凋落のエメラルダ(8)
カルロスは、第六の門の宿舎にある隊長室で、エメラルダ逮捕に関する情報を洗い出していた。
報告書、伝聞、兵たちの証言。そのひとつひとつは事実であり、裏付けもある。
だが、それらを拾い集めるほどに、全体像は逆に噛み合わなくなっていった。
事実は、確かに存在する。
しかし、その並びが歪んでいる。
まるで意図的に、ある順序を崩されているかのようだ。
――おかしい。
胸の奥で、疑念だけが静かに、しかし確実に膨らんでいく。
嫌な予感だった。経験が告げている。
これは単なる情報不足ではない、と。
そのとき、隊長室のドアが唐突に開かれた。
外から、数人の神民兵らしき男たちが、合図もなく雪崩れ込んでくる。
室内の空気が、一瞬で張り詰めた。
「何の用だ」
声を荒らげることもなく、カルロスは男たちを冷ややかに睨め付けた。
その視線だけで、十分だった。
神民兵たちの動きが、わずかに鈍る。
その張り詰めた空気の隙間を縫うように、
男たちの背後から、一人の男が姿を現した。
「これはこれは、カルロス“もと”隊長どの!」
ジャックだった。
口元に薄い笑みを貼り付け、あからさまな嘲りを含ませたまま、形式だけの敬礼をしてみせる。
――もと……だと?
その一言が、鋭い棘となって胸に引っかかった。
カルロスは表情を一切動かさぬまま、その言葉の意味を反芻する。
「で、第一の魔装騎兵どのが、いかようか?」
カルロスは、胸に生じた違和感に従い、声の調子を崩さずに問いかけた。
刺激せぬよう、あくまで形式的に。
だが、その冷え切った視線だけは、意図せずとも相手を射抜いていた。
案の定、ジャックの肩が、ほんのわずかに揺れた。
一瞬の動揺。
それを誤魔化すかのように、ジャックは視線を隊長室の中へと彷徨わせる。
机。
壁。
備え付けの棚。
まるで、この部屋そのものが気に入らないとでも言いたげに、
あちこちへと目を走らせ、無意味に指先で触れて回った。
「いやぁ……これからは、俺たちがこの宿舎を使うことになったんですよ」
「そんな話は、聞いておらんが」
カルロスは一歩も動かない。
ただ、視線だけを向けたまま、ジャックを見据え続ける。
逃げ場を与えぬ視線だった。
ジャックは、小さく何かを呟いていた。
まるで、自分に言い聞かせるように。
あるいは、苛立ちを押さえ込むための、無意識の癖かもしれない。
大きく息を吸い込み、吐く。
そして、覚悟を決めたようにカルロスの正面まで歩み寄ると――
机の上に、命令書を叩きつけた。
「だから、今、伝えてるんだよ! ジジイ!」
言葉とは裏腹に、その声はわずかに上擦っていた。
怒鳴ることで、自分を奮い立たせているのが透けて見える。
カルロスは、その様子にも眉ひとつ動かさない。
歴戦の勇者は、ただ静かに命令書を手に取り、
そこに記された文字へと、淡々と目を走らせていった。
――やはり、そう来たか。
胸にあった疑念は、もはや疑念ではない。
確信へと、静かに姿を変えていた。
「この命令書には、現時点をもって第六部隊は解散。
その上で、第一部隊にすべてを引き継げとあるが」
「……ボケたのか? その字面通りだよ!」
カルロスの視線に一瞬たじろぎながらも、ジャックは強引に顔を近づけた。
威圧するつもりで。
だが、その距離の近さは、かえって焦りを露呈しているようにも見えた。
カルロスは、何も言わずに視線を机の上にある書類へと戻した。
感情を挟む余地はない。確認すべき点は、すでに確認し終えている。
紙の質。
印章。
命令文の書式。
どれを取っても、見慣れたものだった。
――本物だ。
そこに疑いを差し挟む余地はない。
だからこそ、なおさら解せなかった。
