凋落のエメラルダ(7)
一体、どれほどの時間が過ぎたのか。
エメラルダは、もうろうと濁った意識の底で、自分がまだ牢獄に吊るされていることだけを理解していた。
視線を落とす。
本来、そこにあるはずの左胸が、存在していない。
――ああ……。
切り取られたという事実は、理解できている。
だが、痛みはない。あるべき激痛も、血の気が引くような恐怖も、何ひとつ感じられなかった。
それが、なによりも異様だった。
意識を取り戻すたび、世界は決まって同じ形をしていた。
繰り返されるはげしい凌辱。
体には男たちの嘲笑に混じった体重が押し付けらる。
逃げ場のない重さ。
視界が歪み、音が遠ざかり、やがて思考そのものが砕け散る。
……そして、いつも暗転する。
次に目を開けると、身体中のあらゆる傷口に、冷たい薬が塗り込まれていた。
それは慈悲ではない。
壊れきる前に、もう一度使えるようにするための、ただの手入にすぎなかった。
その繰り返しが、何度あっただろうか。
十か、百か。
数を数えようとした時点で、すでに数えるという行為そのものが無意味になっていた。
ここに繋がれてから、食べ物を口にした記憶はない。
水の感触すら、いつのものだったのか思い出せない。
唯一の食事は、男たちが鼻歌交じりに吐き出していくものだけ。
痩せ細った身体は、自分のものだという実感すら失っていた。
――わたしは……まだ、生きているの……?
ぼやけた視界の端に、男の足が映り込んだ。
ひいっっっ!
瞬間的に声にならない悲鳴が喉からこぼれ、エメラルダは反射的に鎖を激しく揺らした。
逃げられないと分かっていても、身体が勝手に動いてしまう。
何度も抵抗を繰り返した手首は、手枷によって肉が抉れ、固まり、感覚すら鈍っていた。
しかし、男は、すぐには近づいてこなかった。
エメラルダの眼前で足を止め、その様子を眺めている。
――ちがう……。
その気配は、これまでのものとは違った。
そう気づいた瞬間、胸の奥に、ほんのわずかな――本当に、取るに足らないほどの――安堵が芽生えた。
久方ぶりに、唇が震える。
救いを求めるかのように、エメラルダは必死に顔を上げた。
だが。
男は、汚物を見るかのような視線を向け、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
その顔を、エメラルダは知っている。
アルダイン。
このすべてを命じた男。
この国の宰相にして第一の門の騎士である。
「あの気高く、美しかったエメラルダが……」
アルダインは、愉しむように言葉を区切った。
「このように薄汚く、みじめな姿になるとはのぉ」
その声を聞いた瞬間、エメラルダの身体は、理屈なく震え出した。
鎖が激しく鳴り、鉄の音が牢獄に反響する。
――わたしが……悪い……?
考える前に、言葉が溢れ出る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
ただ、そう言わなければ、次に何が起こるのかを、身体が覚えてしまっていた。
エメラルダは、ひたすら謝り続けた。
誇りも、怒りも、騎士としての名も――
すべて、ここに来るまでに削ぎ落とされていた。
残っているのは、
壊されきっていないことそのものが、恐怖でしかないという感覚だけだった。
「そうだな……そろそろおまえにも飽きてきたしな。今宵を最後にしてやろう」
アルダインの声は、愉悦を隠そうともせず、牢の空気を汚した。
彼は怯え切ったエメラルダの背後へ回ると、いつものように鎖を揺らし始めた。
単調な金属音が繰り返されていく。
その音だけで、エメラルダの身体は条件反射のように強張った。
……だが。
――これで……最後……。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
――これで……終わる。
この地獄が終わるのなら、どんな苦痛も耐えられる。
耐えきれば、解放されるのだから……。
痛みしか知らないはずの行為が、今のエメラルダには、奇妙なほど鈍く感じられた。
感覚が削ぎ落とされ、恐怖すら摩耗している。
――早く……早く終わって……。
そう願った瞬間、自分の身体が、自分の意思とは別の動きをしたことに気づく。
生まれて初めて自ら腰を振りはじめていたのだ。
それは生き延びるための反応だった。
考える前に、選ばされていた。
……暗転。
時間の感覚が、また失われる。
思考は霧散し、ただ、終わりの気配だけを必死に探していた。
やがて、鎖の音が止まった。
のしかかる重さが消え、鎖を握る力が緩む。
アルダインが離れたことを、音と空気の変化で理解した。
――終わった……?
