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渡鹿野島の特攻基地  作者: 広瀬修一
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渡鹿野島

ウィキペディアよると渡鹿野島は周囲約7km、面積は約0.7平方キロメートル

的矢湾の奥に位置し、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・

樽廻船が増えたこともあり波が穏やかな海面となっているので古くより

荒天時の避難場所、風待港として使われて港としての重要性が高まり船乗り

などのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼はしりがね

と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島と

いった別名を持つこととなった。


とありますように今でも男性天国のように言われていますが、的矢湾は

真珠や牡蠣の養殖筏などが広がり風光明媚な景観を要し、温泉があり

近年ではテーマパークのスペイン村が近くにできたことや島内に

パールビーチなども整備されて、海水浴や宿泊地として家族連れや団体客に

利用されるほか島の形がハート形をしている

事からアベックの客も訪れるリゾート地に変貌しようとの試みがあります。



私はその渡鹿野島の対岸の集落で生まれ育ったのですが、子供の頃は渡鹿野島

で行われる祭りで花火が上がるのが楽しみで対岸によくに見に行ったものです。

学生時代は渡鹿野島の真ん前の真珠の養殖筏でアルバイトもしていたのですが

一度も島には渡った事はありませんでした。


さて話を戻しますが海軍として私の父が何故渡鹿野島に来たのかと言うこと

ですがウィキペディアにも、「第二次世界大戦中は島内に予科練の基地の

設置が計画された事などから、激しい空襲にもみまわれた」とありますように

特攻に関係があり終戦前の海軍では本土決戦に向けて準備をしていたようです。


《海軍の配備》

【水中水上特攻部隊】

沖縄水上特攻として、出撃した「大和隊」以降、日本海軍の残存水上艦艇は

燃料の極度の欠乏から、一部の小艦艇をのぞいて駆逐艦以上の艦はすべて

特殊警備艦に指定され、海上砲台として泊地付近の島陰に疎開、繋留された

のである。


これに対して、水上艦艇にかわって本土を防衛する戦力として重視されたのが、

蛟龍、海龍、回天、震洋などの水中、水上特攻兵器であった。

いまや、これらの特攻兵力は、本土決戦においては航空とともに海軍の

主兵力とみなされたのであった。


これまで捷号作戦に準備されたこれらの特攻兵力も、二十年になって逐次

整備されてきたので、本土邀撃の態勢強化上、これを建制化して特攻戦隊を

編成し、各鎮守府に配属して、特攻兵力の教育訓練ならびに各鎮守府の

担当海面の作戦を担任させることとした。

各特攻戦隊は、蛟龍、海龍、回天、震洋からなる突撃隊で編成され、

横須賀鎮守府の管轄である伊勢志摩には第4特攻戦隊の本部が鳥羽に置かれた。


【第13突撃隊】(鳥羽湾の島や海岸、愛知県にも展開)

本部 鳥羽湾ミキモト真珠島

第13突撃隊が置かれた鳥羽市といえばミキモトパールで有名ですが、

その発祥の地であるミキモト真珠島が戦争中 海軍の伊勢防備隊の本部に

なっていました。

また、鳥羽周辺の海岸や島には海軍の特攻機地が建設され、鳥羽市安楽島には、

ベニヤ板で作った軽量のモーターボートで体当たりする水上特攻兵器 

「震洋」 という海の特攻機が実践配備されていました。

愛知県の知多半島大井には回天の基地が作られたが魚雷が届かないまま

終戦を迎えた。


【第19突撃隊】(的矢、英虞、五ヶ所の湾岸、南紀にも展開)

本部 的矢湾渡鹿野島 

伊勢志摩の的矢湾の渡鹿野島にも第19突撃隊の本部が置かれ、的矢湾や英虞湾

さらに五ヶ所湾に「震洋」 や人間魚雷「回天」と自爆用の爆弾だけで無く

魚雷を2発積んだ有翼特殊潜航艇「海竜」が配備される予定で基地建設が

敗戦間際まで続いていた。

三重航空隊予科練22期生を中心に1200名が基地づくりの作業隊として導入されて

渡鹿野島に800名、安乗に200名、的矢と三ヶ所に200名が投入され7月下旬には

ほぼ完成した。

工事中に落盤事故やダイナマイトの爆発さらに空襲などにより数人の

犠牲者が出た。

8月に入ると22期生の四分の三は三重航空隊に戻り全国の防備隊、特別陸戦隊、

防空隊等に配属されていった。その前にも選抜により伏龍特攻隊への

配属もあった。


海竜や震洋は横須賀海軍工廠で作られていたが、制空権や洋上の支配もすでに

米軍下にあり、ほとんどが三重の海まで運ぶことができませんでした。

さらに潜水服を着て海底に潜み、竹竿の先に爆薬をつけた棒で頭上を通る

舟艇を破壊するという人間機雷「伏竜」も配備される予定でした。

しかし伊勢志摩の海の特攻隊は、実戦することなく敗戦を迎えました。


どうやら父は伊勢志摩が横須賀鎮守府の管轄でありその特攻基地の主計課

(経理や物資の調達、飯事等を担当)

の要員として本部がある渡鹿野島に来ていたようです。


なぜ海軍が伊勢志摩にこれだけの配備をしたのかということについては

陸軍との連携があったのかもしれません。


《陸軍の配備》

【本土決戦部隊】

1945年6月23日、沖縄本島における日本軍の組織的戦闘は終り、

大本営は、次の米軍上陸地点として、南九州(志布志湾、宮崎平野)と

南関東(相模湾、九十九里浜)を想定した。

しかし、昭和天皇は、米軍が伊勢湾に侵入して伊勢神宮の神鏡、

熱田神宮の神剣のご神体がある両神宮が米軍の手に落ちることを恐れて、

第153師団が京都で編成され司令部を伊勢市の神宮皇學館大学に置いた。


第153師団の編成

歩兵441連隊(敦賀) 渥美半島に配置 

歩兵442連隊(京都) 志摩半島南部に配置   

歩兵443連隊(敦賀) 志摩半島北部に配置


それ以前にも1945年1月に外宮が空襲を受けたことから伊勢神宮の

回りには高射砲隊が配備されており、砲台山と呼ばれる虎尾山が伊勢を

舞台にした小説「半分の月がのぼる空」の聖地としても有名になっている。


つまり海軍の配備も伊勢神宮と熱田神宮のご神体を守るという天皇の

意向を受けたものだったということですね。



[参考文献]

「花の予科練物語海軍少年飛行兵「桜と錨」青春記」 光人社 矢沢昭郎

「海軍伏龍特攻隊」 光人社 門奈鷹一郎

「群青に沈め―僕たちの特攻」 角川文庫 熊谷 達也

                              つづく

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