぶっきらぼうな返事をしてしまう。きっと顔も熱くなってしまっているだろう。アルはそんな私の様子を楽しそうに、笑みを浮かべて見ているだけだった。
それからしばらく私とアルは他愛もない話を続けている。
この時間が永遠に続けばいいと、心の底から願う。アルと出会ってから私は初めて欲しいものが出来た。アルと一緒に居たい。アルのそばにずっといられたならどれだけ幸せだろうか。
残った時間は短い。迫りくる終わりの時にいつもより穏やかでいられるのはきっとアルのおかげだった。