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初恋オルゴールで君は再び蘇る  作者: いっしー
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掴める波

 海が見える街に住んでいながら、間近で波の音を聞いたのはいつ以来だろう。


 歩は陽光を白く反射する水面に目を細めながら、そんなことを思った。


 ありがたいことに周りを見ても誰もいない。すぐ近くには夏になると人気のビーチもあるのだが、自分がいる砂浜は波の関係で海水が冷たいのと、すぐに海底が深くなるということで訪れる人は少ないのだ。たまに釣りをする人を見かけるのだが、今日はそんな人もいなかった。


 ざあと繰り返す波の音を聞きながら、歩は右手でポケットから取り出したオルゴールを握った。彼女がいつか言っていた憧れの一つを、今日叶えることができる。


 歩はゴクリと唾を飲み込むと、オルゴールにそっと指先を近づける。約束の日が訪れた真那からのプレゼントは、再びその閉じ込めていた真の姿を現わした。


 パチン、と蓋が開く音が聞こえたと同時に、歩の耳に響いていた波の音が突然止んだ。


全身を包んでいたはずの潮風の気配も消えて、さっきまで彼の周囲で構成されていた音の何もかもが静寂へと切り替わる。


そして、そんな世界の中で唯一歩の耳に聴こえてくるのは、小さなオルゴールから奏でられる真那との思い出のメロディ。


 ゆっくりと顔を上げると、あれだけ自由気ままに寄せては返していた波たちが、まるで凍ったようにピタリと固まっていた。


地平線まで続いてくその幻想的な光景に、歩は思わず息を飲んだ。氷河期がどんな世界だったのかは知らないけれど、もしかしたらこんな感じだったのかもしれない。


「うみだー!」


 歩の耳に突然声が聞こえた。慌てて振り返ると、黄色い砂浜の上でピョンピョンと飛び跳ねている真那の姿があった。彼女はそのまま砂の上を駆けると歩へと近づく。そしてニコリと笑って彼の顔を見上げた。


「今日はまたどうして海に連れて来てくれたの?」


「それは……」


 小首を傾げる彼女の質問に、歩は少し言いづらそうに言葉を濁す。かつて真那が言っていたデートのフルコースの一つ、と素直に伝えればいいのだが、彼氏でもない自分がそんな大胆な台詞を言うのは、正直かなり恥ずかしい。


 視線を合わさず動揺している彼の様子に、今度は真那が怪訝そうな顔を浮かべた。


「まさか……私の水着姿が見たかったとか?」


 そう言ってわざとらしく自分の身を守るように腕を回す真那に、歩が慌てて反論する。


「なっ、んなわけないだろ!」


 顔を真っ赤にする歩の姿を見て、真那が「ぷっ」と面白そうに吹き出した。


「冗談だよ、冗談! でも『んなわけないだろ』って言うのも女の子に対してちょっと失礼じゃない?」


 そう言って真那は笑いながらも、意味深な視線を歩へと送る。まったく免疫のない会話に歩が戸惑ったまま黙っていると、「ふーん、ノーコメントですか」と少し頬を膨らませて、真那は彼に背を向けて歩き出す。


「あのなー、これは……」


 一人波打ち際まで向かう彼女の後ろ姿に向かって、歩が呆れた口調で話し始めた時、真那の足取りがピタリと止まった。


「わかってるよ」


 そう言って真那はくるりと振り返ると、真っ直ぐに歩の顔を見つめた。


「昔私が話したこと、ちゃんと覚えてくれてたんだね」


 少し大人びた微笑みを浮かべる彼女の言葉に、「まあな……」と歩は恥ずかしそうに視線を逸らす。どうやら真那自身も、あの話しを覚えてくれていたようだ。


続きの言葉を探すかのように歩が足元の砂浜を見ていると、再び真那の元気な声が鼓膜を揺さぶる。


「見て歩! 波が掴めるよ!」


 その声にぱっと歩が顔を上げると、目の前でしゃがみ込んでいる真那が嬉しそうな表情を浮かべている。その右手は、砂浜に打ち上がったまま静止した小さな波の先端を掴んでいた。


「いやーこんなこと出来るなんて、やっぱり私は天才発明家だな!」


 満足そうに自画自賛している彼女のもとへ歩も近づくと、同じようにしゃがみ込んだ。そして、砂浜に重なりあったまま静止している小さな波に右手を当ててみた。するとそれは氷のように固まっていて、指先が水の中を通ることはなかった。


