凋落のエメラルダ(6)
アルテラは肩を怒りで震わせながら、ひとり謁見の間へ続く廊下を足早に進んでいた。
足音は荒く、感情を隠す気配もない。
謁見の間の前で、衛兵が慌てて立ちふさがる。
「アルテラ様といえども、お約束なしではお通しできません!」
アルテラは、鋭く衛兵を睨みつけた。
「……どけ!」
年端もいかぬ少女の一喝。
だが、その声に込められた圧に、衛兵の体は言うことをきかなくなった。
膝が崩れ、情けなく床にしりもちをつく。
アルテラは迷いなく、その脇を抜けた。
――バンッ!
謁見の間の扉が、勢いよく開かれる。
「お父様! お話があります!」
その声に、アルダインの前で膝をついていたネルが、はっと顔を上げた。
そして反射的に、乱れていたズボンの隙間を閉じると、何事もなかったかのようにアルダインの横へ立ちあがる。
――この、卑しい女……!
アルテラの視線が、突き刺すようにネルを射抜く。
まるで汚物でも見るかのような、露骨な嫌悪。
この女が、いつも父のそばにいる。
汚らわしい色香で惑わせ、父を独り占めにしている。
――私は……年に一度、会えるかどうかだというのに。
親愛し、尊敬する父を、
その体で奪っている存在。
許せない。
どうしても。
――いったい、お父様に取り入って……何を企んでいるの!
「これはこれは、我が愛しのアルテラちゃんwww
どうしたんだい? そんなに慌ててwww」
アルダインは、わざとらしく甘えた声で言った。
だが、その視線は、明らかにアルテラではなく――ネルへと向けられている。
まるで告げているかのようだった。
――お前の態度ひとつで、この娘の人生など、いくらでも潰せるのだぞ、と。
ネルは、それを理解しているのだろう。
苦しげに表情を歪め、ハンカチで白く汚れた口元を覆うと、
アルテラと目を合わせぬよう、静かに視線を逸らした。
――お願い……私を、見ないで。
アルテラは、アルダインの声に導かれるように、ここへ来た本来の理由を思い出した。
胸の奥で絡まっていた感情を、ひとつひとつ解きほぐすように、静かに一歩踏み出す。
「お父様! ジャックのことでございます」
「うんうんwww ジャックがどうしたのかなぁ~」
間の抜けた調子。
まるで世間話でも聞くかのような軽さだった。
「この前、何の罪もない半魔奴隷を、面白半分で殺害いたしました」
「それでwww それでwww」
「このような者を、お父様の神民にしておいたまましておくと、お父様の功績に傷がつきます。
是非、あの者を処分してください。お願いいたします」
「う~んwww。アルテラちゃんは、父思いのよい娘になったなぁwww」
その瞬間だった。
アルダインは、今まで誰にも見せたことのないような、だらしないほど柔らかな笑顔を浮かべた。
声も、態度も、仕草も。
どこからどう見ても、ただ娘を溺愛する親馬鹿のそれである。
もし、今この場に彼を初めて見る者がいたならば――
非道と残虐の象徴である宰相アルダインだとは、決して思わなかっただろう。
だが、ネルだけは違った。
――この笑顔は、仮面だ。
これまで数え切れぬほどの非道を見てきたネルにとって、それは疑いようのない事実だった。
人を駒として扱い、切り捨てることに一切の躊躇を持たぬ男。
その本質は、この甘い笑顔の裏にこそ潜んでいる。
だからこそ、怖い。
この仮面の下に隠された、底知れぬ冷徹さが。
――この男は、アルテラに対して、何の愛情も抱いていない。
――必要とあらば、いつでも切り捨てる。
もし、緑女であるアルテラが、アルダインという後ろ盾を失えば……。
それは、ただ悲惨という言葉では済まされない。
いや。
今まで宰相の威光を笠に着ていた分、他の緑女よりも、はるかに苛烈な扱いを受けることになるだろう。
――それだけは、絶対に阻止しなければ。
ネルは、薄ら笑いを張りつかせたままのアルダインを、きつく睨みつけた。
一方、アルテラは――
父の言葉を、そのまま受け取っていた。
頬を赤らめ、視線を落とす。
「あ……ありがとうございます……」
それは、純粋な喜びだったのだろう。
父に褒められた、その事実だけで、胸がいっぱいになっている。
アルテラは、母はすでに亡くなったと聞かされていた。
幼い頃から神民学校の寄宿舎で暮らし、常に一人だった。
唯一の肉親。
それが、父親であるアルダイン。
だからこそ、その存在は、彼女にとって絶対だった。
「う~ん、そうだなぁwwww。よし!
ジャックには、ワシからきつく言っておくことにしよう!
