走れよ!ビン子!
タカトはクロダイショウとオオヒャクテの群れをかき分け、懸命に走っていた。
「おい! だいじょうぶか!」
その声に、青いスライムが振り返る。
――え? 私のこと?
長い間、誰からも声をかけられることなく、ただ噛まれ、食われ、耐えるだけの毎日だった。
だからこそ、その呼びかけは信じられないほど眩しく、胸の奥に強く響いた。
表面を持ち上げ、後ろを見ようとしたスライムを、タカトはそのままの勢いで抱きかかえる。
生まれて初めて感じる、ぬくもり。
真っ暗な穴の底で、初めて見つけた光。
その一瞬で、スライムはタカトに心を奪われた。
もし小さな心臓があったなら、恋に落ちた音を立てて激しく跳ねていただろう。
タカトはスライムを左わきに抱え、一心不乱に駆け抜けた。
背後からは黒い群れが迫りくる。
壁を這い、地をずり、ずるずるとうごめきながら――獲物を追い詰めるかのように。
「なんでやねん! お前ら!」
止まればすぐ、足にクロダイショウとオオヒャクテが絡みつき、逃げ道をふさがれかねない。
足元でうごめく群れから、唸るような声がもれた。
『ア……ダ……ム……ア……ダ……ム……』
タカトは聞きとがめて、思わず叫ぶ。
「ロッテルダムかアムステルダムか知らんが! 俺の所ちゃうわ! ビン子の所行け! 絶対あっちの方が美味しいぞ!」
とにかくドーム内を、タカトはドタドタと逃げ回っていた。
腕に抱えているのが女の子なのか、スライムなのかも確かめることすらできずに、とにかく走っていた。
その腕の中で、スライムは静かに抱かれていた。
これまで感じたことのない安らぎ。
暗い世界の中で、初めて触れた優しい光。
――ずっと、このまま抱かれていたい……。
しかし、頭の片隅で不安がささやく。
――もしかしたら、この人も、私をいじめるかもしれない……。
ホールの中を右に左に逃げながら、タカトはビン子に叫んだ。
「今なら岩の上から降りられるだろ! 早く! 助けを呼んで来い! 早く!」
タカトの声に、ビン子ははっとして周囲を見渡す。
岩のまわりに群がっていた魔物の数は、確かに先ほどよりも少なくなっていた。
多くがタカトの後を追っていったようなのだ。
地面の岩肌があらわになり、通れる隙間ができている。
――これなら行ける! 降りられる!
ビン子は大きな声で返した。
「分かったわ! タカト! 少し待ってて!」
決意を固めると、カバンから予備のたいまつを取り出し、火を灯す。
「ヨイショ!」
そして、たいまつを片手に岩肌へと飛び降りた。
「ドッコイショ!」
……って、お前はオバサンか! 走れよ!ビン子!
ビン子はそのまま無我夢中で、ホールの出口へと続く道をバタバタと駆けだした。
「ごめんやしておくれやして、ごめんやっしゃ~!」
だが、その行く手にクロダイショウたちが立ちふさがる。
まるで関西のやくざのように――。
『待たんかい! ワレ!』
……いや、もちろん蛇にしゃべる知能はない。
けれど、その緑の眼光がそう言っているように、作者には聞こえたのだ!
さらに蛇たちは、入れ替わり立ち代わりグルグルと。
コレはまさに――!
『ローテーショントークとは、三人で』
『交替にしゃべること』
『や』
『で~』
「うざッ!」
冷たい目でにらみつけるビン子。
だが、武器を持たない彼女には、クロダイショウたちにツッコむ――いや、攻撃する手段がない!
とっさにカバンへ手をツッコみ、何かを取り出す。
♪チャッチャ チャ~ン!
手には一枚のウチワ!
「タカトが作ってくれた――スカートまくりま扇!」
すかさず、開血解放!
大きく振ると、ウチワから噴き出した突風がクロダイショウたちをまとめて吹き飛ばした。
『なんでやねぇ~ん!』
だがスカートまくりま扇も、その一撃で無残に破れてしまう。
どうやら以前、タカトが川に落ちた時に、どこかで傷つけてしまっていたらしい。
「なんでやねぇ~ん!」
ビン子自身も思わずツッコむ。
――だが、道は開かれた!
ホールの出口を抜け、外へと通じる洞穴を一心不乱に駆ける。
もう、足元にゴキブリがいようが、ゲジがいようが関係ない。
――何もいない! 何も見えない! そう、コレは蝶々! 蝶々よ!
そう自分に言い聞かせながら走るビン子。
だが洞穴は、あざ笑うかのようにその先で二つに分かれていた。
分かれ道を前に、ビン子は立ち止まる。
どちらに進めば外に出られるのか、まったく分からなかったのだ。
それもそのはず――。
帰り道が分かるようにとオオボラが壁に印をつけていた時、
ビン子はタカトの背中でグースカピースカ眠っていたのである。
そして追い打ちをかけるように、タカトはその目印のことをビン子に伝え忘れていた。
(だって、それどころじゃなかったんだから仕方ないだろ! タカト談)
「どっちに行ったらいいのよ……」
立ちすくんだビン子は、半べそをかきはじめた。
「早くしないと……”また”タカトが……」
そう、この前森に入った時もそうだった。
イノシシの魔物・ダンクロールに襲われ、権蔵に助けを求めようと森を駆けたのに――結局、迷子になったのだ。
この状況……まさに、あの時と同じ!
ならば……!
♪チャッチャ チャ~ン!
カバンの中から取り出したのは一本のバナナ!
だが、ただのバナナではない!
そう――これこそ!
「タカトが作ってくれた――恋バナナの耳!」
もはや二度目ともなれば慣れたもの。
ビン子は『恋バナナの耳』を開血解放し、すかさず耳に押し当てた。
『……あのドアホが……』
男のぼやき声が聞こえた。
本来、この『恋バナナの耳』は――
耳につければ、遠くにいる女の子の恋話を盗み聞きできるという優れもの……のはずだった。
だが実際に聞こえてくるのは……恋バナどころか、すさんだ花。
不平、不満、嫉妬、怒り。負の感情ばかりだった。
『……あれだけ入るなと言ったのに……』
どうやら声の主は権蔵らしい。
朝からの様子を怪しみ、気づかれぬよう後をつけてきてくれていたのだ。
――近くに、じいちゃんがいる!
その事実に、安堵がビン子の胸を満たした。
涙があふれ出す。
もう少しで外に出られる。権蔵のもとへ行ける――そう思った。
だが……ここは狭い洞穴の中。
耳に届く権蔵のぼやきは岩壁に反響し、方向が全くつかめない。
ビン子はぐるりと周囲を見渡す。
だが、視界は絶望に閉ざされていくばかり。
一瞬にして洞窟の壁が遠のいていく感じがした。
――どうすれば、どっちへ行けばいいの……?
『恋バナナの耳』を押し当てたまま立ち尽くし、声を振り絞る。
「権蔵じいちゃぁぁぁぁぁあぁぁぁん!!」
その叫びは洞窟の奥へと反響し、暗闇に飲み込まれていくだけだった。




