プロローグ
薄暗い森の中。
黒いローブをかぶった老婆が、ふらつく足取りで森の奥へと進んでいく。
かつては死の淵にあったその身体も、今は命の石の力でなんとか持ち直していた。
だが、完全には癒えていない。肩はわずかに震え、呼吸も浅い。
深く刻まれた皺だらけの手が、目の前の茂みをゆっくりとかき分ける。
ガサリ……ガサリ……
そのローブの奥。ぎらりと光る金色の瞳には、消えぬ恨みが宿っていた。
怒り、執着、そして──何かを企む者の目。
この老婆──名はミズイ。
コンビニの前でベッツに「汚いババア」と罵られ、足蹴にされていた。
ぼろ雑巾のように朽ち果てた体は、もはや虫の息。
誰も助けてはくれない世の中を、彼女は恨み呪っていた。
そんな中、タカトとビン子に命を救われる。
そして二人に向かって、笑いながら言い放った。
「I’ll be back」
……その約束が、今まさに果たされようとしていた。
タカトたちと別れた後、ミズイは万命寺へ続く道の脇に広がる森へと走り込んだ。
「あのガキども……絶対に許さない……」
凍りつくような怨念が、その声にこもっている。
何度も蹴られ、罵られ、痛めつけられた記憶が、胸の内で燃え盛っていた。
神であるはずの彼女の心は、すでに狂気に染まっていた。
ベッツたちの体をずたずたに引き裂きたい──そんな穢れた復讐の炎がほとばしっている。
今のミズイは、命の石の生気でかろうじて体を動かせるだけ。
神の恩恵など、遠い夢のようなものだ。
それでも、胸に宿る復讐心は深く、冷たく、激しい。
あいつらを絶対に許さない──そう、心に誓ったのだった。
「はあ、はぁ、はぁ……」
肩で荒い息をつきながら、ミズイは木々に囲まれた小さな空地に、ひときわ存在感を放つ岩の塊を見上げた。
「やっと着いたか……年は取りたくないねぇ、ホント」
そう呟くと、腰を伸ばしながら岩肌をトントントンと叩く。
両手を広げ、目をぎゅっと閉じると、岩山の表面が不気味に震えはじめた。
ブツブツと何かを呟く彼女の声が、岩の冷たさに溶け込む。
やがて岩肌がゆっくりと割れ、腐れた傷口のような大きな穴が現れた。
穴は人がやっと潜り込めるくらいの狭さで、奥は深い闇に飲み込まれている。
湿った空気が、死臭を帯びた冷気となって外へと押し出されてくる。
腐敗した何かの匂いが鼻をつき、嫌な寒気が背筋を走った。
この穴こそ、かつてミズイが封じていた“小門”の入口だった。
薄ら笑いが、彼女の唇を歪ませる。
「ガキどもに……とっておきの贈り物をしてあげなきゃねぇ……ふふふっwwww」
そのまま、冷気に包まれた封印の穴へ、ミズイはゆっくりと足を踏み入れた。
洞窟の奥。
広がるホールは体育館ほどの空間を有していた。
周囲を覆う壁や天井は、まるでガラスのように透き通り、青く輝いている。
ミズイの指先から放たれる光が乱反射し、無数の光の粒が壁や天井に散りばめられていた。
まるで星々が瞬くプラネタリウムの中にいるかのように、幻想的な光景だった。
ミズイはそっとそのガラス状の壁に手を当て、穏やかな吐息とともに昔を懐かしむように囁いた。
「……アリューシャ……ごめんね……」
その言葉は、先ほどまでの鋭さを失い、家族に向けるかのように優しく温かかった。
「ちょっとだけ……ほんの、ちょっとだけ……あなたの生気を分けてちょうだい……」
そう言い終えると、彼女はガラスのような岩肌に口づけをした。
その瞬間、しわだらけだった頬に、かすかに張りが戻ったように感じられた。
「あのタカトという少年に神の恩恵を授けてあげたいの……アリューシャ……あなたも会えばきっと気に入ると思うわ……」
その言葉は、先ほどベッツに向けた激しい憎悪とは明らかに異なっていた。
感謝か──いや、むしろ愛に近い響きを帯びていた。
しかし、その感情もつかの間。
ミズイの表情は再び険しく歪み、恨みの色を帯び始める。
意を決したように、彼女は魔の国へと続く洞穴の奥へと歩みを進めた。