凋落のエメラルダ(5)
男たちの乾いた笑い声が、一般街に響いていた。
その余韻がまだ空気に残る中で――
不意に、ジャックの頬を打つ衝撃が走った。
ビシッ!
乾いた音。
一瞬、何が起きたのか、その場の誰にも理解できなかった。
叩かれたジャックは反射的に顔をしかめ、殴られた側の頬に手をやる。
「……あ?」
遅れて、怒りが込み上げた。
理解より先に、神民としての自尊心が激しく反応したのだ。
――誰だ。
――誰が、この俺に手を上げやがった。
悪名高きアルダインの魔装騎兵。
そのジャックに、しかも衆人環視の中で手を上げるなど、本来なら即座に斬り捨てられても文句は言えない愚行だ。
「なんだ、このガ――」
だが、吐き捨てかけた言葉が、喉の奥で凍りついた。
いや、それ以上、言葉を続けてはならないと、本能よりも早く理解してしまったのだ。
目の前に立っていたのは、涙をいっぱいに溜めた、緑の髪の少女。
美しい黒い瞳が、怒りと悲しみを宿して、真っ直ぐこちらを射抜いている。
――アルテラ……様。
その名が意識に浮かんだ瞬間、
燃え上がっていた怒気は、背筋を這い上がる冷たい予感に押し流された。
殴ったのは、ただの子どもではない。
主君アルダインの愛娘。
ここで怒鳴ればどうなる。
剣に手をかければ、どうなる。
考えるまでもない。
どれほど戦功を重ねていようと、
どれほど恐れられる存在であろうと、
主君の娘に刃を向けた瞬間、すべては終わる。
それは「失脚」などという生温いものではない。
――死。
ただそれだけだ。
緑の髪かどうかなど、関係ない。
この場にいる誰よりも、
彼女の立場は、圧倒的なのだ。
だから――
ジャックは歯を食いしばり、
胸中で荒れ狂う怒りを力ずくで押し殺すと、
音を立てて、その場に膝をついた。
そして、深く、深く頭を垂れる。
「……アルテラ様。
ご無礼、平に……お許しください」
そんなジャックに向かって、アルテラは涙をこぼしながら叫んだ。
「貴様‼ 何をしたのか、分かっているのか!」
凛と張りつめた声は、怒りと悲しみを孕み、周囲にいた男たちをも一瞬でひるませるに十分だった。
――何を、したのか?
深く首を垂れたままのジャックは、一瞬、その意味を測りかねた。
だが、すぐに思い至る。
おそらく――
アルテラは、あの半魔女を切り捨てたことに腹を立てているのだ。
――たかが半魔女、一匹ぐらいで……。
内心で吐き捨てる。
だが、それを口に出すことは、断じてできない。
それどころか、この場では、
自分の行為が「正当であった」ことを示さなければならない。
でなければ、この先、どんな厄介事に発展するか分からないのだ。
――クソ……面倒なことになりやがった……。
しかし、事ここに至っては、下手を打てば主君アルダインの機嫌を損ねかねない。
それだけは、何としても避けねばならなかった。
「奴隷である半魔が、怪しい動きをしておりましたので」
ジャックは頭を下げたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「取り調べを行っておりましたところ、突然豹変し、襲いかかってきました。
周囲への被害を最小限に抑えるため、やむを得ず切り伏せた次第でございます」
声音は低く、抑制され、よどみがない。
そこには先ほどまでの荒々しさは影も形もなく、
命令と責務に従う騎士の姿だけがあった。
だがそれは……生き延びるために完璧に取り繕われた、騎士の仮面に過ぎないのだが……。
「嘘をつくな! 私は見ていたのだぞ!」
アルテラの叱声に、ジャックはゆっくりと顔を上げた。
そして、周囲を取り囲む男たちへと視線を巡らせる。
「ここにいる者たちが証人でございます。
皆、私の言うことに相違はありませんな?」
その目が、無言の圧となって男たちを射抜く。
人呼んで――人斬りジャック。
少しでも機嫌を損ねれば、躊躇なく人を殺す、イカれポンチだ。
そんな男に逆らえば、命がいくつあっても足りることはない。
だが――。
互いに顔を見合わせたまま、男たちは言葉を失った。
沈黙だけが、その場に落ちる。
「……」
理由は明白だった。
そのイカれポンチが、今は豹変したかのように膝をつき、頭を垂れている。
目の前の少女が宰相アルダインの娘であるとまでは分からずとも、
――ただ者ではない。
それだけは、誰の目にも明らかだった。
まさに、板挟み!
