真那との約束
約束の日の空は、自分の気持ちとは裏腹に、疑うことができないほどの青さだった。
「絶好のバーベキュー日和だな」
誰に言うわけでもなく、歩はぼそりと呟いた。突き刺すような陽光を浴びながら、首筋にはいつの間にか汗が滲んでいた。
それでもコンクリートの照り返しも気にならないくらい、頭は別のことに意識が向けられている。
右手にはあのオルゴールを握りしめながら、歩は家のガレージの前に立っていた。
昨晩は日付が変わると同時に、椿や何人かの友達から「誕生日おめでとう!」というメッセージをラインでもらった。
まるで明確な節目があるかのように、身体は一年また年を取ったわけだが、心のほうはまったくと言っていいほど実感が湧かない。たぶんこの先も、そんな感じで誕生日を繰り返していくのだろう。
歩はそう思うと、再びオルゴールへと視線を移す。ただ年を取るだけと思っていた誕生日に突然現れた、いまは亡き人からのプレゼント。先週起こった奇跡のような出来事が、果たして本当だったのかどうか確かめる瞬間がやってきた。
鳴らすことができるのは十分間。
歩は静かにゴクリと喉を動かすと、そっと右手の親指でオルゴールに触れる。昨日まではビクともしなかった小さなフックは、軽く触れるだけでその体を左右に震わせた。
どんな仕組みになっているのかわからないが、一週間経つと開けることができるというのは本当らしい。
歩は恐る恐る目を閉じると、指先に触れていたフックをそのまま静かに傾けた。するとパチンという音が聞こえた瞬間、蓋が開いた感触が手のひらに伝わる。直後、自分の鼓膜にあの柔らかい音色が届いてきた。
歩は深く深呼吸をすると、ゆっくりと瞼を開けていく。僅かでも希望の光を求めるかのように、真っ暗だった視界が徐々に明るさと輪郭を取り戻す。
そして、再び目の前に現れた光景に思わず息を止めた。
あの時と同じく、耳には馴染みのある優しいメロディが流れているはずが、それとは反対に、目に映る世界は時間の流れを止めていた。
走っていた車も、犬の散歩をしていた人も、風で揺らめいでいたはずの木々たちも。何もかもが写真で切り取ったように静止しているのだ。
二度目とはいえ、未だ信じられない光景に、歩は呆然と立ち尽くした。それと同時に、胸の奥では心臓が激しく脈を打つ。期待と不安、そして祈るような思いが混ざり合い、それは血液に乗って全身へと運ばれる。
震えそうになる身体を押さえて、歩は求める人物の姿を探すために辺りを見渡そうとした。と、その時。背後から突然声が聞こえてきた。
「うわー! わたしの机、まだ残してくれてたんだ!」
嬉々として喜びの声をあげたのは、いつの間にかガレージの中に現れていた真那だった。歩が驚いて振り向くと、彼女は昔と同じように目を輝かせながら自分の作業台の前に立っている。
「すごい! 工具もパーツもそのまま残ってる! あ、おじさん電源ユニットも置いといてくれたんだ」
嬉しそうに自分の作業台をくまなく調べる真那の姿に、歩は思わず言葉を失くした。先ほどまで張り詰めいていたはずの緊張感が、糸がちぎれたかのようにへにゃりとたわむ。歩はため息をつくと、呆れた表情を浮かべながら彼女の方へと近づいた。
「歩! ちゃんとオルゴール鳴らしてくれたんだね!」
彼の存在に気づいた真那が、作業台の下からひょこりと顔を出した。彼女らしい登場に、歩は思わずいつもの調子で口を開く。
「お前な、せっかくオルゴール鳴らしたのにいきなり……」
歩が喋り切る前に、真那は作業台から飛び出すと、そのまま勢いよく彼に抱きついた。その衝撃に、歩の身体が後ろによろける。
「歩、ありがとう! わたしの可愛い宝物たちを残してくれたんだね!」
喜びが頂点に達したのか、真那は歩の背中に回した腕にぎゅっと力を入れた。
「ちょっと待て待て待て! 近い、ちかいって!」
顔を真っ赤にした歩は慌てて彼女を引き離すと、逃げるように後ろへと下がる。そんな彼の様子を見て、「あ、ごめん」と真那は同じように少し頬を赤く染めると、誤魔化すようにぴっと舌を出した。
「いやー、つい嬉しくて……飛びついちゃった」
「……なんだよ、それ」
歩は心の動揺を悟られないように、眉間に皺を寄せると真那を睨んだ。が、当の本人はもう気にしていないようで、再び目を輝かせながらガレージの中をぐるりと見渡している。
