過去の発明品たち
家についた頃、歩の身体は雨と泥でひどく汚れていた。一応傘は差していたが、使う前から濡れていたのでほとんど意味をなさなかった。
気を遣った和輝が自分のユニフォームを貸そうかと言ってくれたが、歩はその気持ちだけを受け取ることにした。
皮膚には冷たい感覚が残るものの、身体の芯には熱が灯っていた。
それはきっと、失ってしまったと思っていた繋がりが、今もなお続いていたことに気づけたからかもしれない。
シャワーを浴びてから部屋に戻った歩は、ベッドに腰掛けるとスマホを見た。
開かれたラインの表示には、幼なじみの名前。既読にはなっているが、返信はまだない。
歩は小さく息を吐き出すと、そのまま身体をベッドへと預ける。ミシッと鳴った音が、静かな部屋でやけにうるさく響く。
目を瞑ると、真っ暗な世界の中で、耳の奥にかすかに聞こえる心臓の音。それは決断を迫るように、いつもより少し早いリズムで流れている。
歩はそっと瞼を上げると上半身を起こした。視界に映るのは、真那が来たときと同じままの整然とした部屋と、過ぎ去った思い出があることを無言で伝える卓上カレンダー。
そのカレンダーを通して思い出すのは、写真で切り取ったような煌びやかな海や、見慣れた家のガレージ。そして闇空に盛大に打ち上げれらた花火。
その全ての思い出に、鮮明すぎるほど真那の姿が一緒に映る。
わずか十分間という短い時間の中で、自分は充分過ぎるほど彼女からたくさんのものを受け取った。だから、今度は……。
ベッドから立ち上がった歩は、記憶の糸口を辿るようにクローゼットの扉を開けた。
ぬっと湿気のこもった空気が、逃げるように部屋へと離散する。乱雑に詰め込まれた自分の過去の私物たちに思わずため息が出た。
歩は視線を薄暗い空間の奥へと向けて目を細める。
ガラクタばかりが積み上げられた視界の中で、まるで無理やり忘れようとしたかのように段ボールの箱が一つ押し込められていた。
その姿を見ただけで、胸の中がぎゅっと締め付けられるように痛みが走る。
歩はおもむろにその段ボールへと両手を伸ばした。
持ち上げるために箱を掴み、腕に力を込めれば込めるほど、その中身の重さは心にまで伝わってくる気がした。
吐いたため息を取り戻すようにすっと息を吸うと、歩は静かに段ボール箱を持ち上げる。
ずしりと両手両腕に伝わってくる重みに従うまま、歩はその箱を床へと置いた。
中途半端に閉じられた上蓋の隙間から、懐かしさよりも虚しさが込み上げてくる品々の姿が視界に映る。
ゆっくりと目を閉じて深く息を吸い込むと、歩は覚悟を決めてその箱を開けた。現れたのは、真那が生きている頃に作り上げてきた思い出たち。
血糖値が測れる手袋! これを両手に通すだけで今日のあなたの血糖値がわかります−−
持ち主を失った手袋に、いつか彼女が言っていた台詞を思い出す。
あの頃は、そんなくだらなくて楽しいやり取りが、この先もずっと続くと思っていた。いや、信じていた。
もし真那を失うことがわかっていたのなら、自分はきっと、彼女との時間をもっと大切にしていただろう。
今更そんなことを思っても意味はないと、歩は小さく息を吐き出す。
思わず込み上げてきそうになる感情を飲み込んだ唾で抑えて、歩は箱の中身を一つひとつ丁寧に取り出していく。
本当はもう二度と見たくはないと思っていたけれど、もしかしたらこの中に、真那が求めていたことの手がかりがあるかもしれないと思った。
がちゃがちゃと、彼女との記憶を刺激するかのような金属が擦れ合う音を聞きながら、歩は静かにあの頃の過去へと遡っていく。
蓋をしたはずの真那との思い出に、胸が焼けるような痛みを感じながら手を動かしていると、持ち上げた金属製のボトルの下からはらりと何かが落ちた。
それは一枚の写真だった。
裏返しで足元に落ちた写真を拾い、顔の前でひっくり返した時、心臓がドクンと大きな脈を打った。
かなりアングルが悪いその写真には、こちらを向いて満面の笑みを浮かべている二人。
そこには、まだ小学生の頃の自分と真那が映っていた。その頭上には、大きな桜の木の姿がある。
これは……。
歩の中で、忘れ去られていたはずの記憶が色を取り戻し始めた。
