002_前世の記憶
前世の自分にとって、世界の半分は白で塗り尽くされた病室だった。
春木響子<はるききょうこ>は、小さい頃から入退院を繰り返し、高校生になる頃には家に戻ることがほぼなかった。
高校に行ったのも三日程度で、しかもすぐに体調が悪くなって早退という始末。
けれど、しかたない。
十七歳になってから最初に受けた検査結果が出た日――――。
両親と祖母の顔はいつもよりもさらに曇っていた。
気づかれないようにしていたけれど、主治医から余命を告げられたのは何となくわかる。
しかも一年とか、半年ではなく、数ヶ月だろう。
自分のことだからわかる。
この病気に、自分の病弱な身体はまもなく食い尽くされる。
悲観的な気持ちには、不思議とならなかった。
ふーん、そうだよね、ぐらい。
だって、小さい頃からずっと病弱だったから、そろそろ来たな程度の感想。
覚悟を決めていたのとは違う。
当たり前の現実。
ただ、病室を出た途端、廊下で母が泣き崩れる音が微かに聞こえたのが……辛く、悲しかった。
父と母、そして祖母には迷惑をかけたと思っていたから。
絶対に言えないけれど、十七年間もごめんねと言いたい気持ちだった。
そんなわけで、家族には申し訳ないと思っていたけれど、本人としては、覚悟というか、完全に吹っ切れて、病室で自分が楽しいと思うことに没頭していた。
自分なりの日常を楽しんでいた。
「ちょっと貸して」
病室のベッドでパジャマ姿のまま、半身を起こした状態の響子は、横に座る親友からゲーム機を受け取った。
制服姿で、友達の前でも膝に手を置いて礼儀正しい彼女は、幼馴染の河西千早希<かわにしちさき>だ。
同い年なので、学校に三日しか行けずに留年した自分と違い、この春、高校二年生になった。
「ほら、条件を満たしているとここで選択肢が出るの」
響子はロードから手早く目的の場所まで進んでいくと、千早希に画面を見せた。
「わっ、本当だ。私の時は選択肢一個だったのに」
ゲーム画面には、男子が庭で微笑んでいて「おはよう、リサ」という彼の台詞に対して「おはよう」か「無視する」の選択肢が出ている。
「千早希は、やっぱりステファンみたいな、ピュア系王子様が好み?」
「えっ? 好み……ってわけじゃないけど、優しそうだなって思って」
現実ではなく、ゲームの中での好みだというのに、千早希は照れて顔を赤くしている。
素直にその反応が可愛いと思うし、同級生の男子にはもてるだろうな、とも思う。
自分はもう完璧に諦めていたけれど、親友として、彼女には楽しい高校生活を送って欲しいと心から思っていた。
両親同様、それも悲しませるから本人には言えないのだけれど。
「うーっす、姉貴いる?」
千早希に詳しい条件を教えていると、病室の扉が勢いよく開く。
「竜太、病室はノックしてって言ってるでしょ。着替えてるかもしれないから」
「別にいいじゃん、姉弟なんだし」
制服姿でスマホ片手に病室へ入ってきたのは、弟の春木竜太<はるきりゅうた>だ。
病室にばかりいる響子にとっては、千早希と竜太が気の許せる数少ない相手だった。
睨みつけるも、勝手に椅子に座るとさっそく置いてあったお菓子を頬張る。
「てか、また飽きずにその乙女ゲーやってるのかよ? 千早希さんも巻き込んで」
ベッドの隣の椅子に座ってゲーム画面を真面目にのぞき込んでいる千早希を見て、竜太が呆れた声を上げる。
姉が強引に親友をお気に入りのゲームに誘ったのは、お見通しのようだ。
「別にいいでしょ、好きなんだから、何度やっても」
「まあ……そうだな。オレも好きな漫画やネット小説、何回も読み返すし」
彼は生まれてからずっと病弱な姉を見てきたわけで、気遣う様子は欠片もない。
けれど、その方が響子にとっては気が楽だった。
可哀想にとか、残り少ないから好きなことやりなさい、とか同情されると、響子としても、なんと返せばいいのか困ってしまう。
竜太も千早希も、そんな気遣いは一切無用だった。
