痕跡
一方、小門という名の洞窟内。
タカトはビン子を背負い、オオボラの後をついて歩いていた。
洞窟の中は、どんよりと湿った空気に満ちている。汗が乾かず、服が肌にべったりと貼りつくほどの蒸し暑さだ。
天井からはポタリ、ポタリと水滴が垂れ、頬に落ちたそれが汗と混ざってぬるりと伝う。
タカトは空いた手で額をぬぐいながら、内心で悪態をついた。
──しかし、蒸し暑いな……
足元を見れば、水滴がつくる筋が脇の暗がりへと流れていく。
その奥から、水音が先ほどよりもはっきりと、そして近くに響いてきた。
どうやら、すぐそばに水脈があるらしい。
そんな中、タカトの目蓋は徐々に重くなり始めていた。
珍毛との戦闘で張り詰めていた集中力が切れたせいか、眠気が容赦なく襲ってくる。
──いや、マズい……眠い……
背中には気を失ったビン子。決して下ろすわけにはいかない。
それに、前を行くオオボラだって、足を引きずりながら必死に歩いているのだ。
何とか眠気を振り払おうと、タカトは奥歯を噛み締めて歩を進めた。
だが、体は正直だった。
── 一体……なんなんだよ、この眠気は……
三人の進む先──
角を曲がった闇の奥で、ふいに青白い光が、息を呑むように浮かび上がった。
オオボラたちは壁をつたって歩き、その光の口へと静かに足を踏み入れる。
そして、次の瞬間──ぴたりと立ち止まり、そろって天を仰いだ。
そこには──満天の星空が広がっていた。
「すげぇ……」
「マジかよ……これ……」
思わず漏れたのは、言葉にならない感嘆の声。
洞窟の中であることすら、一瞬忘れてしまいそうなほど、そこは静謐な光の世界だった。
その空間は、体育館が二つは入るほどの巨大なドーム。
柔らかな青白い光が、あたり一面を包み込んでいる。
その光源は──壁面をびっしりと覆う無数のヒカリゴケ。
青白い微光が、岩肌をつたう水滴に染み込み、まるで命を宿すように脈動していた。
光は揺れ、にじみ、反射しながら、空間全体へと穏やかに拡がってゆく。
だが、その輝きが届かぬ、はるか高みの天井の奥──
そこには、深く、暗く、底知れぬ空が横たわっていた。
その闇の中を、グローワームや、名も知らぬ発光生物たちが静かに群れをなして漂っている。
瞬くたびにきらめく無数の光が、まるで星座のように浮かび上がり──
この地下の楽園に、もうひとつの夜空を描き出していた。
感動に胸を打たれたタカトは、思わず背中のビン子を揺り起こした。
「おい! ビン子! 起きろよ!」
こんな光景、そう何度も見られるものではない。
――この地下の星空を、ビン子にも……いや、ビン子と一緒に見たい。
星空を見上げるふたり。
自然と手が触れ合い、そっとつながる。
言葉はいらない。ただ、共に空を見上げる。
それだけで、きっと十分なのだ。
……しかし──
いくら肩を揺すっても、ビン子はまったく目を覚まさない。
「くそっ、このボケビン子が……!」
ロマンチックな瞬間が、手の届くところにあるというのに。
なんて間の悪い女だ。
苛立ちを隠しきれず、タカトはさらにビン子の身体を揺すった。
その瞬間だった。
睡魔のせいか、タカトの足がぬれた岩の上をつるりと滑った。
しかも滑った先は、よりにもよって暗い谷底――地下水脈の方角。
タカトは背負ったビン子ごと、川へ向かって勢いよく滑り落ちていく。
「わっ! わっ! わっ! わっ! わぁーーーーーーーーーっ!」
冷たい岩のつるりとした感触が、ボロボロのズボン越しに尻の皮膚をこすっていく。
だがその中でも、タカトは本能的に背中のビン子をかばおうと、必死に身体を前に傾けた。
――ドスン!