「……このような内容を、エメラルダ様が、お認めになるわけがなかろう」
低く、抑えた声だった。
理屈ではなく、信念から滲み出た言葉。
「ジジイ! 何にも知らねえのか!」
ジャックの声が、露骨に荒れた。
苛立ちが、そのまま音になって飛び出してくる。
「エメラルダは、もう騎士じゃねえよ!」
「……なんだと」
思わず、カルロスは立ち上がっていた。
身体が先に反応していた、と言うべきかもしれない。
その動作に、迷いはなかった。
だが――
「裁判の結果だ。騎士の刻印は剥奪。
代わりに、新しい騎士が任命されたんだよ!」
その言葉に、カルロスは息を呑んだ。
はっとして、自らの胸元へと手を伸ばす。
無意識の動作だった。
だが、胸元を探った指先が、虚しく宙を掻く。
そこにあるはずの、エメラルダの神民である証。
刻まれていたはずの紋章は、
まるで最初から存在しなかったかのように、消え失せていた。
……ない。
エメラルダが、騎士ではない。
裁かれ、騎士の刻印は剥奪された。
それは、紛れもない事実だった。
――そんな……馬鹿な。
長年、命を懸けて仕えてきた主の名が、
あいまいな疑惑ひとつで潰される。
その現実が、カルロスの背骨を内側から砕いていく。
体中の力が、音を立てて抜け落ちていくのが、はっきりと分かった。
視界が滲み、輪郭が曖昧になる。
何を見ているのか、何を感じているのかさえ、判然としない。
――これは現実なのか。
――それとも、悪い夢か。
その問いに答えを出すことすらできず、
カルロスは抗うこともできないまま、椅子へと腰を落とした。
次の瞬間。
カルロスの視界が、乱暴に揺れた。
白髪混じりの頭を、ジャックの手が鷲掴みにしていた。
そこに、遠慮も躊躇もない。
力任せに引きずり下ろされ、
カルロスの体は椅子から床へと叩きつけられた。
「だからよぉ!」
勝ち誇った声が、頭上から降ってくる。
「もう、お前は、ただの一般国民なんだよ!」
唾を飛ばし、笑いを噛み殺すことすらしない。
その声音には、長年押し殺してきた劣等感と、
今ようやく手にした優越が、濁ったまま混じっていた。
「元教官だからって、偉そうにすんな!」
靴先が、わざとらしく床を鳴らす。
見下ろす視線は冷たく、
同時に、どこか愉しげでもある。
「だいたいなぁ――」
言葉を区切り、わざと間を作る。
この瞬間を、舌の上で転がすかのように。
ジャックは倒れたカルロスを見下ろしたまま、
嘲るように、吐き捨てた。
「神民様が座る椅子に、
ふんぞり返って座ってんじゃねえよ!」
その言葉が、最後の楔のように突き刺さる。
カルロスは床に伏したまま、
拳を握ることすらできなかった。
力の抜けきったカルロスに、もはや歴戦の勇者の面影はなかった。
背筋は折れたように曲がり、肩は落ち、
白髪の奥に宿っていたはずの気迫も、跡形もなく消え失せている。
一気に老け込んだその姿は、
ただの老いぼれたジジイ――そう言われても、否定できぬ有り様だった。
そのジジイが、床に膝をつく。
そして、誇りをかなぐり捨てるように、縋るように、
ジャックの足元へと手を伸ばした。
「……それだと……第六のキーストーンの守護は……どうするのじゃ……!」
声は、ひどく震えていた。
怒りでも、抗議でもない。
誇りも立場も、すべてを失った男が、それでもなお口にした、最後の問いだった。
だが――
その問いが孕む意味は、あまりにも重い。
エメラルダの神民がすべて一般国民へと落とされた今、
第六の門外のフィールドは、完全にガメルの領域へと変貌しているはずだった。
すなわち、そこは魔の融合国のテリトリー。
キーストーンを守護していた駐屯地も、
すでにその侵食下にあると考えるべきだ。
