凋落のエメラルダ(2)
カン! カン!
人気のない裁判所の中に、木槌の音が乾いて響き渡った。
重くもなく、軽くもない。
裁きを告げるというより、ただの合図の音である。
その音は石造りの壁に反射し、短い余韻を残して消えていった。
静まり返った空間。
人の気配は乏しく、そこにあるのは冷え切った空気だけだった。
「――エメラルダの国家反逆を認め、騎士の資格をはく奪する」
年老いた裁判官は、書類から視線を上げることすらせず、淡々と判決文を読み上げた。
声は平坦で、抑揚も感情もなにもない。
それは判断というより、ただの事務処理にすぎなかった。
目の前に立たされているのは、手かせをはめられ、うなだれるエメラルダの姿である。
黄金色の髪は乱れ、頬には疲労の色が濃く浮かんでいた。
だが、膝は折れていない。
自分の足で、確かに立っている。
それだけが、最後に残された騎士としての矜持だった。
視線を巡らせると、裁判官の右前――検察官席。
そこには、足を組み、机に肘をついたアルダインの姿があった。
猿のような顔は唇の端を歪め、侮蔑と期待を混ぜた笑みを浮かべている。
そして、その目は、裁きを見届ける者のそれではない。
まさしく、獲物が差し出される瞬間を待つ者の目であった。
「……くく」
アルダインの喉の奥から、押し殺した笑い声が漏れる。
早く触れたい。壊したい。
その欲が、隠しきれずに滲み出ていた。
その背後では、ネルが背筋を伸ばし、静かに控えている。
表情は無表情。
感情を削ぎ落とした、秘書としての顔だ。
だが、その視線だけは、エメラルダから離れなかった。
――あの時と……似ている……
あの時。
そう、かつてネル自身がスパイ容疑で拘束された時のことだ。
縛られ、逃げ場を奪われ、裁きという名目で差し出される存在。
その光景は、否応なく過去の自分と重なっていた。
――けれど、同情などしない
エメラルダは、騎士として守られ、自由を与えられ、安穏と生きてきた女である。
それに対してネルは――
緑女として生まれたアルテラのため、アルダインのオモチャとして扱われる女だ。
だからこれは、この女が、自分と同じド底辺へと落ちてきただけの話にすぎない。
――私と同じように、苦しめばいい……
そう思う自分が、確かにいる。
しかし同時に――
――あの時のことは……もう、思い出したくもない……
アルダインのオモチャになることを選択するまでの過程。
そこは逃げ場のない密室だった。
選択肢のない命令ばかり。
思い出しただけで体の奥底が恐怖に震え、立っているのもやっとであった。
ネルは、はっとして現実に意識を戻す。
ここは、あの密室ではない。
だが、空気の重さだけは、よく似ていた。
この場にいるのは、裁判官、アルダイン、ネル それだけである。
傍聴人はいない。
弁護人の姿も、どこにもなかった。
そして、あと一人。
手かせに繋がれたまま、エメラルダが静かに立っているだけ。
視線を伏せ、言葉を持たず、ただ判決の場に置かれた存在。
――これは、本当に裁判なのだろうか
エメラルダの胸に、そんな疑念が浮かぶ。
だが、それはすぐに消え去った。
なぜなら、考える意味すらないと理解していたからだ。
エメラルダは沈黙を選んだ。
何を言っても、結果は変わらない。
それが、ここに立たされた時点で、すでに分かっていたのである。
アルダインの机の上には、一通の手紙が置かれていた。
オオボラが持参したものだ。
そしてそれは、エメラルダが魔人国第三の門の騎士、ミーキアン宛てに書いた書簡でもあった。
内容は、大門を巡る不毛な戦いを憂い、休戦の道を探ろうとするもの。
理想論であり、危うい提案である。
だが、それは紛れもなく、エメラルダの偽りのない本心だった。
――軽率だった
今になって、そう思う。
だが、後悔しているのは、文にしたためた休戦への想いではない。
――よりによって……
その手紙がアルダインの手に渡ったこと。
ただ、それだけだった。
「裁判長」
アルダインが、芝居がかった口調で声を上げる。
「この罪人、こちらで預からせていただいてよろしいか?」
裁判官は面倒そうに顔を上げ、短く頷いた。
「うむ。任せよう。アルダイン殿」
それで終わりだった。
確認も、検討もない。
最初から決まっていた結末である。
アルダインは立ち上がり、ゆっくりとエメラルダに近づく。
一歩。
また一歩。
距離が縮まるたび、空気が重く沈んでいく。
うつむいた顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
「エメラルダ……もう、お前はわしのものじゃ」
「……私は、貴様のものなどはない!」
掠れた声。
それでも、拒絶ははっきりしていた。
次の瞬間、エメラルダはアルダインの顔に唾を吐きかける。
湿った音が、静寂の中に落ちた。
ネルは反射的に一歩進み、ハンカチを差し出す。
「アルダイン様……こちらを……」
声は平静だった。
だが、内心は違う。
――私は……この先を、知っている……
アルダインはハンカチをひったくり、乱暴に顔を拭うと、低く笑った。
「いい度胸だ」
そのまま、エメラルダの頭を証人席の枠へ叩きつける。
ガン、と鈍い音。
視界が白く弾ける感覚。
「その威勢も今だけだ。刻印がなくなれば、お前を守るものは何もなくなる」
耳元で囁く声。
甘く、粘ついた期待。
「なつくまで、いくらでも可愛がってやるわい」
裁判所に響く、いやらしい笑い声。
ネルは動かない。
いや、恐怖で動けなかった。
――この女も、私と同じ場所に立たされる
そう思った瞬間、体の奥が震え、どうしようもなく冷え切った。
アルダインはエメラルダの髪を掴み、顔を近づける。
「わしが直々に、騎士の刻印除去をしてやる。感謝せい」
「刻印の除去は……王でなければ……!」
必死の叫び。
最後に縋る希望。
――王に会うことさえできれば……
「王に……会わせてくれ……!」
アルダインは、捨て去るようにニヤリと笑う。
「この裁きは、王の勅命でもある」
その一言で、エメラルダの希望は容赦なく断ち切られた。
アルダインはエメラルダの体を突き飛ばす。
手かせのせいで受け身が取れず、女の細い体は床に叩きつけられた。
冷たい石の感触。
屈辱と無力が、はっきりと伝わってくる。
アルダインはネルに顎で命じた。
「連れていけ!」
ネルは一瞬だけ目を伏せ、そして叫んだ。
「――衛兵!」
扉が勢いよく開くと、衛兵たちがなだれ込む。
命令通り、エメラルダの両脇を掴み、引きずるように連れていった。
その背中を、ネルは最後まで見つめていた。
――もう……あそこにだけは……あの時だけには……私は戻りたくない……
そして、裁判所には、再び静寂だけが残った。