「そうだ! オレが教えたネット小説は? 読んだ?」
「読んだ。最新話まで追いつきましたー。昼に更新されてたよ」
「えっ! まじで!?」
慌てて、竜太が手にしていたスマホを操作すると、病室でネット小説を読み始める。
二人はお見舞いに来ても特別なことは何もしない。
たわいもない会話をしながら、病室でしたいことをする。まるで部屋に遊びに来てくれたかのようで、響子としては気が楽だった。
悔いがないといえば嘘になるけれど……家族にも、友達にも恵まれて幸せだ。
病室のベッドにいても、漫画や小説、ゲームなど、楽しめるものは沢山ある。
響子にとって、その中でも一番は今、千早希がやってくれている『マジック・アンド・ラバー~恋と魔法と冒険と~』という乙女ゲーム、略して“マジラバ”だ。
パソコン版も、移植版も、何周もプレイしているほどはまっているけれど、残念ながら制作会社は倒産してしまって、続編は期待できない。
発売してから数年経ってもずっとやり続けるほど“マジラバ”のどこが好きなのかというと、なんといってもその特徴的なキャラクターだ。
世界で唯一の光属性魔法を使えるヒロイン、リサが活躍する魔法学園恋愛RPGなのだけれど、とにかくキャラクター数が多く、みんな魅力的。
その中で最も好きなのは、好きで表せないほど大好きなのが、リサをライバル視して虐める悪役令嬢! ……の兄、ヒースクリフだった。
ヒースクリフは別にリサを虐めてこない。
むしろ友好的で勘違いしそうなキャラクターである。
一見、チャラそうなナンパキャラなのだけれど、稀に物語に折り込まれている、真面目な一面が堪らない。また、妹であるアンナマリーを溺愛している。
ただ、大変残念なことに、そんなヒースクリフにはエンドが一つしかない。
それはお友達エンドで、彼はいわゆる非攻略対象キャラだった。
ナビや、おまけ、賑やかしの便利キャラという立ち位置だろうか。
恋愛となるエンドがないことに、何度失望したことだろう。
しかし、それが逆に妄想をかき立てて、各キャラのイベントに散らばる彼のセリフを読み解くようになり、気づけば、響子はすっかりヒースクリフの虜になっていた。
「やった、王子ステファンルート入れた」
ゲーム画面を見ていた千早希が嬉しそうに顔を上げた。
どうやら、ステファンの魅力にはまってくれたらしい。
「よかった。ちなみにそのまま好感度を保っておくと、ヒースクリフのエンドにも行けるから」
一応それとなく、ヒースクリフのファンを増やそうと布教活動してみる。
「響子が好きな遊び人だっけ? 密売人……じゃなかった、貴族街の解決屋さん?」
「違ーう! アンナマリーの兄」
響子は唇を尖らせ、強く否定した。
千早希の言ったことは、ヒースクリフの一般的な印象かもしれないけれど、彼の本質は断じてそこではない。
どれだけ皆に批難されようとも、妹である悪役令嬢アンナマリーの味方であり続ける周りに流されない強さや、所々に顔を出してくる謎の多さだ。
ただのストーリーに都合のいいキャラという面は否めないのだけれど、語られない部分をプレイした人が想像して楽しむことができるとも言える。
目をつむれば、ヒースクリフとアンナマリーの穏やかな午後の会話が思い出される。
『お兄様、なんですか、そのだらしない格好はっ!』
『別に構わないだろ。ここにはアンナマリーと俺しかいないんだから』
『それは、そうですが……』
『今日は暖かいな。窓からの日差しが気持ちいい』
『そう……ですわね』
会話だけならば、仲のいい姉妹の日常に思えるけれど、違う。
このイベントは、驚くことに終盤、アンナマリーが周りの者達からヒロインへの虐めについて糾弾され、身の置き所がない状況でなのだ。
ヒースクリフは苛々している妹の隣に座り、事件については何も言わずそっと寄り添う。
これが何を指しているのか、何の伏線になっているのか、全エンディングを見た後でもまったくわからない。