「ほんとだ、固まっている」


 歩は驚いた表情で真那の顔を見た。彼女は、「でしょ!」と声を発するとニコリと笑う。


「中には入れないけど、海の上を歩くことならできるんだから」


 そう言って真那は「えいっ」と右足をあげると、陽光が眩しく照り返している波の上へと踏み出した。


歩は一瞬ヒヤっとするも、彼女の足は自然の摂理に反して水面の上へと着地する。本来であれば立つことが不可能な場所に真那はその身を預け、嬉しそうに笑った。


「ほら、すごいでしょ!」


 彼女はそう言うと、歩の目の前で踊るようにくるくると回ってみせた。陽の光がきらびやかに輝いている水面の上で無邪気に笑う彼女の姿は、まるでおとぎ話の世界のような神秘的な光景だった。歩はその姿に、思わず言葉を飲み込む。


「歩も早く来なよ! 面白いよ」


「あ、うん」


 はっと我に返った歩は、真那と同じように足を踏み出して海の上へと立ってみる。こん、という音と共に、たしかに靴底には地面を踏む時と似たような感覚があった。アイススケート場に似ているのかと思ったが、氷ではないのでどうやら滑らないようだ。


「すげえ! ほんとに海の上に立ってる!」


 歩は子供のような無邪気な声を上げた。その様子を見て真那がクスリと笑う。


「こんな体験、私がいなかったら出来なかったんだからね。感謝してよ!」


 彼女の言葉に歩が口を開きかけた時、「あっ」と声を発した真那が急にしゃがみ込んだ。


「歩! 見て見て、ここ! 魚がいるよ」


 はやくはやくと言わんばかりに手招きするいつものマイペースな彼女に、歩は少し肩を落とすと真那のほうへと近づいた。


「ほんとだ。この海、けっこう魚もいるんだな」


 歩が落とした視線の先には、まるでガラスに閉じ込められたかのように、今にも動き出しそうな小さな魚たちの姿があった。


それだけじゃない。水中を漂う青々しい海藻も、空気を閉じ込めた気泡の粒も、海の中に存在する何もかもが時間を止めていた。それはまるで、美しさと命そのものを永遠に残すために切り取ったような世界にも思えた。


 そんなことを思った歩は、ふと真那の横顔を見た。このオルゴールの音色が響いている世界では、きっと彼女の存在も同じなのだろう。


永遠に色褪せることもなく、自分の知っているままの姿で目の前に現れる真那の身体。しかしそれは同時に、彼女がもうすでに自分たちの世界では同じ足並みを揃えてはいないことを意味する。


作られた永遠があるとすれば、それはもう現実の世界で生きているとは言えないのだ。だから、いつかは……。


「歩、どしたの?」


 その声に歩はハッと我に返った。目の前を見ると、真那が不思議そうな表情を浮かべている。


「ははーん。さては私の顔に見惚れてたな?」


「なっ、違うって!」


 いきなり不意をつかれた歩が顔の前で慌てて右手を振った。その拍子にバランスを崩してしまった彼は、ドスンと水面へと尻餅をつく。


「あはは、そんなに動揺しなくてもいいのに」


「……」


 面白そうにお腹を抱えながら笑っている真那を、歩はむっとした表情で睨んだ。が、これ以上反論したらまたボロが出そうなので黙ったまま立ち上がる。


真那はというと、「歩って、ほんとに面白いよね!」と両目に涙を溜めながら自分のことを上目遣いに見上げていた。


「うるさい」と歩は恥ずかしさを誤魔化すようにわざと低い声で返事をすると、そのまま沖のほうに向かって歩き始めた。


目の前には白い波がまだら模様を描きながらどこまでも広がっている。非日常な幻想的な光景に、歩は思わず息を飲み込む。胸の中にあったちっぽけな羞恥心は、早くもその景色の中に飲み込まれていった。


「歩! どこ行くの?」


 立ち上がった真那が大声で叫んだ。


「真那もこっち来てみろよ! すげーぞこの光景」


 歩は彼女の方を振り返ると大きく手を振る。すると相手は両手をメガホンの代わりにして再び叫んだ。


「そろそろ戻ってきた方がいいよ! じゃないと……」


 耳に届いていた真那の声が突然途切れた。その瞬間、足元の感覚が無くなり、ざぶんという音と共に視界は一瞬にして水の中へと切り替わる。


さっきまで聞こえていたはずのオルゴールの音色は消えて、歩の耳の奥ではコポコポという何とも間の抜けた音だけが響いていた。

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