上
ハッピーエンドのその先を考えるのが好きです。
今宵、この時。勇者と魔王は相まみえた。
姫は極黒の檻から助けを求めている。魔王が右手をついとあげると、横に控えていた使い魔が勇者の目の前に立ち塞がった。使い魔は黒い包帯を目に巻き、頬には幾何学的な文様が踊っている。魔王と同じく闇色に染まった髪は頬の横が長く後ろは短くなったウルフカット。細身の身体にまとう鈍色の鎖と突き刺すような長き10本の血色の爪が異質な様相を呈していた。
その身体から吹き上がる濃くどんよりとするような瘴気の圧に勇者はごくりと息を呑んだ。後ろに控えていた治癒師の少女が手を合わせ、何事か呟くと勇者の身体が瞬間光る。
先制攻撃を繰り出したのは使い魔の方だった。長い爪が振りかざされ、勇者は構えていた剣で受け止める。甲高い音が響き、衝撃のあまり勇者は吹き飛ばされかけるが、重心となっていた左足に力を込めて耐えた。
細身には想像しがたい押しの強さである。
その戦いは激しさを増す。使い魔の容赦のない攻撃に食らいつき、勇者の剣の切っ先が使い魔に届いた。使い魔の顔の黒い包帯が切れる。勇者の右腹に爪がかする。焼けるような痛み。だが、苦痛に歪んだその顔は、使い魔を見て驚愕に変わった。
「そんな、まさか」
伏せられていた睫毛がゆらりと開き何も映していない両の目が勇者に向く。
髪と同じく闇に沈んだ色。瞬間勇者の頭に新緑の匂いが立ち込め幼き日の幻覚が浮かぶ。己の名を呼ぶ舌たらずな声がリフレインした気がした。
『大人になったら結婚しようよ、ベラ!』
『しらないの?きょうだいはけっこん、できないよ』
幼い見た目に似合わない大人びた言葉、でも舌足らずで甘さのある声で兄を諫める。
『そうかもしれないけど!でも、ベラがお嫁に行くなんていやだ。ずっと一緒にいられるならどこだってついて行くし、何だってするよ』
一切の曇りのない目で兄は言い切った。妹はそんな兄に少し呆れた目を向ける。
『ベラも、そう思うでしょ?』
代り映えのない幸せな日常。少しの不満とそれを上回る穏やかな愛に満たされた。
だがその幸せは砂上の楼閣のように崩れ去った。
反転する情景、儀式の間。幼子は花嫁のような純白の衣をまとい、纏め髪には簪、唇には朱がさしてある。唇をきゅ、と結びその目線の先の空間に鋭い目を向けていた。そこに広がっていたのは質量をともなわぬもやもやとした黒い空間。一寸先は闇で何も見えやしない。
後ろで控えていた大人の言葉で、幼子は一歩前へ足を進めた。ふと、後ろが騒がしくなった。
ふすま戸が乱暴にこじ開けられる。思わず振り向き兄の姿をみとめた幼子は目を見開く。
「ベラッ、手を伸ばせ!俺が連れ出してやるから!!さあ!」
部屋に侵入しようとする少年を回りの大人たちは羽交い締めで止める。ベラは反射的に兄の方へ手を伸ばしかけ、ぴくりと引いた。「ベラ……?」
焦ったような兄にベラは微笑む。幾分か寂しさと切なさを含んだ表情で。その時、後ろでただ静かに存在していた黒い靄の空間が、耐えかねたように揺らめいた。黒い手が何本も飛び出し、ベラの身体を引きずりこむ。
『わたしも大好きだよ、おにいちゃん。でも、ごめん、ね』
呼べばいつだって、幾度も向けられていた、少年が世界で一番綺麗だと思っていた若葉の瞳が閉じられ、闇の向こうへと見えなくなっていく。
少年は大人たちの静止を振り払い部屋の中へと走りだす。
手が届いたと確信した。だが、一歩足りなかった。
黒い靄は瞬時に消え去り、まるで最初からそこには何もなかったようにぽっかりとした空間が広がっていた。
妹は魔王の花嫁として捧げられたのだ、と少年はのちに大人達の会話で知った。
少年は妹を奪っていった魔王とそれに連なるものたちが憎かった。
何とかして妹を助けに行かなければ。だが少年には魔王城への行き方も、魔王に盾突くための力も何も持っていなかった。
その頃、国の国境沿いは一部魔族による民衆の虐殺が起きていた。耐えかねた国は正規軍を出し、これを殲滅。だがそれにより、長きに渡る魔王軍対国軍の戦いの火蓋が切って落とされることになる。当初騎士位のみが戦争に参加していたが、魔王軍の脅威は想像を超えていた。国境沿いの地域は瘴気に侵され、半年も経つと国の4分の1ほどが魔王軍の手に落ちてしまっていた。
そこで国中の青少年が徴兵されることとなる。
少年はその一人として前線へと送られた。剣などろくに握ったことのなかった少年は、魔王への怒りと憎悪だけを力に死線を幾度も潜り抜けた。柔らかだった手にはたこができ、やぶけ、分厚く固く。身体中には傷が刻まれる。血で血を洗うような日々。そして少年はついに「勇者」という称号を受け、魔王軍に対する脅威へと成長していったのである。
戦争の狼煙があがってから実に8年が経過していた日のことであった。国のたった一人の姫が魔王によって攫われたのである。愛娘を取られた国王は逆上した。これまで守りに徹していた王は、魔王城への奇襲攻撃を画策したのである。突発力のある勇者はその鍵となる存在として、魔王城に乗り込んだ。