特徴的な枝の形をしたその桜の木にはたしかに見覚えがある。古いアルバムをめくるように、歩は静かに目を瞑った。
そうだこの桜の木は……自分が真那にこっそりと教えた秘密の場所。
歩は再び瞼をあげると、右手に持った写真を見つめる。
オルゴールと同じように時を止めたその景色に、桜の花が舞うようにひらひらと断片的な記憶が頭の中に現れる。
幼い頃から天真爛漫で元気だった真那だが、小学生の時に一度だけひどく落ちこんでいたことがあった。
随分と昔のことでその理由はもう忘れてしまったけれど、心配した自分は彼女を元気付けようと考えた。満開の桜が、青い空の下で色づいていた季節の頃の話しだ。
真那と違って手先が器用ではないので何か作るわけにもいかず、どうしようかと悩んでいた自分は、当時よく家族で遊びにきていた大きな公園に一人訪れていた。
作れないのなら彼女が喜ぶものを見つけよう。そう思ってぶらぶらと彷徨っていた。
変な形の石ころや、ビー玉。真那が苦手なてんとう虫。公園で見つかるものなんてたかが知れている。
それでも自分は何かないかと茂みの中をかき分けては、彼女に渡せるもの夢中で探していた。
すると突然、視界が開けた場所に出たかと思うと、頭上から薄ピンクの光が差し込んできた。
ゆっくりと顔を上げた自分の目の前に、一本の大きな桜の木が現れたのだ。
二つの大きな枝が曲線を描きながら左右に分かれ、先端が再び重なり合っていたその木は、真下から見るとまるで桜の木が青空を抱きしめているようにも見えた。
これだ! と直感的に感じた自分は急いで家に戻ると、真那と遊びに行く約束を取り付けた。
自分が思っていた以上に真那はその日を楽しみにしていたらしく、当日彼女はこっそりと内緒で父親のカメラを持ってきた。
立派なレンズのついたカメラを首から下げる真那に向かって、「使い方、わかるの?」と怪訝そうな顔で聞くと、「私を誰だと思ってるの?」と怒られた記憶がある。
普段機械にばっかり夢中になっている彼女だったので、真那が桜の木で喜んでくれるのか正直不安なところもあった。
けれど自分の予想に反し、再びあの桜の木の下まで訪れると、真那は嬉しそうに目を輝かせながら喜んでくれたのだ。
甘い香りを含んだ一面ピンク色の天井に、丸く切り取られた窓から見える青空。その真下で、自分たちは写真を撮った。
たぶんそれが真那と二人で撮った、初めての写真だった。
目元が熱を帯び始めたのを感じ、歩は写真の世界からはっと我に返った。慌てて咳払いすると、こみ上げてきそうな感情を無理やり抑え込む。
真那がデートのフルコースの話しをしていた時に最後に呟いた桜のことは、たぶんこの桜の木のことだろう。
彼女との記憶を思い返してみて、真那と桜がリンクする思い出は自分の中でこれしかない。
歩はそう思い、彼女が求めていたものを思い出すことができたことに安堵するものの、その希望はすぐにため息へと変わる。
桜を見たい、と言っていた彼女の誕生日は二日後。
ふと窓の外を見上げれば、雲の切れ間から顔を覗かせるのは夏の青さ。
どう考えても、自分が真那にあの桜を見せてあげることはできそうにない。
いくらオルゴールで時間を止める奇跡を起こせたとしても、季節ばっかりはどうすることもできないのだ。
「くそ……」と写真を持ったまま歩は頭を抱えた。オルゴールを鳴らすことができたとしても、あと一度。
それで真那ともう二度と会うことができないのなら、最後はやっぱり彼女が望んでいたことを叶えてあげたい。
床に広げた真那の発明品を再び段ボールに戻しながら、歩は答えを出すことができない問答に悩んでいた。
「いてっ」
ダンボール箱を持って再び立ち上がろうとした時、右足の裏側がチクリとした。
見ると箱に入れ忘れたのか、スマートフォンの充電器のようなケーブルが落ちている。
その先っぽを視線で辿れば、なぜか小さなマイクがついていた。たぶんこれは、いつか真那が言っていた『歌うと充電できる充電器』なのだろう。
「真那のやつ……」
彼女らしい理解不能な発明品に、歩は思わずクスリと笑った。そのおかげか、張り詰めていた心がほんの少しだけ楽になった。
