ミズイの提案
「本当ですか、神様!」
思わず声を上げたのはオオボラだった。
小門への足掛かりが見つかるかもしれない──その希望に胸を躍らせ、顔を上げた彼の表情は明らかに輝いていた。
だが、すぐにその瞳が引き締まる。
「……しかし、それはありがたいのですが。その見返りはいかなるものでしょうか?」
さすがオオボラ、抜け目がない。
相手は神。情報をタダで渡してくれるほど、甘くはないはずだ。
賽銭箱に十円しか入れなければ、十円分のご利益しか得られない──
それがこの世界の「神理」である。
日本の神様だって、そういうところは同じだ。
ならば当然、何がしかの“代価”を求めてくるのは道理だろう。
問題は、その代価が──自分たちに支払えるものであるかどうか、だ。
「お主、よく話がわかっておる……そこの馬鹿どもに比べれば話が早いわ」
ミズイはそう言って、チラリとタカトとビン子を睨みつけた。
いまだに「ババア!ババア!」と指をさして騒いでいる二人に、明らかにイラ立っているようだ。
……が、その金色の視線をよくよく追ってみると、睨まれているのはタカトではなく……どうやらビン子の方らしい。
あのギラついた目の輝き──これは……まさかの“ライバル視”?
だが、当のビン子はというと、まったくそんなことには気づいていない。
いや、仮に気づいたとしても、何に対して張り合われているのか、想像すらつかないだろう。
神としての格を競っている……?
でも、ビン子ちゃん、今は記憶喪失の何もできないポンコツ神様ですよ……?
ならば、恋のライバル?
まさか、タカトをめぐって!?
いやいやいやいや、あのタカトですよ?
たとえ賽銭箱に100円投げ込まれても、願い下げってやつです。
──とはいえ、ババアであろうと女であることは間違いない。
そのババアが自分の“持ち物(仮)”であるタカトを馬鹿にするのは、なにげに癪に障る。
だから、ビン子は思わず叫んだ。
「いえいえ! コイツは馬鹿じゃなくて──ただのアホですから!」
……あれ?
今の、フォローのつもりだったのかもしれない。
けど──むしろダメージ倍増だった。
タカトはショックを受けたように、肩を落としてビン子を見つめる。
「……いえ、それ……“訂正”じゃなくて……“取消し”でお願いしたいんですけど……」
言葉の端に、かすかな哀願の色がにじむ。
そして次の瞬間、うなだれるタカト。
その姿はまるで、心の中の“自己肯定感”をかき集めて、ちょっとでもプライドを守ろうとしているようだった──。
オオボラは、くだらないやり取りを断ち切るように声を張った。
「して──その見返りとは、何でしょうか?」
その声に、場の空気が一瞬、張りつめる。
もし、要求されるのが金なら……もう、それまでだ。
タカトやビン子ほどではないにせよ、オオボラもまた、一般国民の身。
懐に余裕などあるはずがなかった。
だが──それでも。
――腕一本ぐらいなら、くれてやる……
迷いのない覚悟だった。
その瞳に宿るものは、軽はずみな意地や見栄ではない。
それほどまでに、小門──そして、その先にある“キーストーン”の価値は重い。
金で買える未来が、そこにあると信じているのだ。
だが、そんなオオボラの覚悟をあざ笑うかのように──
ミズイは、なぜか急に目を伏せ、もじもじと指を絡め始めた。
頬はほんのり紅潮し、口元はそわそわと動いている。
何度でも言うが……目の前のミズイはババアである。
その姿はまるで恋する乙女、だが中身は年季の入った干し柿のようなババアだ。
その口から、なにやらか細い声が漏れる。
「……の……を……カプッと……その……あの……」
あまりにも声が小さくて、何を言っているのかさっぱり分からない。
さすがのオオボラも、これにはさすがに苛立ちを隠せなかった。
「は? なんですか? もっと、はっきり仰ってください!」
言葉こそ丁寧だが、その声音には怒気が混じっていた。
神を前にして、ここまで語気を荒げるのは本来ならば御法度。
だが、腕一本を覚悟した直後にこれでは──さすがに肩透かしを食らった気にもなる。
しかも、その“もじもじババア”の空気に引っ張られて、覚悟の熱すら冷めかけていたのだ。
オオボラの語気に押されたのか、ミズイはぎゅっと目をつぶり、意を決して声を張り上げた。
「だ、だからじゃのっ! そこのタカトの──首をすこし、カプッとさせてくれと言っとるのじゃ!」
ローブの隙間から覗いたミズイの顔は、見事に真っ赤っかだった。
頬を染め、目をうるませ、恥じらいを浮かべながらも、それを必死に打ち消すようにぶんぶんと腕を振る姿──
もしこれが若い乙女だったなら、間違いなく“激萌え”必至のシーンだっただろう。
……だが、現実とはつくづく残酷である。
目の前に立っているのは、“激萌え”ではなく、“激饐え”のババアであった。
しかも、年季の入りすぎた、しわの谷間から煮詰まった煮しめのような香りが漂ってきそうなタイプの。
白目で固まるタカト。
口を半開きにしたままフリーズするビン子。
その瞬間、二人の脳裏に浮かんだ言葉は、おそらく同じだった。
──それ、老婆じゃなければ、めっちゃ可愛かったのに……!
この瞬間、誰もが“惜しい”という言葉の本当の意味を知った気がした。
だが、そんな空気など我関せずの男が一人いた。
そう──オオボラである。
「そんなことですか」
静かに立ち上がったかと思うと、オオボラは一直線にタカトのもとへ歩み寄り──
「うわッ!」
ガシッ!!
いきなりタカトの髪をわしづかみにすると、そのままズルズルとミズイのもとまで引きずってきた。
「さあ、どうぞ」
そう言って、タカトの首をぐいっと押し曲げ、ミズイの前に差し出す。
へっ……!?
あまりにも咄嗟すぎて、タカトは一切の対応ができなかった。
──ちょ、ちょっと待て! 俺の意思は!?
「首を“カプッ”」って言い方こそ可愛げはあるけど、要するに“噛む”ってことだろ!?
これ、絶対あれじゃん! 映画とかでよくあるやつ! バンパイア!
──まさか、このババアに噛まれたら、俺、バンパイアになるのか!?
いや、それよりも──ババアの眷属として一生こき使われるのか!?
だったら……!
だったら、まだビン子にこき使われてる方が、精神衛生上マシだわッ!
しかし、どうにもならない。
というのも、オオボラのえげつない握力で、タカトの口は完全封鎖。声も出せない。
しかも、もう片方の手で後頭部を押さえつけ、首を「く」の字にセット。
……めちゃくちゃ噛みやすい角度に調整されている……!
もう、なすがまま──なされるがままのタカト。
せめてもの抵抗とばかりに、必死で目だけを動かし、ミズイに無言の訴えをぶつける。
──噛むな! 噛むんじゃねぇぞババア! 俺までババアになるじゃねーか!
だが! 安心しろ──
君は決してババアにはならない。
なぜなら君は、男! ジジイになれる可能性を秘めている!!
ミズイは恥ずかしそうにローブの中で小さくなり、モジモジとし続けていた。
だが、目の前にはタカトの首がむき出しになっている。
ゴクリ……と生唾を飲み込むと、
「それでは、遠慮なく……」
カプっ!
しわくちゃの唇がタカトの首に吸い付いた。
あっ……♡
タカトは、なんだかある種の興奮を覚えたような……覚えなかったような……