多くの犠牲を払い、勇者はついに魔王の控える王の間へとたどり着いたのである。当初勇者を旗印にいた精鋭100名と治癒師10名。今はもう傷ついた治癒師の少女と、勇者この二人だけしか残ってはいなかった。対する相手もまた、魔王と使い魔二人。濃く淀んだ瘴気の中一縷の望みをかけて臨んだ最終決戦の舞台。
妹が、今目の前にいる。
憎き魔王の手先として。
国王の無茶ぶりに一も二もなく応諾したのは魔王城にいるはずの妹の存在があったからである。捧げられてから9年弱、勇者は妹の生存を絶望的なものと思っていた。妹の魂の一かけらでも見つけたい。その蜘蛛の糸のようなつたない願いを胸に突き進んできたのである。それが、よりにもよって魔王の最たる使い魔として目の前に立ちふさがるっているなんて。
勇者には妹を手に懸けることなどできない。
剣を振るう戦意など欠片も残ってはいなかった。
呆然としたまま、「ベラ?ベラだろ、……」と名前を呼ぶ。額から血を滴らせた使い魔の目は濁ったままである。勇者の先程の攻撃により額に埋め込まれていた紅玉にヒビが入り、ふらふらとしていたが体勢を整え、勇者ににじり寄ろうとしていた。
勇者の様子がおかしいと気が付いた治癒師は声をあげる。
「その方はすでに闇に呑まれてしまっています!声など、届きようもありません!」
魔王から放たれる瘴気は人も自然も何もかもを黒く汚染する。進行してきた魔王軍によって、すでに国の半分は作物の育たぬ不浄の地に。逃げ遅れた人々は肉体も精神も闇に落ちた。人が黒きに染められるとどうなるのか。元の人格は破壊され、記憶も何もかも奪われ、ただ魔王に従属する傀儡と化してしまうのだ。
それを治すことができるのは、伝説に語られる聖女に相当する力を持つ存在だけ。
だが、今世、聖女は誕生していなかった。いるのは神殿に属するものたちの勢力。治癒師の少女はその中の一人でしかなかった。一般的な治癒師に使えるのは治癒〈ヒール〉と身体強化〈ビルド〉。それは勇者の力を底上げし、傷をいやしてきた。
今の治癒師の少女には、黒を白に戻すことはできなかった。
「ずっと探してきた妹なんだッ!!!」
悲痛な叫びに、治癒師の少女は瞳を揺らす。だが、それでも少女は自らの使命のために声を上げる。
「非道なことを言っているとは承知しています!けど、貴方しかこの世界を救うことはできないのです!!」
勇者は首を振る。剣を握る手の握力が弱まっている。そのやりとりをつまらなそうに睥睨していた魔王は口を開いた。
人間の耳には聞き取れぬ、呪いじみ雑音のかかった短い言葉が放たれる。
使い魔が跳躍する。勇者は動けない。いや、動かない。剣が手から滑り落ちかける。天を仰ぐ。使い魔を見つめる。そっと目を瞑る。襲来る凶爪を受け入れるーー。風に舞いあげられた木の葉が水面におちる、そんな感覚。全てがスローモーションのように勇者は体感していた。
それは、一瞬のことだった。指先に蛍の微かな光が灯りぴくりと動く。次に勇者が目を開けたとき、
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勇者は使い魔の紅玉を打ち砕き、魔王の心の臓に剣を突き刺していた。
何が起こったのか、その一連の行動をした本人である勇者自身さえも理解できなかった。ただ、返り血に染まった剣と己の手、絶命した魔王を見て後ろを振り返り、そして。
自らの最愛を手にかけたことに気が付き、絶望へと叩き落された。
「あ、あ、あああぁああああああぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」
それは魔王城を震わし、崩壊させるのではと思わせるほどの慟哭であった。勇者は使い魔に駆け寄り、その躯をかき抱く。瞳は閉じられ、顔には血が滴っている。温かさなど感じられない。
どうして、どうしてだと勇者は煩悶した。手にかけるつもりなど全くなかった。国がどうなろうと、使命がどうなろうと。勇者にとっての最優先事項は妹のこと。その妹が敵となって立ちふさがり、かつての妹には戻ることはなく、戦う選択肢しかないのであれば。勇者の心は決まっていた。自分の命などくれてやる、と。それでいい。と思っていたのに。何故、自分の思いとは裏腹に身体が勝手に動いていたのか。
勇者には魔王を一瞬で倒すほどの力などないはずであった。良くて相討ちだろうと。治癒されてきたとはいえ、疲労は蓄積し続け、その身体に負担がかかっていたのは確か。
ふと、勇者は気が付いた。
全身が軋むように痛い。四肢がもげそうなほどぎしぎしと言っている。まるで自分の限界を超え火事場の馬鹿力のその先の力を引き出したのかのような。
そういえば、一瞬の間に片がついてしまう摩訶不思議な現象を以前にも経験したことがあった、と勇者は思い至る。
目線を向けたその先にいたのは治癒師の少女。
掲げていた杖の先の微かな光が線香花火の最後の火が落ちるように消える。
「使ったのか、俺に」
勇者の問いかけに治癒師の少女は疲れたように目線を下げた。