――駐屯地に残る魔装騎兵たちは、限界突破を使えない。
一方で……
――魔人は、魔獣回帰を行使できる状態にある。
もはや戦力の天秤は、
最初から釣り合ってなどいなかった。
そして、何よりも致命的なのは――
魔人騎士ガメルが、そのテリトリー内において、
絶対不死の存在となることだ。
つまり。
今この瞬間にでも、ガメルがキーストーンを奪取するため、
駐屯地を襲撃すれば……。
迎え撃つ術は、どこにも存在しない。
それが、この場にいる誰の目にも明らかな現実だった。
だからこそ、カルロスは床に這いつくばり、足に縋った。
国家のためでも、騎士としてでもない。
ただの老人として、必死に。
――仲間たちの命は、どうなるのだ。
「――そんなこと、俺が知るわけねえだろうが!」
吐き捨てるように言い放つと、
ジャックは隊長用の椅子へと、どっかり腰を下ろした。
きしむ音すら楽しむかのように、肘掛けに腕を乗せ、
背もたれに体重を預ける。
そして、座り心地を確かめるように、
くるり、くるりと椅子を回した。
「へぇ……悪くねえな。
さすが神民様の特等席ってか?」
嘲るような笑み。
その態度には、欠片ほどの緊張感もなかった。
その光景を目にして、カルロスははっと我に返る。
床を蹴り、よろめきながら立ち上がると、
部屋の外へ向かって駆け出そうとした。
「――待て!」
背後から、楽しげな声が飛ぶ。
「言っとくがなぁ、ジジイ。
門外には、出られねえぜ?」
ジャックは椅子に座ったまま、
意地の悪い笑みを浮かべていた。
カルロスは、はっと足を止め、振り返る。
その顔には、もはや怒りはない。
あるのは、切迫した悲壮だけだった。
「……お前……!」
絞り出すような声。
「駐屯地の兵士たちを……
見捨てるつもりか……!」
その問いに、ジャックは肩をすくめる。
「はぁ?
なんで、そんなに慌ててんだ?」
軽い。
あまりにも、軽い声音だった。
「どうせ、いるのは奴隷兵と――」
にやりと、口角がつり上がる。
「――“一般兵”だけだろ? wwww」
笑い声が、隊長室に空虚に響いた。
その一音一音が、
カルロスの胸を、鈍く、しかし確実に締め付けていく。
突如として、第六の門の警鐘が鳴り響いた。
重く、低い音。
それが何度も何度も反響し、宿舎の壁そのものを震わせる。
――第六の門外で、異常事態が発生した。
「……どうやら、早速おいでなすったか」
ジャックは舌打ち混じりに呟き、ゆっくりと立ち上がった。
窓辺へ歩み寄り、視界の先にある第六の門を、細めた冷たい目で睨みつける。
その横顔に、焦りはない。
驚きもない。
あるのは、予想通りの事態を迎えた者だけが浮かべる、薄ら笑いだった。
「おい」
ドアの脇に控えていた神民兵へ、ぞんざいに声を投げる。
「第六の門を閉鎖しろ。
絶対にだ。何があっても、開けるんじゃねえぞ」
「――御意!」
命を受けた男たちは、一斉に踵を返し、部屋を飛び出していく。
警鐘の音は止まらない。
むしろ、不安を煽るように、さらに強く、執拗に鳴り響いていた。
その音に背中を押されるように、カルロスはジャックへと詰め寄った。
「お前……っ!
本当に、状況を理解しとるのか!」
掴みかかりたい衝動を、必死に押し殺した声だった。
「今、第六の門外のフィールドは……
すべて魔人国のものだぞ!」
「――だから?」
返ってきたのは、あまりにも軽い一言。
カルロスは歯を食いしばり、声を絞り出す。
「騎士の盾を持つガメルが一人いれば……
駐屯地など、ひとたまりもない!
壊滅させられるんじゃぞ!」
「分かってるよ」
ジャックは肩をすくめ、嘲るように鼻で笑った。
「でもさぁ?」
振り返り、カルロスを見下ろす。
「俺たちは第一の神民だぜ?