「やっぱわたしの人生にとってこの場所が一番特別だったよねー!」
真那はそう言って目を瞑ると、ガレージの空気を全身で感じるかのように大きく息を吸った。
「……ほんとうだったんだな」
「え?」
ぼやりと呟いた歩の言葉に、真那は息を吐き出すと不思議そうに小首を傾げた。
「オルゴールを鳴らせばまた会えるって話し」
そう口にした歩の耳にずっと聞こえているのは、自分と真那を繫ぎ止めるオルゴールの音色。それは不思議なほど、時間の止まった世界によく響いていた。
「だからいつも言ってるでしょ! わたしは偉大な発明家なんだって」
「今回だけだろ」
「そんなことないよ! それに、歩に話した発明品は全部完成させたんだからね」
両手を腰に当ててえっへんといばる真那を見て、歩が呆れたように笑う。
「まあでも、たしかに真那は偉大な発明家だよ」
そう。彼女がこの不思議なオルゴールを作ることがなかったら、自分はもう真那に会えることは二度となかった。こうやっていつもようにふざけ合うことも、彼女が無邪気に笑う姿を見ることも永遠に無かったのだ。
「あー……でもせっかくガレージの中に出てこれたのに、これじゃあ何も作れないなあ」
コンコンと目の前にある工具を叩きながら真那が言った。
「さすがの真那の十分間だけじゃ何も作れないか」
「まあそれもあるけど……、オルゴールが鳴ってる間は何も動かせないからね」
「何も動かせない?」
歩が不思議そうに首を傾げる。そんな彼に、「そっ」と言って真那はコクリと頷いた。
「このオルゴールが時間を止めてる間はこの世界にあるものに触れることはできても動かせないの。だから持ち運んだり、場所を変えたりできないってこと」
「そうなのか?」
歩は少し驚いた表情を浮かべると、試しに足元に落ちていた小石を持ち上げようとした。が、それは地面に張り付いているように重く、ビクとも動かない。
「ほんとだ。まったく動かない」
今度はつま先で小石を蹴りながら歩が言った。時間が止まってしまうことや、真那が現れることに驚いて気づかなかったが、この世界にはどうやらもう一つルールがあるみたいだ。
「だから歩がこのオルゴールを使って、万が一変なことをしようと思ってもできないってこと!」
「変なことって何だよ……」
真那の話しに歩が呆れた表情を浮かべる。それを見て真那は「冗談だよ」と言ってクスクスと笑っていた。すると彼女は歩の隣へと近づくと、ガレージの外の風景を眺める。
写真のように切り取られた青空と白い雲の下には、彼女と飽きるほど見てきたいつもの景色が広がっている。
色んな屋根の形をした家々の中では、真那が起こした奇跡を知らない人たちが、いつもの日常をほんの一瞬だけ止めているのだろう。おそらく、椿や、真那の家族たちも。
「はー、もっとたくさん作りたいものがあったんだけどなー」
「やっぱり真那からすれば、それが一番の心残りだった?」
歩が少し声のトーンを下げて言った。彼女の世界の中心は、いつもこのガレージにあった。こうやって真那と再会できることが自分の喜びだとしても、彼女にとっての喜びはまた違うのだろう。歩はそんなことを考えて、少しだけ目を伏せる。
「んー……、それはまた違うかな」
「え?」
「発明にはキリが無いからね。ほら、私みたいな天才だと次々にアイデアが出てきちゃうし」
本気で言ってるのか冗談なのか、真那はそう言うとこちらを向いてニっと笑った。
「心残りがあるとすれば……、もっと女の子らしいことをしておけばよかったなってことかな」
「女の子らしいこと?」
「そっ。もっとこう、『青春!』みたいな。例えば……恋愛とか?」
そう言って真那は歩のことを見つめたままコクンと首を傾げる。その口元は、いつもの彼女と同じく、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。「何だよそれ」と呆れた感じで答える歩の脳裏に、いつか彼女とジャングルジムでそんな話しをしていたことを思い出した。
「恋愛って言っても、真那は好きな人できたことないって言ってたじゃん」
「まあね。でもまあどんな感じだったのかは味わってみたかったなー。遊びに行ったりとか? ほら私、ずっとガレージに籠ってたからさ」
「まあ……確かにな」
