俺は!トイレに行きたいんだよ!
ビン子は、持参した干し肉の袋をガンエンに手渡した。
「これ、権蔵じいちゃんからです」
ガンエンは袋を受け取ると、脇に挟み、両手を合わせる。
「おお、さっそく届けてくれたか。ありがたい、ナムナム……」
目を閉じて何やら念仏のようなものを唱えはじめたが──声が小さすぎて、何を言っているのかさっぱりわからない。
それを横目に、タカトはというと──
ヨシ! 任務完了!
と、言わんばかりに、そっと門の方へ足を忍ばせた。
どうやら、ガンエンが目をつぶっている隙に、この場を離れようという魂胆らしい。
……とはいえ、ビン子に任せてお使いをすっぽかす、という選択肢もあったのだ。
それでも、ちゃんと万命寺まで来たのだから、えらいものである。
実際、何度か考えたの。
途中の森で石に腰かけ、
「ビン子! あとはヨロピク~♪」
なんて言って帰りを待つ──そんなズルも。
だが、それをしたら最後……
ビン子のチクりによって、権蔵の激高を買うのは目に見えている。
まぁ、「ドアホっ!」と怒鳴られるのは、慣れっこだ。
けれど──
飯抜きだけは、マジで困る。
――だって俺、成長期だもん♪
万命寺の門へと向かって歩くタカトの足は──
抜き足……差し足……忍び足……ブッ!
ケツから、茶色い音がもれた。
──そういえば、今朝の朝ごはんも芋だったな……というか、芋しか食ってねぇ! だいたい俺は成長期だっちゅーの!
などと本人は呑気に思っていたが、当然ながらその音に反応した者が一名。
ガンエンの片目が、ぱちんと開く。
そして、逃げ行くタカトを、蛇のような鋭い眼差しでにらみつけていた。
その瞬間、タカトの成長、いや整腸、とにかく動きが止まった。
……いや、止まったのではない。動けないのだ。
それはまるで、直腸でかろうじてせき止められている茶色い衝動!
全身に悪寒が走る。
先程からヒリヒリと本能が告げている。
──動いたら、死ぬ!
ガンエンの眼光は、まるでとぐろを巻いた大蛇。
対するタカトは、ただの震える青カエルである。
もしかしたら、さっき地面に投げ捨てた『美女の香りにむせカエル』の祟りかもしれない。
とにかく、今のタカトは小刻みに震え、衝動を耐えるしかできなかった。
──見つかってもうた……どないしよう……
逃げるか? このままダッシュで門の外まで走り抜けるか?
……いや、それは過去にやった。
その瞬間、ガンエンの肘が背骨にめり込んだのだ。
ゴキッ!
──あの時は、マジで死ぬかと思った……。
だが、今それをやれば、死ぬどころの騒ぎではない……ビン子の前で茶色い醜態をさらさなければならなくなるのだ……
――それだけは嫌だ
案の定、ガンエンがタカトを呼び止めた。
「タカトや……これを、タダでもらうわけにはいかんのぉ……」
獲物を見つけた蛇のような目が、うっすらと笑みをたたえている。
それは、喜びすら滲ませた、狩人の目。
どうやら──
タカトに万命拳の修行をつけたくて、うずうずしているようである。
だが、タカトはどうにも万命拳の修行をやりたくない様子だった。
たしかに──最初の一回目だけは、”タダで万命拳が習える!”と聞いて、めちゃくちゃ喜んでいたのだ。
「ラッキー! タダ! 無料! 費用ゼロ! 最高ぉぉぉおおッ!」
貧乏なタカトにとって、“無料で習い事”は夢のような響きだった。
──が、実際やってみると、めちゃくちゃ痛い。
いや、痛いというより……マジで死ぬ。
石畳の上で受け身の練習。
受け損ねれば、後頭部にダイレクトアタック!
柔道だって畳の上でやるだろうが!
なぜ石畳!? ここ万命寺だぞ!? 道場はないのか!?
頭がグワングワンして、星が見える。
──こんなん続けてたら、身が持たんわ!
こんな修行、やめてやるッ!!
……と言いたいのだが、さすがにガンエンが怖すぎる。
言おうとした瞬間、しわくちゃの拳が、ぐいっと口にねじ込まれるのだ。
「うん? タカトや、何か言いたげだったが……何かな?」
拳一個分だぞ!?
今ラジオ体操なんて、喉奥と言えどもちくわ程度!まだ可愛いもんだ。
「フガフガフガ……!」
顎が外れかける痛み。もうこれは……SMプレイとして楽しめるレベルを超えている。
かといって、また石畳に後頭部を打ちつけるのはイヤだ。
これ以上、頭をやられたら、このタカト様の天才頭脳に支障をきたしかねない。
それは即ち、融合加工国の未来に関わる重大な損失なのだ!
……だが、そんな理屈をガンエンに語ったところで、
「ふーん」
と鼻くそでもほじられて終わりだ。
ならば……ここは、ゆっくり、自然に──
フェードアウトするしかない。
まるで最初からタカトなどいなかったかのように……。
――というか、俺は!トイレに行きたいんだよ!
タカトは、顔中から噴き出す変な汗を手で必死にぬぐい、作り笑いで言った。
「いえいえ! ただで差し上げますとも! 見返りなんか求めたら、仏様に罰当たりますから!」
そのまま、上半身を一切動かさず──
足だけを、横にカニのようにすりすりと移動。
まるで、スローモーションのベルトコンベアーに乗っているかのように、
タカトの体は門の方へとスライドしていった。
「仏様がなんぼのもんじゃ!」
仏のことなど微塵も気にしないガンエンは、ずかずかとタカトににじり寄ってくる。
──お前、この寺の住職だろうが……。
「約束は約束じゃ!」
ガンエンは、タカトの襟首をガシッとつかみ上げると、そのまま容赦なくズルズルと引きずっていった。
もがくタカトの体は、足をバタつかせながら、地面を引きずられ後方へ。
完全に廃棄物の回収である。
「ビン子ちゃぁぁん! たすげでぇぇぇぇぇ!!」
一縷の望みにすがって、ビン子に手を伸ばすタカト。
だが──
その手は、すっと避けられた。
……だって、タカトの顔面はすでに崩壊状態。
目・鼻・口、あらゆる穴という穴から液体が噴き出し、
ぬぐった手とのあいだには、なんとも言えないネバネバの糸が引かれていたのだから。
──いや無理、汚い。
それでもビン子ちゃんは、心優しい少女である。
引きずられていくタカトを見送りながら、
にっこり笑ってこう言った。
「がんばってねww」
──笑ってるし。
まぁ、万命拳の修行を見ていれば、日頃のタカトに対するちょっとしたうっぷんも晴れるというもの。
というわけで──
今日もしっかり観戦させていただきます!
タカトさん、がんばってください!
「くそっ! ビン子の奴……全ッ然役に立たねぇ!」
最後に信じられるのは──そう、自分だけだ!
観念したタカトは、もう完全にヤケ糞だった。
──やってやるよッ!!
この天才・タカト様が、万命拳の奥義を秒で極めてくれるわ!
(というか! 秒しか持たねぇ!)
そして奥義を極めた暁には……
あのガンエンのジジイを、ボッコボコのボコボコにしてやる!!
覚悟しとけよジジイ!
あとで泣いても知らねぇからな!
……ついでに、ビン子にはデコピン百連発決定ッ!!
アタタタタタタ!






