凋落のエメラルダ(11)
目の前で神民魔人が「魔獣回帰」を使ったという事実に、義雄は臍を噛んだ。
確かに、自分が騎士に任命されていないという現実は受け入れがたい。
だが――百歩譲ってだ。
仮に自分が選ばれず、別の者が新たな騎士に選任されたとしても、門外に眠るキーストーンを守るため、聖人世界のフィールドを維持するのが常道のはずだった。
そのためにこそ、新たな騎士は速やかに自らの神民を選ぶ。
それが、この世界の「当たり前」だ。
確かに、ここにいる魔装騎兵たちは誰一人として新しい騎士に「神民」として選ばれていない。
選ばれていない以上、神民スキル「限界突破」が発動できないのは理解はできる。
――そこまでは、だ。
だが、神民魔人が神民スキル「魔獣回帰」を使えるのは、まったくの別問題だ。
というのも、神民魔人の神民スキルが発動できるのは、魔人世界のフィールド内のみ。
つまり――この駐屯地は、すでに魔人世界のフィールドに呑み込まれていることを現わす。
義雄は、ギリギリと奥歯を噛みしめた。
――話が違うじゃないか……
――なんで俺が、こんな目に遭わなきゃならない。
まさか。
――俺は……アルダインに、はめられたのか?
この機に乗じて、エメラルダに縁のある者たちを一掃するつもりなのではないか。
そう考えれば、すべてが繋がる。
――くそ……アルダインめ。
――この仕打ち、ただで済むと思うなよ。
だが、ここで負け犬の遠吠えをしても、アルダインに届くはずもない。
何としてでも内地に戻り、一矢報いる――それしかない。
――今の駐屯地に義理立てしても意味はないな。
――ならば……逃げるか――
だが! その考えは、一瞬で砕け散った。
城壁の裂け目から、ひとつの巨大な影が現れたのだ。
筋肉が異様に隆起した、圧倒的な巨躯。
魔物たちがざわめき、次々と道を開けていく。
魔人たちは即座に膝をつき、すでに頭を垂れていた。
恐怖。
それだけが、そこにあった。
その存在が放つ威圧だけで、周囲の生き物は呼吸すら忘れる。
空気が凍りつき、世界が静止する。
――魔人騎士、ガメル。
巨大な剣を肩に担ぎ、
ガメルは、ゆっくりと姿を現した。
「ガメル! 貴様! ノコノコと!」
恐怖におののきながらも、一人の魔装騎兵が声を張り上げ、果敢にもガメルへ斬りかかった。
必死に振り下ろされた剣閃。
だが――
きん、と乾いた音を立て、その剣筋は金色の光に弾かれた。
「騎士の盾か!」
ガメルの全身を包み込むように、巨大な金色の光が揺らめいている。
魔装騎兵の剣は、その光の表面を滑っただけだった。
「ガメル! 正々堂々と勝負しろ!」
叫ぶ魔装騎兵の剣先は、小刻みに震えている。
恐怖を押し殺そうとすればするほど、その震えは隠しきれなかった。
ガメルは、それを横目で一瞥する。
「その威勢は嫌いではない」
だが、と続けて、低く言い放った。
「――今は、貴様と遊んでいる時ではない」
次の瞬間。
ガメルの腕が動いた。
『凶虫の棍棒』が、空気を裂いて振り抜かれたのだ。
もう、次の瞬間には、魔装騎兵の姿はその場になかった。
肉体は一撃で弾き飛ばされ、為す術もなく宙を舞い――
壁に叩きつけられていた。
鈍く湿った衝撃音と同時に、
赤黒い花が、壁一面に叩きつけられるように咲き誇っていた。
黒い胸部装甲は大きく陥没し、内側から折れた肋骨が突き出している。
だらりと垂れ下がった手足の装甲の隙間から、とめどなく血が流れ落ち、床に赤い川を作っていた。
誰も、すぐさま救助に向かわなかった。
もう、生きているとは到底思えなかったのだ。
……いや、違う。
義雄をはじめ、魔装騎兵たちはその場から動けなかった。
動いた瞬間、殺される。
そう理解するよりも早く、体がそれを拒んでいた。
足が、地面に縫い留められたかのように。
一方、ガメルは、壁に張り付いたまま動かないその死体に、視線すら向けなかった。
興味を示すことなく、残された魔装騎兵たちへと怒声を叩きつける。
「オイルバーンはどこだ!」
場の空気が、凍りついた。
「……オイルバーン?」
思わず漏れた義雄の声が、やけに大きく響く。
義雄を含め、魔装騎兵たちは誰一人として疑っていなかった。
ガメルの狙いは、この駐屯地に眠るキーストーン――それこそが、この戦いの理由だと。
だからこそ、その口から放たれた聞き慣れない名に、困惑が走った。
互いに顔を見合わせる魔装騎兵たち。
オイルバーン。
だが、その名を、ここにいる誰一人として知らなかった。
「お前……キーストーンを奪いに来たんじゃないのか?」
義雄の問いに、ガメルは答えない。
一体、オイルバーンとは何なのか。
オイルパン? 廃オイルを入れる、あの金属容器のことか?