要らないイベントのようにも見えるけれど、響子は普段ちゃらちゃらしている彼のこの静かな優しさにすっかりやられてしまった。
今では、実は開発のスケジュールや予算的な問題で、入れることのできなかった幻のヒースクリフのエンディングがあって、そこで隠されていた事実が明かされる予定だったのではないかと、真面目に思っている。
「本当に、響子ってそのヒースクリフっていう人に一途だよね」
「当然!」
即答した。他のキャラ推しの人には申し訳ないけれど、一度ヒースクリフの深さに気づいてしまうと、彼しか目に入らなくなってしまった。
「私は、マジラバの世界の公爵令嬢アンナマリーに転生して、兄のヒースクリフと賑やかで穏やかな日常を満喫するの」
「ちょっとよくわからないんだけど……どのエンドでも公爵家は没落するんじゃなかったっけ?」
「一家離散とか、極刑はないから大丈夫!」
食い気味に反論する。
千早希の言ったように、二人の実家であるヴァルモット公爵家はどんなことがあろうとも、没落してしまう。
救われる未来がないなんて、酷すぎる。
けれど、そこは器用になんでもこなしてしまうヒースクリフだ。きっと、没落しても上手くやってくれる気がした。
響子が想像する二人ならこうだ。
アンナマリーとヒースクリフのその後。
『窓じゃないところから風が』
『家がぼろいから仕方ないさ。ほら、今夜の夕食を食べてしまおう』
『パン一切れだけですの? お兄様が食べてください、わたくしお腹が空きませんわ』
『そんな我が儘言うんじゃない。無理矢理食べさせてほしいのかな?』
「お兄様、ご冗談はやめて』
『冗談かどうか、試してみるかい?』
ボロボロの家に移っても、仲睦まじい兄妹の様子にほっこりする。
「どちらにしろ、あんまり幸せそうじゃないよね」
ぼそりと千早希が言うと、響子が反論する前にスマホを見ていた竜太がむくっと顔を上げる
「悪役令嬢に転生するなら、運命とか変えなくていいのかー?」
ネット小説で、その手のものをいくつも読んでいる竜太が聞いてくる。
響子はふふんと、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「どうせ変えられないなら、じたばた過ごすよりヒースクリフとの日常を噛みしめたいの。なんだか無粋じゃない? 運命を変えるとかって」
「そうか?」
変えたいと思うのは、男性に多い発想かもしれない。
響子としては、あの優しいお兄様とずっと一緒に日常を生きていくだけで十分満足だ。
「わかった! 響子は禁断の兄妹愛がいいんだ!」
「それはなし、世界観を壊さないように生きていく<、、、、、>だけ」
またも響子の言葉に、きっぱりと否定した。
あれは兄妹の関係だからいいと思う。恋人同士だとやっぱり距離が近づいたり、離れたりして、穏やかさがなくなってしまう。
「あっ……」
二人から何の反論もない理由に気づく。
もう長くは生きていけない響子が、生きていくだけでいいというのは、たとえ本人にそのつもりがなくても、二人の心には刺さってしまうことだろう。
「ほ、ほら……転生のチャンス、ほんとにあると思うの。私って誰にも負けないぐらい乙女ゲーム好きだし?」
慌てて軽く微笑むと、固まっていた二人も慌てて作り笑いをしてくれた。
「だよなー、同じゲーム何周もやってるぐらいだし。ほんと、よく飽きないよな!」
「響子ぐらいに一途な人っていないもんね」
二人の気遣いのおかげで、暗くなった雰囲気をなんとか引き戻した。
「二人ともその言い方、ひどーい。なんか傷つく」
「はははっ、そう思うなら他に好きなゲーム見つけてみろよ」
「ふふふ……今度、わたしが好きなドラマ一緒に見よう」
最初は少しわざとらしかったけれど、三人で笑う。
「どんなドラマの?」
「えっとね……」
そして、その後は普段の調子に戻った。
病室でだらだらと遊んで過ごす。
それが――――。
三人で笑った最後の日だった。




