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渡鹿野島の特攻基地  作者: 広瀬修一
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自分史

私は2009年にガンを患い、医大に一年間の入院をよぎなくされて、

手術をして退院はしたのですが、いつ又転移や再発をするかも

しれない状況で、いやでも死というものに向き合わざるをえなくなり、

なにか書き残して置きたいという思いにかられて、小説という形で

「62の舟券」を書いたのですが、手術や抗がん剤治療の後遺症の

ために、ほとんどパソコンの前に坐っている生活が続き、

還暦をむかえて、本格的に自分史を書き上げてみようという気に

なって、そこでまず父母の事から書き始めたのです。


東京生まれの父は戦争中に三重県の志摩半島に来て、そこで終戦を

迎えたのですが、海軍の主計課にいて、物資を処分するために

一度東京に戻り、空襲により壊滅した東京の様子を目の当たりにして、

再び三重県の志摩に戻ると、そのまま住み着き母と結婚しました。


終戦当時は食料難で、農地法の改正などから地主だった母の実家

から田畑をもらい、そのうえに住む家まで建ててもらい、

疎開していた東京の祖父母も呼び寄せて、一緒に住むことになりました。


母の実家の跡取り息子だった長男が、戦死してしまっていたので父は

とても大事にしてもらっていたようです。


祖父は東京で工場を経営していたのですが空襲で焼け出されてしまい

再建を考えてはいたのですが息子である父が三重に住み着いて家を

構えてしまったので父の所に来たそうです。


ここで一つ疑問が出てきました。それはどうして志摩半島に海軍が

来たのだろうということです。


しかもそこは現在でも男性にとって夢の島と呼ばれる青線があった、

渡鹿野島というちっぽけな島だったからです。


父母共に今は亡く、父からは軍隊のことはほとんど聞かされておらず、

全くわからなかったのですがインターネットで検索して海軍関係の資料を

手当たり次第読み漁って見ると少しずつ分かってきたのです。


それはあまりにも意外な事実でした。               つづく



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