それって……俺になんの得もなくない……?
土手の上を進む荷馬車。
老馬・忌野清志子が引く荷台の御者台には、間抜け面のタカトとビン子が並んで座っていた。
デコボコの道に、二人の体がゆっくりと揺れる。
川面を揺らす風が土手を駆け上がり、ビン子の黒髪をサッと撫でていった。
いつもの光景。
いつもの朝。
代わり映えのしない、いつもの日常。
そんな御者台に座る二人の距離も、いつもと同じ――握りこぶし一個分。
それなのに、ビン子にはその距離が少し遠く感じられた。
そう、あの小門以来……それを感じずにはいられなかった。
タカトにミズイとの間に何があったのかと聞いても、はぐらかすばかり。
そんな態度が余計にビン子を不安にさせる。
タカトのことだ。何もなければ、
「ミズイのオッパイはお前のより何倍もデカかったぞ!」
と、馬鹿にしてくるはずなのだ。
それが今は、
「だから! なにもねぇよ!」
と、いらだつように顔をそむけるばかり。
きっと、あの二人の間で――何かがあったんだ。
口に出すのもためらわれるような、“何か”が。
そう、ビン子の勘が告げていた。
――嫌……。
ビン子は、御者台に垂れるタカトのシャツをそっと掴んだ。
「うん……?」
それに気づいたのか、タカトがビン子を見つめようとした――そのとき!
なんと! 荷馬車の前に人影が飛び出したではないか!
「タカト! 今日こそ勝負だ!」
無駄に元気なコウスケの姿である。
だが、荷馬車は急には止まれない!
ということで――お決まりの、ゴツン!
忌野清志子の額とコウスケの額が正面衝突。
勢い余って倒れたコウスケの股間を、忌野清志子の前足が見事に踏みつけた。
「Oooohhhhh! Noooooo!」
タカトは手綱を引き、馬を止める。
地面の上でのたうち回るコウスケを、馬鹿にしたような目で見下ろした。
「コウスケ……お前……毎日毎日、暇だよな……」
コウスケは内股をギュッと締め、震える足で立ち上がる。
そして、股間を押さえながらタカトを睨み上げた。
「俺は! ビン子さんと結ばれるまで、絶対に引き下がらん!」
その言葉を聞いたビン子の顔が、みるみる赤く染まる。
ここに、自分のことをまっすぐに見つめてくれる男がいたのだ。
――だけど……自分にはタカトが……。
そんな思いからなのか、ビン子は赤らむ顔を下に向けた。
そんな乙女心にまったく無関心なタカトは、コウスケに向かって大きく手を振る。
「もういいから、邪魔だ! どけよ!」
だが、タカトがそういう態度をとることを、コウスケは最初から読んでいた。
腕を組み、口角をゆがめながら、じっとタカトをにらみつけている。
今日のコウスケは一味違う。いつもの猪突猛進ではない。――何か、策があるようだった。
「タカト。お前も融合加工の道具を作る者なら! 俺と勝負だ!」
「はぁ? なんでお前と勝負せにゃならんのだ……」
あきれ顔のタカトをよそに、コウスケは不遜に口の端をつり上げた。
「ほほぅ……俺に負けるのがそんなに怖いか。まぁ、そうだな。下らん道具ばかり作ってるお前じゃ、勝負にもならんか!」
明らかに挑発だ。
こんな見え見えの挑発に、まともな奴なら乗らない。普通なら。
「何を偉そうに!」
タカトの口が勝手に動いていた。
「よし、その勝負、受けてやる!」
いた!ここにいたよ! まともじゃない奴!
まんまと引っかかった愚か者に、コウスケの顔は「してやったり」の笑みを浮かべていた。
「よし! ならば勝った方が――ビン子さんに告白できる! いいな!」
――は? 告白? 俺が勝ってビン子に……? なんでそうなる?
タカトは、あまりの展開に目を白黒させた。
「それって……俺になんの得もなくない……?」
口をついて出た言葉に、空気がピリッと張り詰める。
ビン子が“そこは否定しちゃダメでしょ”と言いたげに、じろりとタカトをにらんでいたのだ。
タカトは気まずそうに視線をそらす。
そんな様子に焦ったコウスケは、気が変わる前に言質を取ろうと、勢いよくまくし立てはじめた。
その口調には、すでに勝負の段取りを考えていた形跡があった。
「それでは題材は――『輝ける世界を見つめるもの』! 審査員はもちろん、ビン子さんだ!」
「え、あたし!?」
ビン子は自分を指さし、ぽかんとした顔をする。
だがコウスケとタカトは、彼女の存在を完全にアウト・オブ・眼中。
いつの間にか、二人の間で勝負の日程が粛々と決まっていく。
「いいだろう! して、勝負の日は!」
「今日から一ヶ月後! 集合場所は――ケーキ屋『ムッシュウ・ムラムラ』の前だ!」
「よし、わかった! あとで吠えヅラかくなよ!」
わけも分からず巻き込まれたビン子は、深いため息をついた。
――はぁ……もう、男子ってほんと……馬鹿ばっかりよね……
だが、ビン子はふと何かに気づいた。
「ねぇコウスケ……今の時間帯、神民学校じゃないの?」
慌てたコウスケは学校の鐘が鳴る方向へと目を向けた。
「くっ……! ま、まだ間に合うか!?」
どうやらコイツ……今日も遅刻確定らしい。
まぁ、毎日こうしてタカトたちの前に現れては騒ぎを起こしているのだから、出席日数が足らなくなるのも当然である。
「お前、もう留年確定なんじゃないのか」
タカトが笑いながらコウスケを指さす。
「学校など――いつでも行けるわ!」
その言葉に、タカトの眉がピクリと動いた。
「お前な! 学校行きたくても行けないやつもいるんだぞ!」
タカトの声には、普段にはない鋭さが宿っていた。
空気が少しだけ、静かになる。
その一瞬の沈黙に、ビン子は思わずタカトの横顔を見つめていた。
――普段はアホなのに、たまに真面目なこと言うんだから。
「そうか。なら、代わってやるぞ!」
なぜか胸を張るコウスケ。
「ねえ、コウスケ……どうやって代わるっていうのよ?」
ビン子が半眼で問い返す。
「知らん!」
即答だった。
――こいつ……俺よりバカなんじゃないだろうか。
タカトは呆れを通り越して、言葉を失っていた。
「早く行きなさい。学校は大事よ」
ビン子が、母親のような声色でやさしく諭す。
「分かりました! ビン子さんがおっしゃるなら!」
コウスケは顔を真っ赤にしながら胸を張り、勢いよく親指を立てた。
「タカト! 勝負を忘れるなよ!」
言い終えるやいなや、城壁の方へと猛然と駆けだしていく。
その背中が朝靄の中に小さくなっていくのを、二人はしばらく無言で見送った。
……風が、また川面を渡ってくる。
タカトは、なんだか朝のすがすがしい気分が台無しになったような気がした。
せっかくいい空気だったのに。
隣のビン子は、そっとタカトのシャツを見つめた。
さっきまで、ほんの少しだけ握っていたその布切れ。
だけど今は、指先にもう一度触れる勇気が出なかった。
川のせせらぎだけが、ふたりの間の沈黙を埋めていた。