歩はケーブルを拾い上げると、箱の中に戻そうとした。その時、ふと真那との会話を思い出した彼は、握っている白いケーブルをもう一度見つめる。
「もしかして……」
自分の頭の中で、真那との記憶が次々にリンクしていく。それと同時に、さっきまで実現不可能だと思っていた彼女への贈り物が、わずかに希望の光を放ち始めた。
歩はゴクリと唾を飲み込むと、急いで立ち上がり自分の部屋を出た。そしてそのまま慌ただしい足取りでガレージまで向かう。
二階から繋がるドアを開けて、カンカンと耳の奥に鳴り響く階段を降りると、目の前には真那の作業台。
歩はその作業台の隣にある、彼女が作ってきた発明品が並べられた棚へと近づく。
たぶん、ここにあるはずだ……。
そんなことを思った歩は、おもむろに棚の中へと腕を伸ばす。もしかしたら、という可能性が彼の心臓の鼓動を早めた。
オルゴールで真那との再会した時、彼女は自分が話したアイデアは全部完成させたと言っていた。だとすれば、『あれ』もきっとあるはずだ。
彼女の努力の歴史を辿るように、歩は真剣な表情で棚に並べられた発明品を調べていく。
そこには確かに彼女が話していた通り、やたらと配線が飛び出たホワイトボードや、不思議な形をした電気ポットの姿もあった。そして……
「あった」
歩は思わず声を漏らすと、目の前に現れた彼女の作品を手に取る。それは他の発明品と比べると随分と小さな形をしたペンライトだった。
「……」
歩は半信半疑の面持ちで、そのペンライトをじっくりと見た。そんな彼の頭の中に、かつて真那が言っていた言葉がよぎる。
あの時彼女は確かに言っていたはずだ。季節に関係なく花を咲かせるライトを作っていると。
もう一度棚の中を覗いても、ライトらしい発明品はこれしかない。だとすれば、やっぱり真那が言っていたライトはこれなのだろう。
歩は手のひらに握ったそれを再び見つめる。それはいたって普通のペンライトだった。
シルバ一色のそのデザインには、彼女の発明品という印なのか、やたらと下手くそなウサギの顔が電池カバーに描かれていた。
試しにつけてみようとスイッチをスライドしてみたものの、何も光は出てこない。
もしかして失敗作なのかと一瞬不安になったが、妙に軽いところをみると、たぶん電池が入っていないのだろう。
恐る恐るウサギマークが付いたカバーを外してみると、案の定そこには電池の姿はなかった。
が、彼女の発明品にしては珍しく、説明書らしきものが電池の代わりに入っていた。
歩はそれを取り出すと、目の前で広げてみる。A四サイズほどの紙には、彼女の手書きの文字で使い方と、このライトの名前が記されていた。
「花咲かライト……」
花咲か爺の名前をもじったのか、説明書の一番上にはデカデカとそう書かれていた。
……彼女らしいネーミングセンスだ。
そんなことを一瞬思った歩は、そのまま説明書の文章へと視線を移す。
どうやら使い方は至極簡単なようで、このライトを当てられた植物は十二時間後に蕾をつけて、さらに十二時後には花を咲かせるらしい。
つまり、明日にでもこのライトをあの桜の木に当てれば、真那の誕生日には桜の花が咲いているというわけだ。
「本当かよ……」
オルゴールの奇跡を体験したとはいえ、歩は神妙な面持ちで手に持ったペンライトを凝視した。できれば本人に確かめたいところだが、そういうわけにもいかない。
歩はとりあえずペンライトを手に持ったまま、再びガレージの階段を上っていく。
二階の廊下に続く扉を開けた時、ふともう一度だけガレージの方を見た。
これまで起こってきた出来事が少しは自分の心を変化させたのだろう。
彼女の思い出が詰まった作業台を真っ直ぐに見つめることができる自分がいることに歩は気づいた。
翌日、歩は数年ぶりにあの桜の木がある公園へと訪れていた。昨日の重苦しい雲は跡形も無くなっていて、再び空は夏の青さを取り戻していた。
時刻は昼過ぎを回ったところで、あの説明書通りなら、明日の今頃には桜の花が咲いているはずだ。
そんなことを思いながら、歩は家族づれで賑わう公園の中を歩いていた。
隣街とまたがるように作られたこの公園は、アスレチックやキャンプ場、そして最近流行りのボルダリングまで行えるかなり大きな公園だった。
