029_ヒースクリフの過去
ヒースクリフは、廊下の気配をじっと探り、それが去ったのを確認するとふっと息を吐いた。
「あれ、で奴の目をアンナマリーからそらせるといいが……」
禁書庫の扉をそっと閉めると、図書室のテーブルにおかれたワインを手に取り、一口飲んだ。
夜の冷たさになったワインが喉を通っていく。
「妹は……大事な俺の宝物だ」
ヒースクリフにとって、アンナマリーはどんなことよりも優先される。
最愛の妹だから、というだけではない。
それは――――自分の犯した罪のせいだ。
「憎んだことは一度しかない。あれ<、、>は、俺の人生最大の過ちだった」
長椅子に腰掛けると、ヒースクリフはその時のことを思い出した。
※※※
アンナマリーが生まれたのは、ヒースクリフが八歳の時だった。
貴族の子供は生まれるとすぐ、持っている魔法の強さを測定される。自分の時は、測定装置は反応せずに両親は落ち込んだのだけれど、アンナマリーは違った。
彼女には火属性の、しかもとても強い赤い光が測定装置の水晶にはっきりと映り込んだ。
両親は大喜びし、ヒースクリフは落ち込む。
それでも可愛い妹を愛した。
守ろうと誓った。
魔法なんか使えなくても、守ると誓ったはずだったのに……。
※※※
事件が起きたのは、今から十年前のことだ。
ヒースクリフが十五歳、アンナマリーはまだ七歳。
その日は、畑仕事用のズボンに、サスペンダー、シャツという格好で、麦の収穫の手伝いをしていた。
「この列、終わりました」
頼まれた範囲は刈り終わったので、少し遠くで同じように働く農夫に声をかける。
「もう終わったんですか? 坊ちゃん……じゃなかった、ヒースクリフ様、上手くなりましたね」
「皆さんに比べたらまだまだですよ」
実際、農夫達の方は自分の数倍の速度で進んでいる。
「何言ってるんですか、最初は鎌を持ってすぐに腕をプルプルさせていたのに」
「思い出さないでくれよ。せっかく、褒められていい気分だったのにさ」
「ははは、すみません、すみません」
苦笑いしながら言うと、聞いていた農夫達は大笑いした。
正直なところ、ヒースクリフは、これ以上農夫としての技術を向上させるつもりはなかった。
手伝いをしていること自体に意味があるからだ。
「ふぅ……」
収穫した麦を荷車に乗せ終わると、遠くを見つめる。
そこには道に沿って、麦畑が並び、黄金の穂が風に揺れていた。
ヴァルモット公爵領は広大な麦の産地だ。
パンの材料となる麦は、領民の食料となり、税となり、領外と取引を行えば金となり、ヴァルモット家の財となってくれる。
十五歳になったヒースクリフは、ヴァルモット公爵家の将来のことを真面目に考え始めていた。
自分は魔法が使えない。魔物を倒して、国に貢献するのは難しい。
それは悔しいけれど、強い魔法の適正を持つ妹に任せるしかないのだろう。
では、自分にできることは……
自問自答した結果が、領民の手伝いだ。
領地を経営するためには、領民の生活を、領民の仕事を、よく知る必要がある。
貴族の中には領民をまったく顧みない者もいるが、ヒースクリフは領民がいてこその領地であり、貴族であると考えていた。
だから、まずは公爵である父と領民の掛け橋となって、様々なことを学ぼうと考えたのだ。
「次はどこを手伝えばいいかな?」
「もうこっちも終わるので、ヒースクリフ様は上がってくださいな」
「じゃあ……お言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
手伝えることを自分から見つけようかとも思ったけれど、せっかく時間が空いたのだから他の場所を見て回った方がいいだろう。
「では、あとはよろしくお願いします」
「ヒースクリフ様、ありがとうよ!」
道具の手入れをすると、挨拶をして麦畑を出ていく。
「公爵様と一緒に視察に来た時は、子守をさせられるんじゃないかってヒヤヒヤしたけど……今はすっかり頼りになったねぇ」
「おれらのことを分かってくれてるヒースクリフ様が次の領主様なら、安泰だな」
