戦には勝って、勝負に負けた!
ほどなくして、洞穴の中は静まり返った。
あれほど騒がしかった巨像の姿は、もはやどこにもない。
巨像を構成していた万毛たちは──浮気男への憂さ晴らしを終えるやいなや、潮が引くように岩陰へと散っていった。
それぞれ、何事もなかったかのように、勝手気ままに。
そして、オオボラの目の前に残されたのは──一匹のナマコ。
……いや、どちらかといえば「ナミガイ」と言ったほうがしっくりくるかもしれない。
というのも、そこに横たわっていたのは、ナミガイ特有のビローンと伸びた水管。
チ○コのようにも見えるが──実際この水管、コリコリとした歯ごたえ、柔らかな紐身、そして磯の風味と旨味を楽しめる、なかなかの珍味なのだ。
そんな水管のような触手が、オオボラの目の前に──ドーンと10メートル!
……いったいこれだけあれば、何人前の刺身が作れるというのかwww
オオボラは、その巨大な触手を足先で、つん、と小突いた。
だが──カリ頭は、もはやピクリとも動かない。
触手の先端からは、魂が抜け落ちたかのように……白濁した唾液が、力なく、よだれのように垂れていた。
「……なんとか勝ったか……」
万毛たちの執拗な集中攻撃により、珍毛は──完全に事切れていた。
だが、死んだのは珍毛だけではなかった。
もう一人、魂を抜かれた者がいたのだ。
それは──タカトである。
「……何が勝ったかだよ、このバカ野郎がぁ……!」
地面に膝をついた彼は、肩を震わせ、うなだれていた。
その目の前には、一冊の本。
「確かに! 戦には勝ったわい! だけど! だけどなあ!」
嗚咽と共に拳を地面に叩きつける。
「勝負は──ボッコボコ! いや、ドロッドロの! 大負けじゃあああああ!!」
その叫びの先にあったのは、白濁の海に沈む写真集だった。
まるで、レイプされた乙女が泥沼に放り込まれたかのように──
ぺらりとめくれたページの中で、けなげに微笑むアイナちゃん。
だが、その笑顔も、スルメドリップの潮に溺れ、歪んでいた。
タカトは、震える手でページの端をつまみあげた。
糸を引くスルメ汁が、ぽたぽたと垂れ、岩肌に落ちる。
鼻を突くイカ臭さが、残酷な現実を突きつけてくる。
「……俺の……アイナちゃんが……」
その一言に、全てが詰まっていた。
──抱きしめたい。ただ、それだけだった。
だが、それは叶わぬ願い。
目の前に滴るその液体は、スルメドロップ。
魔の生気を孕んだ猛毒だ。
指先で触れようものなら、小指から孫指がボコボコと芽吹き、
やがて脳までやられ、人魔症を引き起こすに違いない。
──捨てるしかない。
……だが、捨てられるものか!
これは、すでに絶版となった伝説のグラビア本。
涙と汗と煩悩で手に入れた、唯一無二の宝物なのだ。
その価値は──金ではない、愛である!
タカトは、決意した。
写真集をそっと抱え、岩陰に穴を掘った。
湿った土の中にそれを埋め、小石で作った墓標を立てる。
「愛するアイナちゃん……ここに眠る」
そして、静かに──頭を垂れた。
そんなタカトの様子を見ながら、オオボラは彼の言葉を思い出した。
──確か、こいつ……超貴重品って言ってたよな……。
申し訳なさからか、それとも哀れみに近い感情からか──
オオボラは、タカトの肩越しにそっと声をかけた。
「……すまなかった……」
だが、タカトはうなだれたまま、一言も返さない。
まるで、愛する人の墓の前から動こうとしない忠犬のように、じっとその場に座り込んでいた。
──このままでは埒が明かない。
ようやく、珍毛の脅威は去ったのだ。
キーストーンを探すべく、奥へと進まなければならない。
だが、タカトに「行こう」と声をかけたところで、きっと逆効果だ。ますます意固地になるに違いない。
ならば──
「……確か、『アイナと縄跳び』だったか」
オオボラは静かに言った。
「俺がそれを探しておいてやるよ。それでいいだろ」
その瞬間──
「マジかっ! 嘘じゃないよな、それ!」
パッと振り返ったタカトの顔は、まさに満面の笑み。
……あまりの切り替えの早さに、オオボラは引きつった笑みを浮かべつつ、一歩後ずさった。
「ああ……ちゃんと約束は守るよ」
***
いつの間にか、タカトたちの横を地下水の川が流れていた。
チョロチョロという細い水音が、暗闇の底から微かに聞こえてくる。
その音の響き方からして、かなりの深さがあるのだろう。
──落ちたら、もう二度と戻ってこれないかもしれない。
そんなことを思いながら、タカトは濡れた岩肌を慎重に踏みしめて進む。
だが──
珍毛との戦いが終わったからか、それとも緊張の糸が切れたせいか、またしても睡魔が容赦なく襲ってくる。
まぶたが重く垂れかけ、それを意地でこじ開ける。
目の前で揺れるオオボラのたいまつの灯りが、何重にも滲んで見えた。
何度も「ちょっと休もうぜ」と口にしかけた。
けれど──
オオボラの様子を見て、タカトは言葉を飲み込む。
どうやら先ほどの戦いで、足を傷めたらしい。歩き方が明らかにぎこちなく、何度も岩肌につまずきかけていた。
ならば、なおさらだ。
一刻も早くキーストーンを見つけねばならない。
──オオボラのために。
そんな思いで、タカトは眠気と闘いながら足を進める。
……だが。
ビン子は相変わらず、タカトの背中でスヤスヤスヤ……
──こいつ! 少しは気を遣えよ!
タカトは内心そうツッコミを入れるが……
実はこれ、これでビン子なりの「気遣い」だったりする。
だがその真意をタカトが知るのは、まだまだ先のお話なのである。




