シリウスに向かって飛べ!
オオボラにそんなことが起きていたとはつゆ知らず、タカトとビン子は岩の上でただ怯え、下を見下ろしていた。
相も変わらず、岩の下ではクロダイショウとオオヒャクテの群れが渦を巻いている。
いや、それどころか、ホール中に散らばっていた魔物までもが集まり、地面はもはや足の踏み場さえ残されていなかった。
岩肌を押し上げるようにして壁をよじ登ろうとするもの。
仲間の体の上にのし上がり、鎌首をもたげて威嚇するもの。
頭に反射したヒカリゴケの光が怪しい緑の輝きを放ち、まるで幾百もの眼光が岩上の二人を睨み据えているようだった。
その群れは、落ちてくる獲物を待ちわびている――ナウシカのオームの群れを思わせるほどに。
そんな圧力を肌で感じ取ったのだろう、タカトとビン子は身を寄せ合い、抱き合うようにして震えていた。
その様子はガンシップに乗るナウシカとミト
「ビン子! 岩の下まで3分、エンジンスロー 岩の下へ降りろ!」
「なんでじゃ! この光は!」
「王蟲!!! じゃなくて魔物だ!」
「なぜ⁉ どうやって魔物を?」
「だれかが俺を呼んでいる!ビン子! シリウスに向かって飛べ!」
「いやよ!! 大体シリウスってどっちよ!」
「いる! ビン子! 照明弾! 用意撃て!」
「照明弾はないけど、松明でいい?」
ビン子が苛立ち紛れに松明を放り投げた。
火は地面を転がり、暗闇を切り裂くように揺らめく。
その光に照らし出されたのは、ホール中央の穴からずるりと這い出てくる青い塊――スライムだった。
どうやら、オオボラが垂らしたロープを伝い、後を追うように地上へと姿を現したらしい。
――あれは……なんだ? いや……女の子?
タカトの目に、そのスライムはひとりの少女の姿に見えた。
幻か、それとも真実なのか。判別はつかない。
だが確かにそこにあるのは、孤独に押し潰され、心を喪ったかのような――あまりにも寂しげな存在だった。
「ああっ! なんてひどいことを!! あの子をおとりにして群れを呼び寄せているんだ」
「叩き落とすわよ! タカト! どう見てもスライムでしょ!」
這い出た青スライムは、クロダイショウに頭を小突かれ、オオヒャクテに伸ばした腕を踏み潰される。
そのたびに地を這い、必死で立ち上がろうとする。
だが魔物どもは、それを玩具のように何度も何度も繰り返すのだ。
響き渡る音が、あざ笑いにしか聞こえない。
その光景は、タカトの胸を抉るような不快さを呼び起こした。
町で道具を運べば「汚い」「臭い」と陰口を叩く女たち。
弱々しい風貌をあざけるように、犬のように小突いて笑う男たち。
――何度も、何度も。
余興でも楽しむかのように、何度も繰り返されたあの屈辱が、今まざまざと蘇ってくるのだった。
その瞬間、タカトの全身の毛穴が総立ち、血が沸き立つのを感じた。
思考よりも先に体が動き、小剣を握りしめて――クロダイショウとオオヒャクテが渦巻く黒い海へと身を投げた。
「開血解放!」
権蔵に直してもらった小剣が青く閃き、とびかかる魔物を次々と切り伏せる。
岩の上から、ビン子の悲鳴が響く。
「ちょっと! どこへ行くのよ!」
「女の子がいじめられてるんだ!」
タカトは叫びながら、黒い海をかき分け、青いスライムの方へと突き進む。
――女の子? ……え、どう見てもスライムでしょ。
ビン子の目には、タカトが向かう先にあるのはただの丸い青い塊にしか映らない。
彼の言葉の意味が分からず、石の上でただ戸惑うしかなかった。
しかし、この青いスライムは――一体いつから、この穴の中にいたのだろうか。
スライムの視界がゆっくりと開けていく。
けれど、そこには何もなかった。
距離も、空間も、形すらも認識できない。
ただ一面の闇。
気がついた時には、すでに世界は完全な暗黒に閉ざされていた。
光の届かぬ深淵を、スライムはおそるおそる進み出す。
やがて、つるりとした冷たい壁にぶつかった。
何も見えない。
だから、ただ壁に体を沿わせ、滑るように動き始めるしかなかった。
――きっと、いつかはどこかに辿り着ける。
スライムはそう信じて、進み続けた。
だが壁は果てしなく続き、終わりを告げることはない。
まるで、尽きることのない一本道を歩かされているかのように。
それでも足を止めることはできなかった。
この闇の中では、進むことだけが唯一の行為だったからだ。
やがて、どれほどの時が過ぎただろうか。
ふと、頭上にうっすらと緑色の光が浮かんでいるのに気づいた。
それはまるで、大きな月のように見えた。
だが、月ではない。
穴の口から差し込む、ヒカリゴケの淡い輝きだった。
その瞬間、スライムは初めて理解した。
自分が歩いていた道は、まっすぐな一本道などではなかったのだ。
ただ穴の壁に沿って、ぐるぐると同じ場所を回っていただけなのだと。
無意識のうちに体を擦りつけていたせいで、壁には薄い輪のような跡が描かれていた。
静かに、何度も、何度も。
穴の中には、スライムが一匹きり。
そこはスライムだけの世界だった。
他には何もない。ただ、擦れた壁が淡くきらめくだけ。
やがて、頭上の緑の月は少しずつその光を増していった。
それはまるで、孤独なスライムを憐れむかのように、涙をこぼしているようだった。
ぽたり――と水滴が落ちる。
その雫は、暗闇の中で唯一の恵み。
不思議と、空腹は感じなかった。
けれど、その滴を口に含むたび、スライムの心は満たされていった。
まるで、月の優しさを飲み干しているかのように。