第六の門外に出たところで、何ができるってんだ?」
口元が、意地悪く歪む。
「一般兵と同じ力しか出ねえ。
つまり――」
吐き捨てるように言い切った。
「行くだけ無駄だろ。バーカ」
「……っ!」
カルロスは言葉を失った。
喉の奥で何かが詰まり、声にならない。
――その通りだ。
第六の門外で力を発揮できるのは、第六の騎士と、その神民のみ。
ジャックはアルダイン――第一の騎士の神民。
門外へ出たところで、一般兵と変わらぬ存在でしかない。
だからこそ。
騎士が交代する際には、神民の空白が生じぬよう、
速やかに新たな騎士が立てられる。
それが、この国における最低限の理だった。
だが今、その理は、
意図的に、踏みにじられている。
沈黙するカルロスを見て、ジャックは明らかに楽しそうだった。
歴戦の勇者。
かつて、魔装騎兵の象徴として名を馳せた男が――
今、自分の目の前で、なすすべもなく立ち尽くしている。
新人だった頃。
あれほど恐れ、震え上がった存在が。
「……はは」
ジャックの喉から、小さな笑いが漏れる。
それは、勝者が敗者へと向ける、何より残酷な笑みだった。
「まあ、キーストーンを奪われたとしても――」
肩をすくめ、事もなげに続ける。
「俺たちの責任じゃねえしな」
「……新しい騎士は、どうした!」
絞り出すような、カルロスの声。
「さあなぁ?」
ジャックは口の端をつり上げる。
「聞いた話じゃ、新しい騎士様は――
神民を一切、持たないらしいぜ」
次の瞬間、堪えきれぬといった様子で、腹を抱えて笑い出した。
「ははははははっ!
笑えるよなぁ!」
その笑い声が、隊長室に空虚に響く。
カルロスは無言で壁へと歩み寄り、拳を振り抜いた。
鈍い音。
石壁に叩きつけられた拳から、赤い血が一筋、静かに流れ落ちる。
――今までの努力は、何だったのか。
――志半ばで倒れた仲間たちの犠牲は、何だったのか。
幾度も門外へ出て、死と隣り合わせで戦ってきた日々。
エメラルダと共に守り抜いてきた、第六の門。
それらすべてが、
たった一枚の命令書と、
一人の無責任な騎士によって踏みにじられた。
カルロスの頬を、熱いものが伝った。
「……その騎士は……バカなのか……?」
震える声を絞り出す。
「……騎士の役割を……放棄するというのか……そのバカは!」
ジャックはちらりとカルロスを一瞥した。
ほんの一瞬だけ、視線が引っかかる。
だが次の瞬間には、興味を失ったかのように目を逸らし、椅子へと腰を下ろした。
背もたれに深く体を預け、
何の躊躇もなく、両足を机の上に投げ出す。
その仕草は、
目の前の男を「もう相手に値しない存在」と断じた証のようだった。
「おい、ジジイ」
投げつけるような声。
敬意も、配慮も、もはや欠片もない。
「荷物まとめて、さっさと帰れヨ」
冷たく、突き放す。
まるで不要になった道具を片づけるかのように。
「せっかく拾った命だろ?」
机に乗せた足を揺らしながら、
軽い調子で続ける。
「あとは……短い老後を好きに生きろヨ……」
その言葉は、
追放宣告であり、同時に放免でもあった。
かつて自分を叱り、鍛え上げた鬼教官。
恐ろしくも、忌々しくもあった存在。
その男に向けて投げられた一言は――
侮蔑なのか、
それとも、ほんのわずかに残った情けだったのか。
少なくともジャック自身、
その答えを確かめる気は、もうなかった。
一気に老け込んだカルロスは、何も言い返せなかった。
背を丸め、引きずるような足取りで、隊長室を後にする。
その背中には――
かつて第六の門を支えた歴戦の勇者の面影は、
もはや、どこにも残っていなかった。




