新しい婚約者2
私は思わず手に持っていたパンを取り落とした。
今まさに食べようと手に取っていた焼きたてふわふわのパンが、真っ白なテーブルクロスの上をぽてぽてと転がっていく。
なに……?
なにを言い出したの……?
とうとう父の頭のネジがどうにかしてしまって、何か幻でも見たのだろうか?
私の頭の中に、怒濤の勢いで思考が駆け巡った。
私は昨日婚約破棄を「された」女である。
つまりは言いたくはないが、もともとロビンに陰で散々悪く言われていた私が、とうとう婚約を一方的に破棄されてさらに印象を悪くしたばかりなのである。
昨日のあの婚約破棄宣言の後は、おそらくロビンが晴れ晴れとした顔でマリリンを連れてどこぞのお茶会やパーティーにでも繰り出しては、ひたすら沢山の人たちにマリリンを新しい正式な婚約者として紹介しただろう。
つまり昨日の夜あたりからは、きっともうすっかり私の評判は地に落ちている。はず。
貴族の坊ちゃんたちには単なる流行りに乗っかってする軽い気持ちでの婚約破棄かもしれないが、家と家が合意した正式な婚約を「一方的に破棄される」というのは破棄された女性にとって大きなダメージとなる。そのためたいていの場合女性側はほとぼりが冷めるまでのしばらくの間、社交界から遠ざかることが多い。
もちろん私もそのつもりだった。そしてそのままこの社交界から自然消滅する予定だったのに。
これで私もやっと、堂々と一生独身でいられると安堵していたのだけれど?
あんな伯爵家のプライド激高な男の世話になんてならないで、自分の意志で自由に生きられると思っていたのだけれど!?
私は「心ない男の浮気で捨てられてしまいその結果婚期を逃してしまった可哀想なご令嬢」という地位を手に入れたのではなかったのか。
なのに、なぜ?
私の、あの昨夜の心から安堵して眠りについたあの至福の時間はなんだったの……?
心底理解できないという顔をして混乱する私の表情を読んだ父が、こほんと一つ咳をしたあとに説明をしてくれた。
「実は昨夜遅く、なんとあのアーデン公爵家からティナとの縁談の申し込みがあったのだよ。ああなんと名誉なことだ! あのアンサーホリックの息子が婚約を破棄してくれたのは幸いだったな。しかも条件も悪くない。さあ、これから忙しくなるぞ!」
一体この父は何を言っているのか。およそ現実の話とは思えない。
しかし父の頭の中では、すでに私の花嫁姿が浮かんでいそうな浮かれぶりである。
必死に私は考えた。
「ちょっと待ってください、お父様。あのアーデン公爵家に結婚適齢期の方なんていらっしゃいました? たしか公爵様は奥様がいらっしゃったはず……。あっ、もしややもめのどこかの傍系のお年寄りですか? うーん、たしかにそれなら形だけお年寄りに嫁いで夫が亡くなったら未亡人として暮らす方がより自由かもしれないですね? なるほどさすがお父様、さすがにそれなら私も納得すると――」
「ティナ! なにを言う! そんな年寄りに私の大事な娘を嫁がせるわけないではないか。それに適齢期の男ならいるだろう、今の公爵が! 先代は去年亡くなって今は独身の息子が継いでいるのだよ。なんと今回その公爵ご自身からの縁談の申し込みだ! お前は公爵夫人になるんだよ!」
「はあ!? そんな馬鹿な」
かくして、日当たりの良い爽やかな朝食の間のほのぼのとしたテーブルを囲む、驚きでこれでもかと目を剥いて見つめ合う親子が出現したのだった。
いやだって、さすがに独身の公爵様ともなれば、公爵夫人の地位を狙ってうじゃうじゃと若くて評判も上々な美しい貴族令嬢たちが群がるのでは? こんな、とうとう評判が見事に地に落ちた私に結婚を申し込む理由なんて微塵もないのだが?
かのアーデン公爵家といえば財産は山ほど、領地は広大、王族とも縁戚の今をときめく大名家。その当主なんて。
…………どんな顔だったっけ?
はて。
私はそこまで考えてから、首をかしげたのだった。
もちろん私も一応は伯爵令嬢のはしくれ、貴族の方々のお名前はだいたい把握している。社交界だってあの元婚約者のロビンのお供で渋々出ていたから、大体の人の顔も把握しているはずである。
それなりのパーティーにも何度も行ったから、その中には当の公爵様がおいでになることもあったはずなのだが……。
残念ながら私には全く記憶がないのだった。
いや、名前を知っているということは、きっと同じ会場にいたこともあるはず。紳士や令嬢やその母親たちがきっと話題にしていたはず。
だが、顔……?
んんんん……?
しかしそうなると、それこそ謎だった。どうして顔の記憶もない人から結婚が申し込まれるのか。
「昨日婚約破棄の知らせを受けた時にはどうなることかと思っていたが、これで一安心だな。いつの間になんと大きな魚を釣り上げたものだ。さすがは我が娘」
すっかり上機嫌で朝食に手をつけ始めた父に、私は恐る恐る言った。
「……お父様、それ、新手の詐欺ではありません?」