昔見た風景は残しつつも、少し変わってしまった公園の姿に、歩は不安を感じ始めた。
あの桜の木は、まだあるのだろうか。
場所的には公園のはずれで、ほとんど人が来ないようなところだったはず。たぶん、大丈夫だとは思うが……。
歩は小さく唾を飲み込むと、頭の中にある記憶の地図を頼りに、燦々と陽の光が降り注ぐ緑豊かな道を歩いていく。
しばらく歩いていくと見覚えのある景色の中に、うっそうと草木が育っている茂みの姿が見えてきた。おそらく幼い時の自分は、あそこから入ったはずだ。
無邪気にどこへでも行けたあの頃とは違い、人目も多い中で同じルートを辿っていくことに抵抗を感じていると、ふと視線をずらした先に舗装された狭い道があることに気づいた。
当時からあったのか、最近作られたのかわからないが、歩はほっと胸をなでおろすとその石畳の道まで向かっていく。
楽しそうに遊ぶ子供たちの声を背中で聞きながら、歩はゆっくりと誰もいない静かな道を進んでいった。
ひと一人分が歩けば手一杯な狭い道の両側には、夏を感じさせる植物や花たちが、太陽のエネルギーを吸い込んで輝いていた。
ますます自分がやろうとしていることが季節外れだと感じながら、歩は額に滲んだ汗を右手の甲で拭き取り奥へと進んでいく。
すると視線の先の方に階段が現れ、その下には貨物トラックが行き来している大きな道路も見えてきた。
あの時と同じだ。記憶の中にある景色と合致するその光景に、歩の鼓動が高鳴った。
だとすれば、あの階段の左手前に桜の木があるはずだ。
未だ姿を見せない思い出の場所に、心臓の鼓動がどんどんペースを上げていく。
道の終わりも見えてきて、祈るような気持ちで足を踏み出すと、視界がやっと開けた場所へと出た。
茂みを抜けると、左側にあるのは小さな空き地。そこには、あの頃よりもずっと立派になった桜の木が姿を現した。
「良かった、まだあったんだ」
歩は思わず声を漏らした。春になると桃色に染まるその枝は、今は蒼々しい葉が覆っている。
特徴的な枝の形はそのままで、歩の頭の中でかつての記憶が鮮明に輪郭を取り戻した。
歩はそっと桜の木の下に近寄ってみる。見上げると、円を描いた枝の間から、水彩画のような色をした青さが顔を覗かせていた。
真那との大切な思い出の場所がまだ残っていたことに、歩の心がじわりと熱を灯す。
「あとは、花を咲かせるだけか」
歩はそう呟くとズボンのポケットの中からペンライトを取り出した。電池をセットしたそれを桜の木に向けるも、心の中では不安がよぎる。
本当にこれで、真那の誕生日に桜の花を見ることができるのだろうか。
込み上げてくる不安を、ゴクリと飲み込んだ唾で抑え込むと、歩はゆっくりとペンライトのスイッチをスライドさせた。
「……」
陽の光が明るいせいか、それともここまで来て失敗したのか、カチッという音はしたものの光が点灯している様子はない。
暑さのせいとは違う嫌な汗が、歩の背中にじわりと馴染む。
と、その時。握っていたペンライトが突然小刻みに震え始めた。そしてヴーンという謎の機械音と共に、ペン先から光が投射された。
「よし! ちゃんとついた」
思わず声を漏らした歩は、光が灯ったペンライトを片手に、桜の木の周りをぐるりと一周し始めた。
説明書によれば、『根っこの部分を中心に当てればOK!』と何とも大雑多な解説が書かれていたのだ。
歩は真那が残した説明通り、桜の木を支える太い根っこにライトを当てていく。そして最後に、頭上に広がる枝へと向けた。
生い茂る葉によって陽光が遮られた場所に、彼女の作ったライトの光がはっきりと映る。
まるでこの時のために作られたかのように、その光は淡い薄桃色を帯びていることに気づく。
歩はそっと目を瞑ると、明日の今頃、真那がどんな顔をしているのかを想像してみた。
きっといつもみたいにピョンピョンと飛び跳ねて喜んでくれるか、もしかしたら、感動して泣いてくれるかもしれない。
「さすがにそれはないか」
穏やかな声でそう呟いた彼の耳に、ざあと風が枝を揺らす音が聞こえる。
どちらにせよ、これが真那に対して自分ができる、最後の贈り物になることだけは変わらないのだろう。