エメラルダは焦点の合わない視界の端で、白く濁った滴がポタポタと床へ落ちていくのを眺めていた。
だが、肩で荒く息をする身体はまだ、終わったことを理解できずにいる。
笑おうとした。
それが「終わった証」になると思った。
だが、唇はうまく動かず、浮かんだのは、力の抜けきった、歪な笑みだけだった。
――生きて……いる……。
その事実が、救いなのか、呪いなのか。
エメラルダには、もう判断する力は残っていなかった。
エメラルダが、力なく顔を上げた。
視界の先に映ったのは、膝をつかされ、下腹部に顔を押し付けられているネルの姿だった。
それを当然の光景として受け止めるアルダインの横顔が、牢の薄暗がりの中にあった。
数か月前、ネルはエメラルダと共にここへ繋がれた。
だが、その数日後、彼女だけが牢から解放されたのである。
「おい、ネル。外に出たいか?」
壁から伸びる鎖に引かれ、ネルは前かがみのまま座りうなだれていた。
かつて着ていた黒いOLスーツははぎとられ、生まれたままの姿をさらけ出している。
きめ細やかな白い肌のいたるところには男たちが作った汚れとシミが幾重にも重なり、地獄のような時間が長く繰り返されてきたことを雄弁に物語っていた。
(挿絵:載せられないためチャレンジ垢に)
ネルは、必死に笑みを作った。
唇を震わせながら、視線を上げる。
「はい……アルダイン様……」 (挿絵:載せられないためチャレンジ垢に)
滲んだ涙は、恐怖だけでなく、期待をも含んでいた。
それが滑稽なのか、アルダインの口元が歪む。
「お前がいないと、仕事が溜まって仕方がないんだ」
――仕事?
ネルの思考が止まった。
一瞬、嫌な想像が、頭をよぎったのだ。
だが、それがここで行われてきたことと同じであるなら――。
拘束されず、終わりがある分、まだいい。
そう思ってしまった自分を、否定する余裕はなかった。
「アルダイン様!」
ネルは、声を張り上げる。
「前よりも、もっと……ネルはアルダイン様にご奉仕いたします! もう一度、子を産めと仰せなら……いくらでも……! ネルは、アルダイン様の忠実なしもべです!」
早く、ここから出たい。
その一心だった。
隣で、エメラルダが侮蔑を宿した目で見ていることなど、どうでもよかった。
どうせ、それは今だけのこと。
――あの女も……私と同じように落ちるのだから。
だが、返ってきた言葉は、予想外だった。
「いやいや、何を勘違いしておる。お前に頼むのは、宰相としての仕事だけだ」
「……はい?」
一瞬、意味が理解できない。
解放?
そんなはずはない。
あれほどまでに使い潰しておいて、今さら?
(挿絵:載せられないためチャレンジ垢に)
「いや、新しい女ができたものでなwwww」
アルダインは、楽しげに笑う。
「これからは、その女に奉仕してもらう。お前は執務に専念しろ」
性のはけ口としては、使われない。
だが、それは救いではなかった。
――女として、切り捨てられた。
その感覚が、ネルの内側に、粘ついた感情を生む。
これまで感じたことのない、不快な重さ。
嫉妬?
嫌悪していたはずの男に?
