林民明書房刊・異界秘奥義伝──巻之弐
後ずさるオオボラの足が、濡れた岩肌でツルリと滑った。
「うっ!」と声をこらえながら、どすんと尻もちをつく。
その拍子に、手から性書がポトリと地面に落ちた。
その瞬間、カリ頭がピクッと反応し、先端をさっと向けた。
狙いは──オオボラではなく、落ちた性書。
ずるっ……ずるっ……
ぬめった胴体をくねらせながら、カリ頭がゆっくりと近づいていく。
そしてじぃ~~っと性書を凝視し始めた。
──やっぱり、めっちゃ見てるやん……こいつ
タカトが思わず心の中でツッコミを入れるほど、カリ頭は完全に魅了された様子で、まるでエロ本をガン見する男の子のように性書を見つめ続けている。
どうやらアイナちゃんの魅力には抗えなかったらしい。
まぁ、無理もない。これはこの国で一番売れているトップアイドルの写真集なのだから。
カリ頭の“目”には、もはやタカトもオオボラも映っていなかった。
それを見たオオボラが、小声でタカトに尋ねる。
「なぁ……タカト……こいつ、生身の女じゃなくて、写真にも反応するんだな」
「そうなんだよ……だから、珍毛の回避法ってのがさ、エロ本のページ見せながらそっと通り抜ける、ってやつなんだよwww嘘みたいだろwww」
イカ、いや……以下、『林民明書房刊・異界秘奥義伝──巻之弐』より抜粋
『珍毛に遭遇した際、焦るな危険。抜くな本能。見せろエロス。
この古来より伝わる対処法は、唐の末期に活躍した色道仙人・”陳茎露”によって編み出されたとされる。
陳茎露は、雌雄を問わず魔性にモテすぎたため、追いすがる珍毛の触手から逃れるべく、“悩殺開帳の術”を考案。
これは、あらかじめ用意したエロ本の中でも最も淫靡な頁を珍毛に対し開示し、その注意を奪うことで、脇を静かにすり抜ける秘儀である。
ただし、この術には一つだけ絶対の禁忌がある。
──ページを、閉じるな。
閉じた瞬間、珍毛は「読了」と判断し、感想文代わりに触手の鞭を全力で打ち込んでくるという。
この技は後に「珍道中開帳流」として、一部の変態武術家に受け継がれ、現代に至る。』
「ていうか! そんな重要情報、もっと早く思い出せよ! ボケタカトが!」
「悪いwww悪いwww俺もさっき思いだしたんだよwwww」
だが、オオボラはなぜか感心したようにうなずいた。
──なるほど……そういうことか……
あの骸骨の男は、こうして珍毛の生息域を突破していたんだな。
だが、それが分かったところで──
オオボラの顔には、うっすらと絶望の色が滲んでいた。
「というかさ……あれの横を通り抜けろっていうのか……」
彼の目の前に立ちはだかるハナゲの本体──巨大な象のごときその体は、明らかに苛立っていた。
跳ね馬のように前足をドンドンと踏み鳴らし、地面を揺らすほどに荒れ狂っている。
──あれを抜けようとした瞬間、間違いなく踏み潰される。
たとえ触手をかわしたとしても、本体が控えている限り、突破は不可能だ。
「まぁ、それは、あくまで珍毛に効くって話だからな……ハナゲに通用するかどうかは知らん」
タカトは肩をすくめ、突き放すように言った。
「……まぁ、やるだけやるか」
オオボラは足元に落ちていた性書を拾い上げ、開いたページをそっとハナゲの触手に向けた。
慎重に、ゆっくりと──忍び足でハナゲの方へ進み始める。
触手のカリ頭が、その動きに合わせるようにヌルリと追従してくる。
遅れまいと、タカトも背後からそっとついて行った。
そして小声で耳打ちする。
「オオボラ……いいか……絶対にその性書、なくすなよ。……超!貴重品だからな」
オオボラは顔を動かさず、かすかにうなずく。
「ああ……わかってる。帰りにも使うんだろ?」
──当然だ。帰りもまた、この道を通らねばならない。
この場をしのげても、性書を失えば帰り道はないも同然だ。
「いや……帰りのことじゃなくて……」
だが、タカトの本心は別にあった。
この写真集は、すでに絶版となり二度と手に入らぬ幻の一冊。
一度はビン子によって捨てられた──と諦めていた性書が、奇跡のように戻ってきたのだ。
それを、珍毛ごときに奪われてたまるか。
だが、その思いは届かず、オオボラがピシャリと言い放つ。
「静かにしろ! タカト……!」
目の前には、ハナゲの象のように巨大な前足がドンと立ちはだかる。
絡みつく万毛の毛と、ヒダヒダした何か──そして、生臭い体臭が鼻をつく。
二人は息を殺し、岩肌を滑らせるように足を動かす。
カリ頭が、その動きに合わせてヌルリと追いかけてくる。
その時――オオボラの足がわずかに滑った。
度重なる珍毛の攻撃で疲れが見え始めていたのだろう。
「ズリッ」という低い音が、静かな空気を切り裂いた。
次の瞬間、性書がポトリと地面に落ちる。
二人の目にスローモーションのように落ちていく性書のページ。
アイナちゃんが映るカラーのページが徐々に閉じていく。
まるで色鮮やかな蝶が羽を静かに休めるかのように。
そして背表紙が地面に触れると、軽く跳ね返り、パタリと音を立ててページが閉じかける。
その瞬間、世界が止まったかのように感じられた。
もし、このままページが閉じてしまったら――
全てが終わる。
ハナゲはそれを「読了」と誤認し、触手の一撃が二人に襲いかかるだろう。
この至近距離では、避けることなど到底不可能だ。
背中のビン子を盾にする暇など、まったくない。
二人の頭に、自分の体を貫く触手の未来が鮮明に浮かんだ。
まるで肉棒が処女膜を破るかのように――ぶすり、と。
――まずい!
そう思った刹那、オオボラが閉じかけた性書へと足を伸ばした。