いやいや、オイルパンって言ったら揚げパンだろ。
……待てよ。
「おい、ルパン!」――銭形のとっつぁんのことか?
――って、この駐屯地に銭形なんて名前の奴、いたか?
いや、いない。断じていない。
魔装騎兵たちは再び互いの顔を見て、無言で首を振り合う。
誰も、その名に心当たりはなかったのだ。
その様子を見て、ガメルは悟った。
――まさか……あの女に、ガセを掴まされたか。
脳裏に浮かんだのは、一人の女の顔。
尾根フジコ――そう名乗る女である。
ガメルは、彼女にオイルバーンの奪取を依頼していた。
だが、そのオイルバーンは、ルパン・サーセンによって持ち逃げされていた。
手詰まりとなった尾根フジコは、代替情報としてギリー隊長から仕入れた噂を持ち出したのだ。
――『オイルパンは第六駐屯地に運び込まれた』と。
だが、目の前の人間たちの反応を見る限り、その情報は怪しい。
少なくとも、この駐屯地にオイルバーンが存在する気配はない。
――だが、引き下がるわけにはいかん。
どうしても、オイルバーンを手に入れねばならない。
――愛する、あいつのために。
そして、必ず月へ行く。
――必ず……必ず、アイツを連れ戻す。
ここにないのなら、それは聖人世界の内側にあるはずだ。
――ならば、そこまで取りに行くまでのことよ!
聖人世界へ踏み込むには、聖人世界の騎士の門を開けねばならない。
だが、その門は魔人にとっては開かずの扉。
唯一、それをこじ開ける手段――キーストーン。
ガメルは、ゆっくりとその場を見渡した。
「オイルバーンが無いのなら……」
一拍。
沈黙が、場を締めつける。
「――代わりに、キーストーンをもらい受けるとしよう!」
詰め寄るような低い声。
その圧に押され、魔装騎兵たちはじり、と後ずさった。
「うぉおおおおおおおお!」
咆哮とともに、ガメルは覚悟を固める。
次の瞬間、その巨体を金色の光を放つ球体が、爆ぜるように包み込んだ。
「もう、終わりだ! 逃げろ!」
最初に悲鳴を上げたのは、やはり奴隷兵たちだった。
命令を待つという発想すらない。責任も誇りも持たされていない彼らにとって、生き延びる以外の選択肢は存在しないのだ。
数人が城門へと駆け出し、勢いのまま閂に取りつく。
重い音を立てて門が開いた。
その先にあったのは、逃げ道ではなかった。
魔物。
魔物。
魔物。
城門の外は、ひしめく魔物で埋め尽くされていた。
一体や二体ではない。足の踏み場もないほどの数が、門の向こうで蠢いている。
言葉を失った奴隷兵たちの体が、ほとんど同時に反転した。
恐怖を理解するよりも早く、脚が駐屯地内へと向いていたのだ。
逃げ帰る奴隷兵の姿を見て、一般兵たちの間にも動揺が走る。
「正門は駄目だ……!」
「なら、裏門だ! 裏の小門ならまだ――!」
誰かの声に、希望という名の錯覚がすがりつく。
隊列も指揮も失った一般兵たちは、我先にと裏門へ殺到した。
慎重に、音を立てぬよう扉が押し開かれる。
しかし、そこに“何もない空間”はなかった。
門の外に立っていたのは、神民魔人たちだった。
逃走経路を読んでいたかのように、整然と、静かに。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、神民魔人たちが一斉に声を張り上げる。
「魔獣回帰!」
肉が盛り上がり、骨格が歪み、人体の輪郭が崩壊する。
人だったものは、瞬く間に巨大な魔物へと変貌した。
裏門は、完全に塞がれた。
しかも、それらはただの獣ではなかった。
知性を保ったまま、ゆっくりと口を開く。
「さあ……食事の時間だ」
次の瞬間、一般兵たちの悲鳴が折り重なり、
駐屯地には、逃げ場のない絶望だけが満ちていった。
神民兵たちは、互いの顔を見合わせた。
指揮を執る者を失い、誰が前に出るでもなく、誰が命令を下すでもない状況。
こんなときに、カルロスが居てくれたなら――そんな思いだけが、無言のまま共有されていく。
その空白に耐えきれなかったのか、戦意を失った魔装騎兵たちが、じりじりと後退を始めていた。
「撤退! 撤退! 撤退!」
駐屯地内に、怒声と悲鳴が折り重なる。
だが、すでに二つの城門は大きく開かれていた。
雪崩れ込んだ魔物たちは通路を埋め尽くし、逃げ惑う兵を踏み潰し、引き裂き、血と悲鳴で地面を塗り替えていく。
倒れた者の上をさらに魔物が乗り越え、叫びは断末魔へと変わり、秩序は音を立てて崩れていった。
駐屯地はもはや防衛拠点ではない。
逃げ場を失った者たちを呑み込む、阿鼻叫喚の地獄と成り果てていた。