ジャックに同意すれば、少女の機嫌を損ねる。
少女に同意すれば、後々ジャックに何をされるか分かったものでない。
どちらを選んでも、待っているのは破滅だ。
だからこそ――
彼らは言葉を選ぶことすらできず、
沈黙という、唯一の回答を差し出すしかなかった。
「見ろ! だれも何も言わぬのが証拠ではないのか!」
アルテラは、その沈黙を盾に、さらに一歩、ジャックへと詰め寄ろうとした。
怒りに震える肩が、前へ出ようとした――その瞬間。
背後から、そっと、誰かの手がその肩をつかんだ。
不意を突かれ、アルテラはびくりと身をすくめ、振り返る。
そこに立っていたのは、静かに佇むセレスティーノだった。
アルテラはその手を勢いよく振り払う。
そして、そのまま怒りの矛先を彼へと向けた。
「なぜだ! なぜ、私を止める!
悪いのは、どう考えてもコイツだろうが!」
だが、セレスティーノは声を荒らげることもなく、
ただ、小さく首を横に振っただけだった。
そして、ジャックたちへと視線を向け、淡々と告げる。
「――もうよい。行け」
その言葉に、ジャックは露骨に肩の力を抜いた。
やれやれ、といった表情で立ち上がり、膝についた土を払う。
そして去り際、アルテラへと振り返り、
まるで意趣返しでもするかのように、吐き捨てる。
「アルテラ様。
貴女がどうお考えかは知りませんが――
この世で、奴隷の命なんて鳥の羽よりも軽いもんです」
薄く笑い、続ける。
「ましてや、半魔の奴隷となれば、なおのこと」
それが、神民であるジャックの論理だった。
事実、その理屈を覆すには、
半魔一人の命は、あまりにも軽い。
たとえ、その殺しが恣意的なものであったとしても、
神民であるジャックを咎める者など、誰一人としていない。
この場で、それを可能とする者がいるとすれば――
それは、騎士であるセレスティーノ、ただ一人だった。
だが、そのセレスティーノ自身が、
ジャックに「去れ」と命じたのだ。
確かに、アルテラをいつか妻に迎えたいと考えるセレスティーノにとって、
この場は「正義」を示す好機でもあった。
しかし、ジャックはアルダインの神民。
ここで彼を罰すれば、主君アルダインとの軋轢は避けられない。
己の地位をさらに高めようと目論むセレスティーノにとって、
それは、どうしても選べない道だった。
――だからこそ。
ジャックは、周囲の男たちと笑い合いながら、
何事もなかったかのように、その場を後にした。
その様子を見届けるようにして、
人ごみの中から、数人の女たちが駆け寄ってきた。
彼女たちは、メルアが務めていた連れ込み宿の仲間だった。
泣きじゃくりながら、道に転がるメルアの亡骸を抱き起こす。
血に染まった体を胸に抱え、
名を呼び、揺すり、それでも返事がないことを思い知らされて、
嗚咽は、やがて声にならない叫びへと変わっていった。
その光景を前に、
アルテラは耐えきれず、一歩進み出る。
そして、涙をこぼしながら、深く頭を下げた。
「私が……私が、もう少し早く止めていれば……」
「まさか、このようなことになるとは……思わなかったのだ……」
「すまない……本当に、すまない……」
だが、その謝罪は、女たちの心には届かなかった。
メルアを抱きかかえたまま、女たちは顔を歪め、声を荒らげる。
「メルアが、今日をどれだけ楽しみにしてたか!
あんたに、それが分かるのかい!」
「半魔女はさ!
買い物にすら、街に出ちゃいけないっていうのかい!」
その声は、怒りであり、悲しみであり、
どうにもならない現実への絶叫だった。
そのうちの一人が、
足元に散らばった破片に気づき、膝をつく。
割れ潰された小箱。
その中から飛び散った欠片を、泣きながら、一つ、また一つと拾い集めはじめた。
彼女は、それらを、
何かの紋章が刺繍されたハンカチに包み始めた。
それは……エウア教の紋章。
融合国において、
融合の神に背く異端として弾圧される宗教の印。
本来であれば、人目に晒すことすら危険なものだった。
だが、今の彼女たちには、そんな余裕はなかった。
メルアの死に、心はすでに壊れていたのである。
「少ない金を、必死にやりくりしてさ……」
「やっと……せっかく、おそろいのおちょこを作ってもらったっていうのに……」
声が詰まり、言葉が崩れる。
「……これじゃ……あんまりだよ……」
「私たちは、いつもそうだ……」
「神様からさえも……見捨てられてるんだ……!」
それを聞くアルテラは、何も言えなかった。
言葉を探すことすら、許されないと理解していたのだ。
今はただ、俯き、
涙をこぼすことしかできない。
そんな彼女のライトグリーンの髪が、かすかに、震え続けていた。




