その5 ~あゆみの話~
――あゆみの過去――
「ママ、運動会見てた? ほら見て、金メダルだよー」
あゆみがぴっかぴかの笑顔で、となりにういている女の人に話しかけた。あゆみのママだ。燃えるような夕日にてらされて、からだが黄金色に透けている。ゆうれいだった。
「すごかったわね、あゆみちゃん。リレーで一気に大逆転。ママまだドキドキしてるわ」
大きな赤色のリボンでむすんだ、あゆみの長い髪をなで、あゆみのママはうなずいた。
「ママがいっぱい応援してくれたからだよ。だからわたし、がんばれたんだ」
そういって、あゆみはママに手をさしだした。ママの顔が少しくもる。それでもママはあゆみの指にふれた。
「ふわっ!」
「あゆみちゃん!」
たおれそうになるのをこらえながら、あゆみは無理やり笑顔をつくった。ママからむぎわらぼうしの、あたたかいにおいがただよってくる。
「だ、大丈夫だよ。これくらい、大丈夫。ママの役に立って、わたし、うれしいから」
「あゆみちゃん……」
うつむいているママに、あゆみはいたずらっぽくふりむいた。
「でも、今日はちゃんとごほうびちょうだいね。わたし、ママのこもりうたじゃないと、ねむれないんだから」
ねだるようにいうあゆみを見て、ママはくすくすっと笑った。
「あゆみったら、来年はもう四年生になるんでしょ。しっかりしなくちゃダメよ」
さとすような言葉に、あゆみはぷくっとふくれっつらをする。
「だって……あっ、見て見て、ほら、イチョウの木がもうあんなに黄色くなってる」
神社に向かってかけ出すあゆみに、ママはふわふわとついていった。もう悲しい顔はしていなかった。
「寒かった……」
家に帰ってくるなり、あゆみはすぐにコタツにもぐりこんだ。みかんを手にとり、皮をむいていく。
「あゆみ、境内をほうきではわいたか?」
部屋の奥から、大きなだみ声が聞こえてくる。あわててみかんを飲みこみ、あゆみは大声でこたえた。
「お父さん、まだそうじしてなかったの?」
「うるせえ、おれは今いそがしいんだ、早くしろ!」
食べかけのみかんをテーブルに置いたまま、あゆみはしかめっつらをした。ふわふわと、父親の部屋から、ママが帰ってきた。
「あゆみ、おとなしくいうことを聞いておきなさい。お父さん、もうずいぶん飲んでるわ」
「また……。お父さん、どうしてお酒飲むんだろう? すごいいやなにおいするのに。それに、お酒飲んでるときのお父さん、泣きそうな顔しているのに」
お神酒の胸が焼けるようなにおいを思い出し、あゆみは気持ち悪そうに顔をゆがめる。
「そうね……」
ママはなにもこたえずに、静かにうなずくだけだった。飲みかけの酒びんのとなりに、自分の写真が置いてあるのを思い出し、ママも泣きそうな顔になってしまった。
「ママ。どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ。さ、早くすませちゃいましょう。今日は雪がふるって、天気予報もいってたでしょ」
ママにいわれて、あゆみはブルルッとからだをふるわせた。ぬぎっぱなしだった手ぶくろとマフラーを、しっかり巻いて、あゆみは顔を上げた。
「うん、じゃあ行こう。今日はママ直伝の、煮こみおでんも作らなくちゃだしね」
ママの顔が、雪がとけるようにほころんでいく。あゆみは元気よく外へ出て行った。そのうしろすがたを、にごった目がにらみつけていることに、あゆみは気がついていなかった。
寒さが少しやわらいだ二月、ママは落ち着かない様子で、あゆみにささやいた。
「今日はよかったの? 香子ちゃんたちと遊ぶ約束、断っちゃって」
ママの心配そうな言葉にも、あゆみはこたえず、ベッドに寝そべったままだった。
「あゆみちゃん?」
「……いいよ、もう。つかれたもん」
カーテンのすそから、オレンジ色の夕焼けが見える。その光をすいこんで、ママの手があわ立つようにすけてみえた。あゆみはゆっくりとママに手をだした。
「はい、ママ。ごはん」
「あゆみちゃん……」
ママはあゆみの手をにぎらなかった。あゆみはまくらから顔を上げると、もういちど手を突きつけた。
「ほら、早くしないとママ、消えちゃうんでしょ」
「でも」
「早くすってよ! じゃないと、楽しい気持ちなんて、すぐに消えちゃうじゃない!」
どなりつけるあゆみに、ママはしかたなくあゆみの手をにぎった。ほんの少しだけ、光のあわがおさまった。むぎわらぼうしのにおいがする。あゆみはわずかに顔をしかめた。
「おい、あゆみ! いねえのか、返事しろ!」
「もう、なによ、わたし、つかれてるのに……」
のろのろとベッドからはい出ると、あゆみは目をごしごしとこすった。しわくちゃのワンピースを、ママがあわててなおそうとする。その手をあゆみは乱暴にはらい、どんどんと足音を立てながら自分の部屋を出た。
「おそいぞ、あゆみ! ほら、コンビニから酒とつまみ、買ってこい! 一番安いやつだからな、この前みたいに間違えるなよ!」
父親の部屋に入るなり、あゆみはだみ声をあびせられた。あゆみはなにもこたえずに、父親から千円札を受け取った。
「……あゆみ、お前、本当に見えてんのか?」
しぼりだすような声だった。あゆみはやはりなにもいわず、そのまま部屋から出ようとした。
「聞いてんだよ! 見えてんのかって!」
「……うん。でも、お父さんには関係ないでしょ」
「お前はいいよなあ、巫女の力で、ママのことが見えるんだから。おれなんて、なんにも見えない。じいさんから神社をついで、ずっと神主やってても、なーんにも見えねえんだ。それなのにお前は見えて、ずっと一緒なんだろ? おれには、見えねえのに……」
ゆっくりとあゆみはふりかえった。父親の目が、赤く充血している。口元にこぼれたお酒をぐいっとぬぐい、くりかえした。
「本当に、お前はいいよなあ」
「……よくない」
「ああっ? なんだって?」
「よくないっていったの! ずっと、ずっとママに気持ちをすいとられて、わたしの心は空っぽなの! いくらママのこと大好きでも、楽しい気持ちはどんどん取られて、ママのこと好きな気持ちも、全部、全部なくなるんだよ! こんなのぜんぜんよくない、よくないよ!」
乱暴にドアを開け、あゆみは逃げるように部屋から飛び出した。走った。どこまでも走った。ママから、すべてから、逃げようと思った。息が続かないぐらいに走った。足がもつれて転んでしまった。足をくじいたのだろう、痛みで立つことができなかった。
「……楽しい気持ちなんて、すぐになくなるくせに、どうしていやな気持ちは、あとからあとから、わいてくるんだろう?」
もうなみだも出ないのに、心のキャンパスはぐちゃぐちゃにぬりたくられていく。そのうちに、泣くことさえもどうでもよくなっていた。
「あゆみちゃん……」
ママの声がしても、あゆみは顔を上げなかった。ただ、のろのろと起きあがるだけだった。