これでどうかなwwww アルテラちゃんwwww」
「はい! それで結構です! お父様!」
父が、そう言ってくれた。
それだけで、もう大丈夫だと思えた。
アルテラは、それ以上責め立てることをやめた。
それどころか、今では、安堵と喜びが入り混じった、無防備な笑顔を浮かべていた。
そして……まるで、その笑顔を待っていたかのように……
アルダインの視線だけが、ぬるりと動いた。
先ほどまで宿っていた熱が、すっと引いていく。
「でね……アルテラちゃん」
ひと呼吸。
わずかな間。
「お父さまからも、ひとつ頼みごとがあるんだけどwww
聞いてくれるかなぁwwww?」
アルテラは、迷いなく一歩踏み出す。
満面の笑みで、即座に答えた。
「もちろんでございます! お父様!」
父との会話など、ここ数年、ほとんどなかった。
それなのに――頼まれ事、である。
父からの頼まれ事など、生まれて初めてだった。
胸の奥が、きゅっと震える。
しかし。
彼女の前にいる父の目は、もう先ほどのものではなかった。
だらしない笑みはそのままに。
視線だけが、静かに、冷え切っている。
「アルテラちゃんwwww」
「これから、騎士になってくれないかなwwww」
言葉の調子は変わらない。
だが、そこには確かに、温度のない何かが混じっていた。
「……騎士、でございますか?」
意味が理解できず、アルテラは問い返す。
その顔から、ゆっくりと笑みが消えていった。
「そうだよwwww
アルテラちゃんには、第六の門の騎士になってもらおうかなって思ってwwww」
胸の奥に、言葉にならない違和感が広がる。
「第六の門の騎士といえば……エメラルダ様ではございませんか?」
エメラルダは、まだ若い女性騎士だ。
引退するには、あまりにも早い。
彼女が持つ神民枠に余裕があることも、アルテラは知っている。
それでも、父がこう言う以上――何かがあったのだろう。
「王の手によって、騎士の刻印の除去がなされたんだよぉwwww」
「だからね、空白になった第六の門の守護を、アルテラちゃんに任せようと思ってwwww」
しばらくの沈黙が落ちた。
張りつめた空気だけが、謁見の間に重く残る。
アルテラは、うつむいたまま動かない。
その小さな肩が、わずかに震えていた。
「……いやです」
消え入りそうな、か細い声。
だが、それは確かに拒絶の言葉だった。
「なんでかなぁwwww
せっかく不老不死の力が得られるっていうのにwwww」
アルダインは笑みを崩さない。
だが、その声音には、ほんのわずかな引っかかりがあった。
承諾までには時間がかかるだろう。
そう予想はしていた。
しかし――
ここまで明確な拒絶は、想定していなかったのだろう。
その証拠に、余裕ぶって整えていた口元が、わずかに引きつっている。
「その騎士の力も……神民たちの犠牲によるものです」
アルテラは、視線を上げないまま続けた。
「私は……誰かを犠牲にしながら、生きたくはありません」
震える声。
だが、その言葉には、幼いなりの信念が込められていた。
「そうかwwww……」
一拍。
「でもねwwww、アルテラちゃんwwww
これは“王”が決めたことなんだよwwww
いかにアルテラちゃんといえども、逆らうことは許されないんだwwww」
その瞬間、空気が冷えた。
――そんな理由か。
内心で、アルダインは鼻白んだ。
くだらない理屈だと、心底そう思ったのだろう。
だからこそ、躊躇なく王の名を出す。
それは、議論を終わらせるための言葉だった。
退路を断つための、絶対の一手。
アルテラも、それが何を意味するのか分かっていた。
王の名を出されてなお拒み続けることは、許されない。
それでも――
自分の信念を、踏みにじられることは耐えがたかった。
「……分かりました」
一瞬の沈黙ののち、アルテラはそう答えた。
「その代わり……私は、神民を一切持ちません」
「それで、よろしいでしょうか?」
精一杯の抵抗だった。
これ以上譲れない、最後の一線。
「アルテラちゃんの好きにしていいよwwww」
アルダインは、興味なさげに答えた。
条件の中身など、最初からどうでもよかったかのように。
重要なのは、承諾したという事実だけ。
それさえ得られれば、それで十分だった。
そう言わんばかりに、アルダインは立ち上がる。
話は終わったとばかりに、椅子の後ろの通路へと歩き出した。
「あ……」
アルテラが、思わず手を伸ばす。
呼び止めたい気持ちはあった。
だが――
これ以上、機嫌を損ねてしまうのが怖かった。
伸ばした指は、空を切る。
声は、喉の奥で詰まったまま出てこなかった。
その様子を見たネルが、はっとして後を追う。
歩きながら、必死に声を潜め、アルダインに耳打ちした。
「アルダイン様……それでは、第六のキーストーンの守護が……」
「ネル!」
鋭い声が、遮る。
「お前との約束は、果たしたであろうが」
「キーストーンの一つくらい、失っても構わん!」
吐き捨てるように言い放ち、
アルダインの背中は、そのまま通路の暗闇へと消えていった。
残されたのは、
沈黙と――
取り返しのつかない予感だけだった。