「いてぇっ!」
幸運だった。滑落は、そこで止まった。
岩の下にあった大きなくぼみが、タカトの顔面を見事に受け止めたのだ。
すぐさまタカトは、背負っていたビン子の様子を確かめる。
「ビン子! ケガはないか!」
その身を挺して守ったおかげで、ビン子に目立った外傷はなかった。
タカトはホッと胸をなでおろす。
だが、衝撃はそれなりにあったはずなのに……
──こいつ……まだ寝てやがる。
まるで何事もなかったかのように、ビン子は静かに寝息を立てていた。
よほど疲れていたのか、それとも……
その姿はまるで、命の炎を極限まで絞って眠りにつく、冬眠中のリスのようだった。
オオボラが、崖の上からロープを垂らして叫んだ。
「タカト! 大丈夫か!」
「あぁ、ちょっと……ふらついただけだ!」
タカトはビン子を背中に縛りつけ、崖に垂れたロープをつかんだ。
が、まともに力が入らない。
結局、オオボラが半ば引きずるようにして引き上げてくれた。
地上に戻ると、タカトはハァハァと肩で息をしながら、近くの大きな石の上にビン子をそっと寝かせた。
そして、どこかほっとしたような表情を浮かべると、石の壁に背中を預けるように腰を落とす。
そのまま、まぶたを閉じながら、ぽつりとつぶやいた。
「悪い……ちょっとだけ……寝かせてく……れ……」
声は語尾に届く前に、夢へと溶けていった。
タカトの意識はすでに深い眠りの底へと落ちていた。
その様子を見たオオボラは、ふっと目を細め、ドームの内部をぐるりと見渡す。
「……少し、休むか」
天井は、大きくくり抜かれていた。
それはまるで、何か巨大な爆発がこのホールの中心で炸裂したかのような光景だった。
オオボラは、壁面にそっと手を添え、ヒカリゴケの覆いをなぞるように拭い落とす。
露わになったのは、鍾乳石のような質感ではなく──硬質な、まるで溶けたガラスが冷えて固まったかのような、透き通った光の肌。
その輝きは冷たいのに、どこか生き物の体温を思わせた。
触れてはならぬものに触れてしまったような──そんな背筋のざわつきが、指先に残った。
――もしかして、これ……命の石か……?
思わず、別の箇所にも手を伸ばし、ヒカリゴケをぬぐう。
やはりそこにも、同じように冷たく煌めく石の面が広がっていた。
――おいおい……この壁面、全部……命の石ってことかよ……
ごくり、と喉が鳴る。
それもそのはず、命の石とは極めて希少な宝石である。
かつてタカトがミズイに買い与えた親指大のかけらでさえ、金貨二枚(およそ二十万円)という高値がつくのだ。
それが今、目の前の体育館ほどもある壁一面に、無数に──びっしりと──埋め込まれているのだ。
……その総量と価値たるや、国ひとつすら買えるかもしれない。
そのとき、オオボラの脳裏に一つの確信めいた予感が走る。
――これが命の石であるとするならば……このホールの中心に、爆心地があるはずだ。
そう、命の石とは「荒神爆発」の際に発生する神の生気が結晶化したもの。
つまり、この巨大なドーム空間そのものが、かつて荒神爆発によって生じた「痕跡」なのだ。
――だが……こんな規模の爆発跡など、聞いたことがない。
荒神が聖人世界に顕現したとき──放置すれば、町ひとつが跡形もなく吹き飛ぶ。
だが、人々はそれに抗う術を持たなかった。荒神の浄化など、ごく一部のものにだけ認められたスキルなのだ。
唯一の手立て。それは、「小門」と呼ばれる異空間へと、荒神を封じ込めること。
そして、そこで引き起こされるのが──荒神爆発。
その余波によって、かろうじて命の石が採れる。
ほんのわずか、しかも混じり気のある、粗末な結晶が。
……通常、命の石とは不純物を多く含み、純度も低いものなのだ。
──だが、ここは違う。
命の石は、異様なまでに澄みきっていた。
その量も、質も──まさしく常軌を逸している。
──これほどの神性が、この空間に封じられていたというのか。
思い浮かぶは、原初に座した神──“融合の神スザク”。
もしかしたらそのような存在が、ここにつながれていたのかもしれない。
それを確かめるかのように、オオボラはゆっくりと歩み出す。
音もなく、けれど確かに──この世ならざる中心へと、足を踏み入れてゆく。
そこには、眠れる神性の核が──ただ、静かに脈動していた。




