奇跡のオルゴール
いつか彼女と見た時と同じように、夕暮れ色に街が染められていく中で、歩はあの公園のジャングルジムにもたれかかって立っていた。ポケットに突っ込んだ右手の中には、真那からの贈り物である小さな箱が握られている。
それをそっと取り出し、彼は落ちていく夕日に照らしてみた。あの白い箱の中に入っていたのは、メッキのような素材で出来できた同じような小さな箱だった。くすんだ金色をしたそれは、西陽と混ざり合いほのかに赤く光っている。
「なんだろう、これ……」
それが真那からの誕生日プレゼントであることはあの手紙でわかったが、具体的に何なのかまでは記されてはおらず、『歩との約束、守ったよ!』と声まで聞こえてきそうな彼女らしい言葉が、最後に添えられているだけだった。
一見して箱に見えるのでガレージで何度か開けようと試してはみたものの、別に開く気配はなかった。真那らしいと言えばそうなのだが、これが何なのかまったくわからない。
歩は真那からのプレゼントを顔に近づけると、目を細めながら指先でぐるりと回してみる。すると何の装飾もないと思っていたその箱に、小さなS字フックのようなものが付いていることに気づいた。
飾りだろうかと指先で触ってみるとそれは動くらしく、わずかに横にずれてしまった。
じっと小さな箱と睨めっこしている歩の前では、そろそろ家路に着こうとしていた鳩が、そんな彼の様子を見て首を傾げるように動かしていた。
歩はもう一度人差し指でそのフックを触ってみると、ぱちっと音がなって箱の上蓋が突然開いた。それはちょうど指輪のケースにも似た形になっていて、どうやらこのS字フックが蓋と本体を止めていたようだ。
「うおっ」と歩が小さく驚いた声をあげる。その声にびっくりしたのか、近くにいた鳩が羽ばたく音が聞こえた瞬間、歩の耳に聞き覚えのあるメロディが届いてきた。
金属によって柔らかく奏でられるその音は、真那がよく鼻歌で歌っていたあの曲だった。
「オルゴールになってたんだ、これ……」
やっと箱の正体がわかった歩は、その音色に耳を傾ける。彼女にしては珍しく普通で、女の子らしいプレゼントだった。流れてくる思い出の曲に胸を締め付けられながら、歩は真那とよく見ていた街の景色を再び見ようとして顔を上げた。
その時、視界に映った光景に思わず目を疑う。そこには、今まさに空へと飛び立ったはずの鳩が、翼を広げたまま自分の目線と同じ高さで固まっていたのだ。
「えっ?」
歩は目を見開いたままは、恐る恐る鳩へと近づいてみる。それはまるで剥製で作られたかのように微動だにしない。なのに、空に浮かんでいる。
それだけじゃない。周囲を見れば、風に巻き上げられた落ち葉も、公園の横を通る車や人も、視界に映る何もかもが時間を止めたように固まっているのだ。
「どうなってんだ……」
呆然と立ち尽くしたままの歩の耳に、オルゴールの音色と一緒にふいに声が届いた。
「すごいでしょ! 私の世紀の大発明」
背中越しに聞こえたその声に、歩は思わず呼吸を止めた。硬直した身体が、今まさに声を発した人物が誰なのかを一瞬で理解する。
ありえない。
激しい動悸を感じる胸の奥に、そんな言葉が瞬時に浮かぶ。すると、そんな自分の考えを否定するかのように、再びその人物が口を開いた。
「でもまさか驚いたなー。君の初恋の人がこの私だったなんて」
乱れる呼吸を無理やり抑えながら、恐る恐る後ろを振り返った歩は、夕暮れの強い光に一瞬目を細める。
鮮やかなほどオレンジ色に輝く世界の中で浮かび上がる一人のシルエット。
そこには、もう二度と見ることはできないと思っていた、優しく微笑む真那の姿があった。
「これはどういう……」
まったく状況が理解できず固まったままの歩に、真那が笑顔で話す。
「だから言ったでしょ。私はいつか偉大な発明家になるんだって」
そう言って彼女は歩の方へと近づいていく。そしてほっそりとした人差し指を、歩が持っている小さな箱へと向けた。
「このオルゴールはね、鳴らした人の初恋の相手に出会えるの」
彼女の話しに、言葉の意味をまったく理解できない歩は慌てて口を開いた。
「ちょ、ちょっと待てよ。そんなこと信じられないって! だって真那は……」
続きの言葉を声にする前に、歩は思わず口を噤んだ。真那はもうこの世にはいない。なのに、目の前に現れた彼女は、そんな事実を否定してしまうほど、あまりにもリアルだ。
戸惑う表情を浮かべたまま目の前の人物を凝視すると、真那はわざとらしく頬を膨らませて人差し指を向けてきた。