チラリとガレージの方を見る真那の姿を、歩は見つめる。たしかに真那が遊びに行っているところをほとんど見たことがない。おそらく自分なんかよりも、真那のほうがよっぽどこの家にいる時間が長かったと思う。
そんな彼女は懐かしむような目でガレージを見ていたかと思うと、突然瞼を下ろすと小さくため息をついた。
「こればっかりは仕方ないか。まあその分、思う存分好きなことさせてもらってたわけだしね」
「……」
潔く諦めようとする真那の横顔を見つめたまま、歩はゴクリと唾を飲み込む。喉の奥から込み上げてくるのは、一度経験してしまった後悔と、彼女の力になりたいという思いが混ざった感情。それを決意に変えるかのように、歩は静かに口を開いた。
「……叶えるよ」
「えっ?」
歩がぼそりと呟いた言葉に、真那が少し驚いたような声を漏らす。すると歩が再びはっきりとした口調で言った。
「それが真那の心残りだって言うなら、今度は俺が叶えるよ。誕生日プレゼントにくれた、このオルゴールのお礼も兼ねて」
歩はそう言って右手に乗せたオルゴールを真那へと向ける。小さな箱からは、深く心に沁み渡っていくような柔らかい音色が流れ続けている。
歩の決意の言葉を聞いた真那は、くっきりとしたその両目をさらに大きくしたかと思うと、今度は口元に手を当ててクスクスと笑い始めた。予想外のリアクションをする彼女の姿を見て、顔を赤くした歩が鋭い目で真那のことを睨んだ。
「おい、ぜったいに笑うところじゃないだろ!」
怒った口調で話す歩に、真那は口元を押さえていた手で、目元の涙を拭った。
「ごめんごめん! まさか、あの幼かった歩がそんなキザな台詞を言う子になったなんて思わなかったから。つい……」
よほどツボにはまったのか、彼女はそう告げると今度はお腹を押さえて肩を震わせ始めた。歩はあまりの呆れ具合に開いた口が塞がらない。意を決して真那のためにと思って言った言葉は、どうやら全くもって本意が伝わらなかったらしい。
顔を恥ずかしそうに赤らめたままの歩は、大きくため息をつく。
「あのな、俺は冗談のつもりじゃなくて本気で……」
「わかってるよ! だから嬉しいの」
先ほどまでけらけらと愉快そうに笑っていた真那が、急に大人びた微笑みを浮かべる。
「歩が冗談でそんなことを言う人じゃないって私はちゃんとわかってるよ。それに、約束してくれたことは叶えてくれるってことも」
「……」
ニコリと首を傾げる真那を見て、歩は恥ずかしさを誤魔化すように頬をかいた。感情豊かな彼女はころころ表情を変えるが、それでも真那が本気でそう言ってくれているのは伝わる。
そのことには安堵するものの、歩が次に続ける言葉が思いつかず押し黙っていると、隣で自分のことを見ていた真那がクスリと笑う。
「なんか変な感じがするね」
「何がだよ」
「だって歩が私のお願い叶えてくれることってあんまり無かったじゃん」
そう言ってイタズラっぽい笑みを浮かべる真那に歩は目を細める。
「嫌だったら無理に合わせなくていいんだぞ」
「そんなわけないじゃん! せっかくこうやって短い時間でも戻ってこれたんだもん。もっと外の世界の楽しいことや面白いことも、ちゃんと知っておきたい」
ね! と真那は歩にウインクを送った。歩はそんな彼女から恥ずかしそうに少し目をそらすと、胸の奥で大きく脈打つ鼓動を隠すように一つ咳払いをした。
再び真那の方を向くと、彼女はガレージから見える街の景色を眺めながら、オルゴールに合わせて鼻歌を歌っている。
歩が同じように街の景色を見て、彼女が奏でるその優しいメロディをいつまでも聞いていたいと思った時、ふいに風が頬を撫でた。はっと我に返った歩が隣を見ると、そこにはもう真那の姿はなく、辺りにはいつも通りの日常が時間と共に戻っていた。
再び動き始めた世界の中で、歩は胸にこみ上げてくる寂しさを閉じ込めるように、蓋のしまったオルゴールを握りしめる。後悔や絶望なんて、もう嫌というほど味わってきた。だから、今度こそは……。
握りしめたオルゴールをそっとズボンのポケットに入れると、歩はさっきまで真那と眺めていた風景をもう一度見た。青々と広がる空の向こうには、自由を取り戻した入道雲が形を変えながらどこまでも伸びていく。
それはまるで、再び見えてきた希望を目指して、願いが天に向かっていく姿のようにも思えた。