互いに距離を取りながら仕事をする農夫は、自然と声が大きくなるので、離れていくヒースクリフにも聞こえてしまう。
また苦笑いしながら、屋敷に向かって道を歩いて行く。
最初は話しかけても面倒くさいのが来たと逃げられ、何を聞いても適当な返事しかしてもらえなかった。
けれど、毎日のように顔を出し、手伝って行く中で、領民の一員になれたようだ。
一部の者は、要望や困り事を父にではなく、ヒースクリフに相談してくれるようにまでになった。
その度にヒースクリフの客観的な意見を付け加えて書類にして父に提出している。
少しずつだけれど、自分のしていることに結果も出てきている。
たとえば、来年には、高価なだけのまがい物ではなく、農夫が使いやすい、効率的な農耕機の導入が決まっている。
「あっ、ヒースクリフ様だ!」
「よかったら自慢のパン、食べていってくださいよー」
道を歩くヒースクリフに、遠くから領民が声をかけてくる。
見れば、畑の真ん中に布を広げて、昼ご飯を食べ始めようとしているところのようだった。
「お邪魔していいのかい?」
「ぜひ、どうぞ、どうぞー!」
大きな声で尋ねると、領民は腕を丸くして教えてくれる。
度々こうして自分の作った料理を自慢してくれるのだ。
声をかけてくれた農夫の畑に入っていこうとしたところで、屋敷の方から馬車が近づいてくるのに気づく。
「お兄様ーっ、おまちくださーい!」
よく知っている声が聞こえてきた。
凛として、良く通る、大好きな妹の声だ。
彼女は窓から上半身を出して、こちらに手を振っていた。
「お兄様、ごきげんよう」
馬車はヒースクリフの前で止まると、メイドを従えたアンナマリーが下りてきて、ドレスの裾を持ち上げると挨拶した。
身内贔屓なのかもしれないけれど、まだ七歳なのに、すっかり貴族の所作が似合う、美しい女性に成長している。
「アンナマリー、どうしたんだい?」
彼女にはすでに様々な家庭教師をつけられていて、屋敷を出る時間なんてないので、自分のところに来るなんて意外なことだった。
「今日は先生がご病気でお休みとのことで、時間が空きましたので」
「そんな嬉しそうにしていては、先生が可哀想だよ」
「ふふふ……たまにはお休みが必要だと思いますわ。先生にもわたくしにも」
アンナマリーと二人で笑い合う。
「差し入れをお持ちしましたの、お兄様ったら毎日がんばりすぎだと思いますわ」
アンナマリーが手に持ったバスケットを持ち上げてみせた。
「僕のために? ふふっ、かまってもらえないから、かまいにきたんじゃなくて? もしくは屋敷から逃げ出したかったとか?」
「もうっ、お兄様のいじわるーっ」
アンナマリーが頬を膨らませる。そんな仕草も可愛らしい。
「妹も一緒にここで休んでいっていいかな?」
「大歓迎ですよ!」
先ほどのパンを勧めてくれた領民に断って、二人で昼食をと思った時だった。
「……っ!?」
ドンッと大きな音が辺りに響く。
続いて大木の倒れる音が聞こえてきた。
「アンナマリー!」
素早く妹を抱き寄せて、様子を窺う。
すると、畑の奥に広がる森から誰かが逃げてくるのが見える。
「大変だっ! 皆、早く逃げろ! 魔物が来るぞ! 森であふれてやがった!」
おそらく狩人だろう。犬を連れ、弓を背負っていた。
「アンナマリー、すぐに馬車へ」
「えっ、お、お兄様……!?」
立ち竦むアンナマリーを強引に抱き上げると、馬車に押し込める。
そうしている間にも、森から魔物が姿を見せた。
イノシシの見た目をしているけど、普通の何倍も大きい。
そして、瞳の中が、黒い炎のように揺れている。
「きゃぁぁぁぁっ!」
畑を踏み荒らしながら猛烈な勢いで駆けていく魔物の様子に、アンナマリーと同じように一歩も動けなかった農民から悲鳴が上がった。
9/1より第二章の投稿を始めました!
KADOKAWA フロースコミックでコミカライズが
9/14より連載開始予定(漫画:御守リツヒロ先生)ですので、
そちらもぜひお楽しみください!
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