「さ・て・は、まだ疑ってるな?」
「だって……真那はもう」
そう言って俯く歩に、真那はクスリと笑うと左腕を上げて手のひらを彼に向けた。
「ほら、手を合わせてみて」
ニコリと微笑む彼女につられるかのように、歩は恐る恐る右腕を上げる。そして、自分よりも一回り小さいその手に触れた。
手のひらから伝わる柔らかい感触。
薄い皮膚の向こうからは、たしかに生きている人間の温もりが伝わってきた。その温かさに、思わず視界が滲む。
「ね? 嘘じゃないでしょ」
優しい声色で包まれたその言葉に、歩は何も返事ができなかった。
もうどれだけ望んでも、その日はやってこない。そう思っていた現実が、今まさに揺らごうとしている。
ありえないと頭の中では何度も呟きながら、心は右手に伝わる人物の温もりを求めていた。きっとこれは、作られた偽りだとわかっていながらも。
黙り込んだままの歩に、真那は左手を離すと、その手を彼の額に近づけてデコピンを放った。
「イテッ、」
「こら、私の大発明にノーコメントか?」
そう言って今度はおでこを抑えて痛がる歩を見て真那はぷっと吹き出した。オルゴールの音色に合わさるように、時間が止まった公園に彼女の笑い声がメロディのように響く。
「ノーコメントも何も、理解できないって……」
いつもの彼女の調子に、歩はやっと呆れた口調で口を開いた。そんな彼の様子を見て、真那は「仕方ないなあ」とわざとらしくため息をつくと、歩が左手に持っていたオルゴールを手に取る。そしてコホンと小さく咳払いをすると、不思議なオルゴールについて説明を始めた。
「このオルゴールを鳴らすとね、一〇分間だけ時間を止めることができるの。その間にオルゴールを鳴らした人は、自分が好きだった初恋の相手にもう一度出会うことができる。つまり……」
そこまで話すと真那は少し口ごもり、恥ずかしそうに歩から視線を逸らした。それを意味することを察した歩が慌てて口を開く。
「おい、ちょっと待てよ。それってじゃあ俺が……」
夕暮れと同じ色に顔を染めた歩が、誤魔化すように首を横に振る。
「嘘だ、デタラメだろそんなの」
「違うの?」
くるんと大きな両目を歩の顔に近づけて真那が言った。じーっと見つめるその瞳には、戸惑いながら言葉を探す自分の姿が映る。その様子がよっぽど面白かったのか、真那は再び口元を抑えるとクスクスと肩を震わせた。
「……なんだよ」
「相変わらず素直じゃないなーと思って」
そう言って真那は楽しそうに笑う。それに合わせて揺れる彼女の髪も、見覚えのある制服も、その何もかもが自分の記憶に刻み込まれているものと同じだ。歩はいつの間にか目の前にいる人物が、本物の真那だと実感し始めていた。
「ってことは、このオルゴールを鳴らし続ければ、その……真那に会えるってことなのか?」
先ほどの質問にはあえて答えず、歩はふと思ったことを尋ねた。
もしこのオルゴールに本当にそんな力があるなら、また真那と一緒に生きることができる。ずっと止まっていた自分の心は、この世界の時間を止めることで動き出すかもしれない。
そんな淡い期待が胸の奥から込み上げてきた時、何やら考え込んでいるた彼女が再び口を開いた。
「うーん、半分当たりかな」
「なんだよ半分って」
怪訝そうな表情を浮かべる歩に、真那がクスリと笑う。
「このオルゴールを鳴らせるのは一週間に一度だけ。だから何度も鳴らすことはできないの」
「は? じゃあ今鳴らしたら来週までは会えないのかよ」
「うん、そういうことになるね」
なるねって、おい。てっきりすぐに会えるのかと思いきや、どうやらそんな都合の良い訳にはいかないらしい。
歩は残された時間を確認するために、急いで公園にある時計塔を見上げた。が、もちろん時間が止まっているので後何分残っているのかわからない。
「なあ、今何分経ったんだ?」
「たぶん……五分くらいじゃないかな」
当てになるのかならないのか、くいっと眉間に皺を寄せた真那が答えた。
「たぶんって……、だいたいなんで週に一度の十分間だけなんだよ。短すぎるだろ」
「なっ、これでもすっごく頑張って作ったんだからね! オルゴールを十分も鳴るようにするのめちゃくちゃ大変だったんだから。それに、何度も何度も会ってると、初恋のありがたさも忘れるでしょ」
そう言って不満そうに目を細めていた真那だったが、「あっ」と声を漏らすと、今度はけろりと態度を変えて意味深な笑みを浮かべた。