理解できない。
ただ、捨てられたという実感だけが、胸に沈殿していく。
だから、口が勝手に動いた。
「ネルは……アルダイン様のしもべです。これからも……ご奉仕を……」
その言葉が、どれほど自分を貶めているのか、考える力はもう残っていなかった。
そのせいなのか……
新しいスーツに身を包み、再びこの牢獄へと戻ってきたたネルは、
以前にも増して、必死だった。
それが仕事であるかのように。
それが自分の価値であるかのように。
(挿絵:載せられないためチャレンジ垢に)
自分からアルダインの下腹部に顔を埋めるその姿を、
エメラルダは、もう直視することができなかった。
だが、その横に、ひとつだけ異質なものがあった。
七輪のような土製の窯。
その中で、赤々とした炎が、静かに、しかし確実に燃え盛っている。
ネルの頭を乱暴に突き放したアルダインは、再びエメラルダへと向き直った。
背後では、ネルが口元を押さえ、堪えきれない咳を漏らしている。
「エメラルダ。喜べ」
アルダインは、愉快そうに言った。
「約束通り、ここから出してやるぞ」
その言葉が、救いではないことを、エメラルダは瞬時に理解した。
笑いながら近づいてくるアルダインの手には、
赤く、鈍い光を帯びた棒が握られていた。
――ちがう……。
理解してしまった瞬間、喉が引きつり、声にならない悲鳴が漏れる。
ひいっっっ!
エメラルダは、反射的に鎖を激しく揺らした。
だが、逃げ場はない。
複数の男たちが、躊躇なく近づき、顔を力任せに押さえつける。
痩せこけた頬の肉が歪み、視界が無理やり固定される。
「お前にはな」
アルダインは、まるで役職を与えるかのように続けた。
「罪人として、守備兵たちの士気を高める仕事をしてもらう」
――しごと……?
意味を噛み砕く余裕すらない。
ただ、その言葉が、自分を「人」ではなく「見せ物」として扱っていることだけは、はっきりと分かった。
アルダインは笑いながら、焼きごてをエメラルダの頬へと近づける。
熱が迫るにつれ、空気そのものが歪む。
美しい金色の前髪が、じり、と嫌な匂いを立てて焦げ始めた。
エメラルダの黒い瞳は、逃げ場を失ったまま、赤い熱を見つめ続けている。
――いや……いや……。
懇願は、もう声にもならなかった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁ!」
次の瞬間、世界は、ただの痛みで塗り潰された。
悲鳴を上げ、激しく抵抗するエメラルダ。
何かが、決定的に終わった。
身体ではなく、もっと奥――
「自分が自分である」という感覚そのものが、引き裂かれた。
悲鳴を上げていたのかどうかすら、エメラルダには分からない。
鎖が鳴っていた。
誰かが笑っていた。
だが、それらは、遠い世界の出来事のようだった。
残ったのは、
ここから先、どれだけ生き延びても、
もう二度と元には戻れない、という確信だけだった。
熱が、ようやく遠ざかり始めた。
だが、それが「終わり」を意味していないことを、エメラルダの身体は理解していた。
引き剥がされるような感覚。
顔の一部が、遅れて持っていかれる錯覚。
棒に引っ付いた肉がエメラルダの顔を引っ張っていく。
――いや……。
アルダインが楽しむかのように棒を無理やり引きぬく。
ブチッ!ブチ!
エメラルダの頬の皮が無残に引きちぎられていく。
次の瞬間、世界が裏返った。
頭の内側で、何かが弾ける。
息を吸うことも吐くこともできず、喉が勝手に痙攣する。
悲鳴を上げたのかどうかすら、もはや分からない。
焼けただれた熱が、頬の奥深くに残り続けている。
それが「刻まれた」という感覚だけは、異様なほどはっきりしていた。
――終わった……。
そう思った瞬間、意識は急速に遠のいた。
身体が限界を超えたことを、脳が拒絶したのだ。
泡立つ感覚。
力の入らない腹部。
羞恥や恐怖を感じる余裕すらなく、
ただ、制御という概念そのものが失われていく。
意識が完全に途切れる直前、
エメラルダは理解してしまった。
――もう、元には戻れない。
この身体も、
この顔も、
この名前も。
罪人として焼き付けられた印は、
肉体だけでなく、
「エメラルダ」という存在そのものに刻まれたのだと。
すでに、口から泡を吹き失神するエメラルダ。
鎖に無気力にぶら下がる体の下には失禁による液だまりが静かに広がっていた。




