カエルの涙
万命寺の中に入ると、オオボラが万命拳の型を打っていた。
「はっ! はっ! はっ!」
キレのいい発声とともに拳が風を裂き、
体の回転に合わせて汗が宙に舞う。──あゝ、青春だ。
……などとタカトが感動するわけもなく、
彼はひたすら、手のひらに乗るカエルの鼻先をガン見していた。
「ん? ……こっちか?」
そんなタカトに気づいたのは、広場の真ん中で修行に打ち込んでいたオオボラだった。
……というか、ズカズカと練習場を横切ってきたタカトに、いやでも気づかざるを得なかった。
渾身の型を中断され、オオボラは仕方なく拳を下ろす。
手拭いで額の汗をぬぐいながら、タカトに声をかけた。
「おい、タカト! 一緒に練習しないか?」
だが、タカトは振り向くや否や──
「邪魔すんなッ!!」
目を血走らせながら怒鳴りつけた!
オオボラの言葉なんて完全無視。
再び手のひらに視線を戻すと、カエルの鳴き声に全集中!
真下を見つめるタカトの眼。
いまや、見えているのは──カエルと自分の足元だけ。
なんという集中力! いや──これはもはや、
破廉恥な妄想パワーの成せる業!
その剣幕に──驚いた……いや、あきれ返ったオオボラは、後ろから息を切らしてついてきたビン子に声をかけた。
「なぁ……あのバカ、何してんだ?」
というのも、オオボラは今までタカトがあんなふうに集中している姿を見たことがなかったのだ。
万命拳の修行といえば、すぐに泣きごと。
隙があればすぐサボる。気を抜けばすぐ逃げる。
……それが今では、まるで超能力でも開花したのかってくらい、鬼のような集中っぷり。
息を切らしたビン子が、恥ずかしそうに答える。
「……聞かないで」
だって、オオボラには言えないじゃないですか──
アイツ、ただいま“おっぱい捜索中”です!
……なんて。
恥ずかしすぎるし、
馬鹿すぎる。
というか……これ言ったら、ビン子という人格が崩壊しかねない。
そんな時、
タカトの視線は足元に釘付けになった。
目の前には、一対のすらりと伸びた足が立ちはだかっている。
白い道着からのぞく足首は、無駄な贅肉の一切ない、洗練された美しさを誇っていた。
その瞬間!
「ゲロゲェロ! ゲロゲェロ! ゲロゲェロ!」
カエルが大きく鳴き叫んだ。
まさに、その足の持ち主こそが、タカトが探し求めていた美女――いや、オッパイだと示しているかのようだった。
カエルの熱意が伝わったのか、タカトはにやけた顔をぐっと上げて叫んだ。
「コンニチハ! 憧れのマイハニー!」
そこにいたのは――なんと!
タカトが期待していたような巨乳の美女ではなかった。
目の前に立っていたのは、万命寺の住職である巨体のガンエンだったのだ。
普段は厳格な印象を持つこの男だが、なぜかその頬は赤らみ、恥ずかしそうに目を逸らしている。
「なんじゃ……タカトや……わしに気でもあるのか……」
そう、このガンエン、まぎれもなくただのじじいである。
確かに万命寺の住職としての地位はあるが、容姿はやはり年老いた男そのものだ。
それでも医者としての豊富な知識と経験を持ち、さきほどまで患者の治療に当たっていた。
今、その治療の一区切りがつき、肩にかけた手拭いで額の汗を拭いながら、オオボラの稽古の様子を見に来たところらしい。
「巨乳」が「巨体」?
固まるタカト。
「オッパイ」が「オッサン」?
意味がわからない。
意味はわからないが……まあ、その……
きっと道具の初期不良ってやつだ。
だってさ、オッパイに反応するはずのこのカエルのテストに、貧乳のビン子じゃ使い物にならないだろ?
だから、ちゃんとテストもしてないんだよ。
この『美女の香りにむせカエル』は、今朝ぶっつけ本番で起動したばかりなんだ。
だから初期不良があっても、まあ仕方ないよな!
ならば!
道具がバグった時はコレに限る!
次の瞬間、いまだに鳴き続けるカエルの頭をバチンとはたいた。
「やかましい!」
いや、空手チョップだ。
みなさん、ご存じだろうか?
かつて――壊れたテレビの角を斜め45度で空手チョップすると直る、そんな都市伝説があったことを!
だが、それはただの伝説ではない!
実際、今朝も空手チョップを入れたビン子の頭は、ちゃんと起動したではないか!
「って! 私はテレビじゃないですからね!」(byビン子)
そんなことなどお構いなしのタカトは、軽く咳払いをすると、『美女の香りにむせカエル』を再起動した。
「開血解放!」
再び口に突っ込まれた指を激しく前後されるカエルは、嗚咽を漏らす。
「ゲ……ゲロゲロ……おえ……」
まあ、一日に何度も“今ラジオ”の放送を強要されたのだから、声が枯れるのも仕方ない。
それでも、声にならない鳴き声で、まるで「こいつだ!」と言わんばかりに、その小さな指で必死にガンエンを指し示している。
カエルはカエルなりに、己の使命を全うしようとしているのだ。
けなげやなぁ……涙
なんだか、この姿、1巻に出てきたネルさんの姿に重なるなぁ……涙
だが、そんなけなげな奉仕も──傍若無人なタカトには通じなかった。
そう、ご主人様の機嫌を損ねれば、お仕置きが待っているのだ。
タカトは無慈悲に『美女の香りにむせカエル』を地面に投げつけた!
「お前は! おやじセンサーかァーーーッ!」
ゲロ……!?
悲しげな鳴き声をあげるカエル。
どうやらこのカエル、オッパイはオッパイでも……
よりにもよって、ガンエン――すなわち、オッサンの「雄っぱい」に反応してしまったらしい。
まぁ確かに、ガンエンの鍛え上げられた胸板──立派といえば立派だ。
……うん、仕方ない。
そんなカエルを、ビン子がそっと拾い上げ、優しくなでた。
「かわいそう……あなたは、あなたなりに頑張ったのに」
よだれを垂らし、ピクピクと痙攣しながらも──カエルの顔には、どこか満足げな表情が浮かんでいた。
ほんの少しでも、自分の働きを誰かに認めてもらえた──そんな小さな安堵感。
……こういう顔、昔どこかで読んだような──いや、なんでもない。
って、ネルさんのことじゃないからね。これはカエルの話。カエルの……たぶん。