「さては……、私に会いたくて会いたくて我慢できないってこと?」
「な、いきなりバカなこと言うなよ。べ、べつに……そういう訳じゃないって」
「ふーん。そうなんだ」
あからさまに怪しむような目で見てくる真那に、歩は思わず視線を逸らす。本当は、こうやって会えるだけでも奇跡だ。
昔と変わらない真那とのやり取りに、失っていた自分の心の世界が埋められていく。それはまるで乾いた喉を潤すような、みずみずしさを持っていた。
真那はジャングルジムに寄りかかると、いつかと同じように空を見上げた。はるか上空では、飛行機が自分の存在を知らせるランプを点灯させたまま止まっている。
「懐かしいなーこの光景。よく歩とここに来てたもんね」
彼女はそう言うと夕陽によって僅かに赤みがかった瞳を歩に向けた。
「ね、みんな元気にしてる? 椿や私のお父さんやお母さん、それに歩の家族も」
「ああ、みんな相変わらず元気にやってるよ」
そう答えた歩の胸がチクリと痛んだ。本当は真那がいなくなった傷跡が消えることは決してないけれど、何となく、それは今伝えることではないと思った。たぶん彼女のことだから、そんなことを聞けばきっと悲しむだろう。
少し目を伏せた歩の前で、「そっかそっか」と真那は嬉しそうに頷いてる。その様子に、そっと顔を上げた歩はどうしても気になっていたことを、恐る恐る尋ねた。
「こうやって会えたってことは、真那はその……まだ生きてるってことなの?」
込み上げてくる不安と現実を飲み込むように、歩はゆっくりと唾を飲み込む。ゴクリと喉を通った感情が、やけに胸の奥に重くのしかかった。僅かでもいい。もし……、もしもあの現実が間違っていたという希望があれば……。
緊張した面持ちでじっと見つめる歩の姿に、真那は静かにそっと目を瞑るとその唇で緩やかな弧を描いた。そして再び目を開けると、はっきりとした口調で告げる。
「違うよ」
その言葉に、歩の心臓がドクリと音を立てる。さっきまで影を潜めようとしていた黒い感情が、再び心の奥底で疼きだす。当たり前だ。真那は事故で亡くなったんだ。そんな都合の良い話しがあるわけがない。
返事もなく黙り込んでしまった歩を見て、真那はすぐ側にあるベンチにオルゴールを置くと、後ろ手を組んでゆっくりと彼に近づいた。そして「えいっ」と声をあげると、歩の頬を両手で軽くパチンと挟んだ。
「こらっ、せっかく会えたのにそんな暗い顔しないでよ」
きゅっと目を細めて寂しそうな表情を浮かべる真那を見て、歩が「ごめん」と小さく呟く。その言葉を聞いた彼女は、そっと両手を下げるとニコリと笑った。
その笑顔を見て、無意識にきつく結んでいた歩の口元も僅かに緩む。やっぱり不思議だ。昔から真那の笑った顔を見ていると、何故だか心が落ち着く。
歩は気を取り直すように深く深呼吸すると、今度は真っ直ぐな目で真那の顔を見た。
「ほんとに……来週また会えるんだよな?」
力のこもった声で歩が聞いた。
「私は偉大な発明家だよ? 会えるに決まってるじゃん」
そう言って微笑む彼女は、再びオルゴールを手にすると、それを歩の右手に託した。そして彼の手を包むように、両手をそっと添える。
赤く夕陽の色を帯びる真那の手から、大切なものを思い出させるかのように、彼女の温もりが伝わってくる。
「だから……、ぜったい鳴らしてよ」
「え?」
真っ直ぐに自分のことを見つめ返してくる真那の瞳に、歩の心臓がドクンと跳ねる。少し恥ずかしがるように戸惑う彼を見て、真那はニコリと微笑むと、その潤んだ唇を大きく動かして言った。
「わたしからのプレゼント!」
満面の笑みを浮かべる真那に向かって歩が口を開こうとした時、耳に届いていたはずのオルゴールの音色が突然止まった。
その瞬間、無風だった空間に風が駆け抜ける。背後からは、鳥が羽ばたいていく音が再び聞こえた。目の前を見ても、さっきまでいたはずの真那の姿はどこにもなく、視界に映るジャングルジムの鉄柱の隙間からは、いつもと同じ景色が広がっているだけだった。
急に心に押し寄せてくる虚しさが、これが本来の現実だと突き付ける。僅かな瞬間にだけ感じていた幸せは、一瞬にして流れ始めた時間の渦に飲み込まれて消えていく。
薄れていってしまう真那と出会っていた感覚を何とか繋ぎとめようと、歩はぎゅっと目を瞑った。暗闇の向こうで、真那が見せてくれた笑顔がぼんやりと浮かぶ。
それは何となく、目が覚めた時に夢を思い出そうとする、あの感覚に似ていると思った。




