① 婚約者の女遊び
春の陽気に、ウィンゲート侯爵家の小川流れる庭での一幕。
木陰のテーブルで18の娘と15になる手前の少年が、小鳥のさえずりと共にゆったりとティータイムを過ごしていた。彼らは遠縁で繋がる、由緒ある上流貴族の子女。両家は代々懇意にしており、ふたりも幼い頃から姉弟のように慈しみ合う間柄であった。
18になったばかりの令嬢エステラ=ウィンゲートは、三月後に王立学院卒業を控え、それより時を置かずして婚約者の元に嫁ぐ見込みだ。そんな華やぐ折りにいる彼女の、表情の陰りを、貴公子アンドリュー=グラントは見逃さなかった。
「どうしたの、エステラ。浮かない顔をして」
「あら、ドリュー。もう姉さんとは呼んでくれないのね」
「もう5年前からそんなふうに呼んでないよ。時々思い出したようにそれを言うの、やめてくれないかな」
あどけなさの残る無垢な表情で不平をこぼしながら、彼はカップに残るアールグレイを飲み干した。
アンドリューは社交界を彩る多くの貴族令嬢よりよほど目立って愛らしい。事実、宗教画に描かれる無性の天使にも遜色ない容貌を彼は享受していた。
エステラはここで彼のつむじから口元までをじっと見つめる。プラチナブロンドの髪が木洩れ日を集めて輝き、新芽のようなグリーンアイはこれも瑞々しいきらめきを放つ。そんな彼の、このところの目覚ましい成長に目を細めるエステラだった。
「アンドリュー……」
「ん?」
まだ弟のように可愛がりたい半面、あと一歩で大人の世界に踏み込もうとする彼を、あんがい頼りに思う面もあるのだろう。
彼女はひとり抱え込んだ不安を、ぽつりとこぼす──。
「私の婚約者、モーガン=ネヴィルのことなのだけど……」
「ああ……」
アンドリューはげんなりといった様子だが、口にしたら思いに沈みゆくエステラはそれに気付くほどの余裕もない。
あいつ社交界で外面だけは良いよな。いつ本性を見せるんだか。と、いったん空を仰いでアンドリューは、彼女と自身のティーカップにおかわりを注いだ。
「親友が教えてくれたの。ボタニカル庭園で彼が女性を口説いているのを見たって」
いや、それはキャロル本人を口説いたのだろう。彼女は友人を思って間接的に報告したのだろうな、とアンドリューは子どもながらに推し量る。
「あの庭は一部の上流階級の間でさ……」
彼女に心労をかけるようなことは言いたくない彼であったが。
「出自を隠したまま同じ目的の異性を探し、一夜のアバンチュールを楽しむための逢引の場として有名だ」
「ええ知っているわ。キャロルは暮れ時の出来事だと言っていたけれど……。彼が夜間のそこに出入りしているなんて、信じたくない……」
アンドリューが黙ってしまったので、エステラは紅茶に口をつけた。
「あんな男と結婚なんてやめてしまえ」
この小さな呟きの直前、彼はカップに触れた彼女の潤む唇を盗み見ていた。瞬間どうにも居たたまれなくて、顔を背けて呟いたことで。
「ん? 何か言った?」
彼女には聞こえなかったようだ。
「いや。そんな噂の立つ男のもとに嫁いで君は幸せになれるのか? 今からでも父君に談判してみたら」
「まだ噂の段階よ……。私の一存でどうにかなることではないわ。私はただウィンゲート家長女としての責務を果たすまで。でもね、たとえ政略でも、こうやって何かの縁で繋がるモーガン様とは心を寄り添わせて、好くやっていきたいの」
「まじめだな……」
でもそこがいい、と彼は今、口にできなかった。
うららかな4月に入ったというのに、つと吹く風はまだ冷たい。
「あなたもとうに分かっているでしょう。私たちは自己都合で相手を選べない。でもあなたはどなたと縁組みされようとも、ずっとその方を大事にしてあげて。対等の立場で、よいパートナーとして尊重し合い、日々を暮らしましょうね」
「…………」
アンドリューはまた残りの紅茶を飲み干し、エステラの作り笑顔から目を逸らした。
月日は流れ、穏やかな気候の7月。
「エステラ、お前との婚約を破棄する!」
卒業記念パーティーの真っただ中で宣言したのは卒業生モーガン。何が起きたか、と参加者らは気もそぞろに注目する。ここには卒業生だけでなく、その親族や在校生も集っている。
モーガンの生家・ネヴィル侯爵家はこのところ王家の覚えめでたく、権力基盤の中枢に昂然として席を置く。資産の上でも他家の追随を許さず、その名声を笠に着て当家嫡男モーガンは秀抜ぶりを壮語していた。彼を諫められる者などこの場にいない。もしかしたらこれを何らかの岐路と見て、声を潜めている他派閥の者もいるかもしれないが。
「ど……どうして。いったい、何が……」
「私は知ってしまったのだ。このような事実、にわかには信じられなかった……。まさかお前が私を裏切り、他の男と密通していただなんて! しかも相手は不特定多数だと? ふざけるな!」
彼は額を押さえ、芝居がかった動作と共に言葉を放った。
切れ長の三白眼に長い睫毛と悪くない顔立ちのモーガンだが、顕示欲の強さゆえか大仰な衣装の着こなし、小物へのこだわりに余念なく。その洗練の足りなさが確かな目を持つ者にはやや鼻白むものであった。
「私は何もしておりません。そんな、密通だなんて」
「しらばくれるな。ここで証拠を突き出してやってもいいのだぞ」
「え……」
エステラが見るからに戸惑っている。それを受けモーガンは、いつどのタイミングで“仕込み”を取り出し見せつけようか、と獲物を見つけたヘビさながらの薄笑いを浮かべた。しかし彼にはもうひとつ、大衆の前で宣言したい事項がある。
「実はな、エステラ。お前がこれよりどれほど懇願しようとも、私がお前を愛することは不可能なのだ。私はとうとう運命の出会いに導かれ、抗えぬ恋に落ちてしまったのだから」
宣言がさっそく噴き出した。衆人の面前でわざわざ公開したいことの本命はこちらだったのだ。
「……今なんと?」
「私はどうやら“真実の愛”を手に入れてしまってな」
彼はとろけるほどの恍惚な顔をして、胸元でこぶしを握る。
「何をおっしゃって……」
「私の心を一瞬にして奪った、麗しい乙女の存在がある!」
「そんな……噂は本当だったの…」
信じていた婚約者からの通告にエステラは、哀しくその場に崩れ落ちた。
「あなたの相手は私だけではなかったの…!?」
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