全方位対応型自動ゴキ掃討戦術兵器
それは遠い記憶……
いや、幼い頃の真音子のトラウマ……。
ある晴れた日、縁側に面した真音子の部屋。
長い廊下の向こうから、バタバタと大きな足音が響いてくる。
その音はドンドンと弾みを増し、母屋の方から真っすぐこちらへと迫ってきた。
真音子は部屋を隔てる障子に目を向ける。
差し込む日差しが障子紙を白く照らし、影を淡く浮かび上がらせている。
その隙間から、黒い影がひょいと身をくねらせて潜り込んできたではないか。
それはゴキブリ。
親指ほどもある黒ゴキである。
だが、そいつの体は傷だらけで、羽は裂け、脚は震えていた。
きっと、どこかで激しい戦いを繰り広げてきたのだろう。
その健気な姿に、幼い真音子の心は妙な同情を覚えた。
「ゴキブリさん……大丈夫」
それは、逃げ惑う小さな命にとって、天より降り注いだ救済のささやきに聞こえたのかもしれない。
ゴキブリはピタリと動きを止め、つぶらな複眼で真音子をじっと仰ぎ見た。
その瞳には、なぜか安堵と恍惚すら漂っている。
そして、ついに安住の地へ導かれたかのように、いそいそと部屋の中へと進み出る。
その歩みは、まるで荒野をさまよった民が約束の地へと入る姿に等しかった。
壁伝いをコソコソと進む小さな背には、確かに“救いに選ばれし者”の威厳があった。
そんな時、真音子の目の前の障子が勢いよくバァンと開いた。
部屋の中に、まるで救済を告げるかのようなまばゆい光が差し込む。
その後光を背負い、一人の巨躯が天より降臨したかのごとく仁王立ちしていた。
「お嬢! 大丈夫ですかい!」
だが、真音子、絶句。
なぜなら――現れたのは、裸にピンクのフリルエプロン、さらに頭から紙袋をすっぽりかぶった大男だったからだ。
いや、真音子にとってイサクの姿は日常である。見慣れている。
見慣れているのに、なぜ、絶句したのか。
それは、彼が手にしていたオタマのせいだった。
その銀面には、無数の潰れたゴキブリがべったりと貼りついている。
もしかして――この道具で味噌汁をつくるつもりなのか?
考えたくもない想像が、否応なく脳裏に浮かぶ。
潰れたゴキブリがずるりと滑り落ちるオタマを振り回し、イサクは障子の間から顔を突っ込むと、部屋中をせわしなく見渡していた。
どうやら、イサクは地を踏み鳴らし、悪魔の如き猛威で廊下を駆け抜け、逃げ惑うか弱き魂――小さきゴキブリ――を追い詰めてきたらしい。
その者は必死に逃げ、命をかけてこの聖域――真音子の部屋――へと飛び込み、救いを求めた。
そして今、恐怖に震えるか弱き者は、箪笥の影に身を潜め、暗黒の化身の手から一瞬の安寧を得るのである。
それを見たイサクはちっ!っと舌をうつ。
「野郎! 隠れやがったな!」
だが、イサクにとってそれは想定内。
なんといっても、金蔵家の家事をすべてこなす男――
ゴキブリ退治などお手の物。見つけた瞬間、オタマでバシコン!
飛来する群体にはブシュ―ッと殺虫剤!
そして何事もなかったかのように、そのお玉で味噌汁を作ることもできる――
まさに、彼に死角など存在しないのだ。
……だが、ここは台所と違って真音子の部屋。
殺虫剤など使おうものなら、真音子の体に悪影響が出るかもしれない。
そんなことになれば……真音子の母親、座久夜に――
「オンドリャ! イサク! うちの真音子になにさらしてくれとんや!」
首根っこを掴まれ、半殺しにされるのは確実。
いや、それで済めばまだいい……完全に全殺し必至である。
もう、ゴキブリを潰すどころか、自分が潰される羽目に……
――さすがに、それはイヤだ。
そこでイサクは考えた。
世の中SDGs! みんなで地球をよりよくするための17個の目標を頑張っている!
――ならば、ここは俺も!SDGs!
「お部屋に優しくゴキブリ退治――サステナブルに攻撃対象を完全駆逐!」
イサクはおもむろに紙袋の中に手を突っ込む。
取り出したのは、コルクで封された透明の2Lほどのガラスビン。
中には、何やらぎっしり詰まっている……
「くらえっ!全方位対応型自動ゴキ掃討戦術兵器!発射ぁぁぁぁぁ!」
イサクはコルク栓を外すや否や、ビンの中身を部屋の中へぶちまけた!
放物線を描き、宙を舞う無数の物体――
数えるとおよそ100……いや、確実にそれ以上!
宙を舞うゲジゲジたちの嵐!
(イサク談:えーっとな、まあ普通ならゴキブリ退治って言ったらアシダカグモとかが定番って話なんですが……いやいや待て、壁にデカいやつがピタッと張り付いてたら──いや、マジで心臓止まるわ! だから無理、完全に無理。想像してみろよ、天井からドーンとか、いやいやいやいや、無理無理無理ってなるだろ? でもゲジゲジは違う。こいつら、マジで臆病だから、安心して使える、うん、結果オーライwwwww、ってわけだ。……なんか違うような気もするけど、まぁいいやwwwww)
そんなゲジゲジが雨のように、驚愕する真音子の顔めがけて降り注ぐ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
その悲鳴は部屋中、いや金蔵家全体に轟いた。
白目をむき、床に倒れる真音子。
だが、そのおかげで部屋に隠れていた怨敵――イサクにとってのゴキブリ――は完全に捕食され、
思惑通り、ゲジゲジたちは物陰に身を潜めた。
……完全にお前のせいだろ、イサク。
(イサク談:まぁ……そうとも言えるし、そうでもないとも言える……)
というのも、それ以来、部屋の中でかさかさという音がするたび、真音子の体はビクンと硬直した。
もしかしたら、どこかに――あの忌まわしきゲジゲジが潜んでいるのではないか……。
考えただけで心臓は跳ね、息は詰まり、夜はまったく眠れない。
布団の中で目を閉じても、想像の影が這い回り、体を動かすことさえままならない。
夜が長く、暗く、重くのしかかる――布団から抜け出してトイレに行くことすら、恐怖に阻まれる。
そして翌朝。布団には、大きな寝小便の跡が広がっていた。
その光景を目にして、泣きじゃくる真音子の姿。
小さな体から漏れ出る嗚咽は、前夜の恐怖の余韻そのものだった。
それを見た座久夜の怒りは、完全に頂点に達した!
「オンドリャ! イサク! うちの真音子になにさらしてくれとんや!」
イサクは捕まり、逆さに吊るされるや否や――
樽に満たされた“ゲジゲジ風呂”へ、頭から突き落とされる!
「ぎゃぁあぁぁぁあ! 姐さん! 許してください! 今度からはアシダカ軍曹にしますから!」
「そんなこと言っとんとちゃうわい! このボケ!」
「世の中!SDGsっすよ! 環境にやさしく、持続可能な方法を考えようってやつじゃないですか!」
「そんなのは守銭奴が考えたことや! 普通に殺虫剤使え! ボケ!」
……もちろん、この凄まじい光景を目にした真音子の小さな心臓は、さらなる恐怖で潰される。
そう、母の正義とイサクの悲鳴、そしてゲジゲジの無数の姿が、彼女の中で鮮烈に結びついた結果――
ゲジゲジとは、もはや存在そのものが災厄である、と。




