そばにいたい
翌日、朝から空はぐずついていて、雨が降り出しそうな雰囲気だった。歩は傘を持つと、いつものように文化祭の準備のために学校へと向かう。
天候のせいか、それとも自分の心が整理できていないためか、胸の奥のざわめきは昨日から何も変わらない。
朝起きても、真っ先に浮かんだのは真那のことだった。受け入れたくない現実が、もうすぐそばまで迫っている。
歩はそんな未来から目を背けるように視線を落とすと、弱々しい陽光が降り注ぐコンクリートの上を歩いた。
何となくポケットの中に手を入れようとした時、ふとスマホが震えたことに気づいた。
歩は右手でそれを取り出すと画面を見る。新着メッセージのアイコンには『椿』と表示があった。
昨日メッセージを送ってからずっと連絡がなかったが、やっと返信が返ってきたようだ。
そんなに体調が悪いのかと心配になった歩は、すぐにメッセージを開いた。
そこにはいつもの彼女らしい文章で、『心配かけてごめん! もう元気になったから大丈夫』と絵文字とスタンプ付きのメッセージ。
歩は安堵したように少し息を吐き出すと、『なら良かった』と返事を返した。そしてスマホをポケットに戻すと、今度は空いた手でオルゴールを取り出す。
くすんだ金色をしたその小さな箱を見つめていると、脳裏に浮かぶのは昨日の真那の祖父との会話。
真那はこのオルゴールを、どんな想いでプレゼントしてくれたのだろう。
自分の誕生日とはいえ、真那はずっと大切にしていたオルゴールをわざわざ選んでくれた。
そこにはやっぱり彼女の祖父が話していたように、何か伝えたいことがあったのだろうか。
今にも落ちてきそうな雲の下で、歩はそんなことを考えていた。
それを直接尋ねることができる機会が、確実に次の日曜日に訪れてくれるのかはわからない。
それに、もしオルゴールが動いて彼女と会うことが出来たとしても、もうこれからは……。
行き場を失った感情を吐き出すかのようにため息をつくと、頬に冷たい感覚が走った。歩はそっと顔を上げる。
どうやら、我慢できなくなった空が泣き出したみたいだ。
教室に入ると、すでにほとんどのクラスメイトは到着していて、その中には明日香たちと楽しそうに話している椿の姿もあった。
歩が自分のグループのところへ向かおうとした時、彼が来たことに気づいた椿が立ち上がる。
「おはよ」
歩のもとまで近づいた椿が言った。
「おう、もう体調は大丈夫なのか?」
「うん……」
少し伏し目がちに返事をする彼女に、「そっか」と歩は安心したように口端を上げる。
彼女はまだ何か言いたそうに、後ろに組んだ指先をもじもじと動かすと、少し上目遣いに幼なじみの顔を見た。
「昨日はラインしてくれてありがと。その……嬉しかった」
教室に響く喧騒の中、ぼそりと呟かれた椿の言葉に、歩が「え?」と首を傾げる。
すると彼女は頭を横に振ると、「ううん、何もない」といつもの笑顔で答えた。そしてそのまま、明日香たちのところへと戻って行く。
何があったのかはわからないけれど、とりあえず自分の知っている椿に戻っているようだ。
歩はほっと小さく息を吐き出すと、再び自分のグループへと足を向けた。
「お? 社長出勤ですか?」
珍しく早く来ていた真一が、のっそりと姿を現した歩を見て茶化すように言った。
「いつもお前の方が遅いだろ」
「失礼な奴め。五回に一度は早く来てるぞ」
「週一かよ」とリズムカルに突っ込みを入れた歩は、すでに床に広げられているダンボールへと腰を下ろす。
目の前には、カフェの装飾で使うために細かく切り刻まれた折り紙が色ごとに紙コップに並べられていた。見るだけで骨が要る作業に、歩はさっそくため息をつく。
「おいおい、来た瞬間にため息つくなって。やってると意外と楽しいぞ、これ」
そう言って真一は、束になった折り紙を歩へと渡す。
赤や薄ピンクの華やかな色味とは対照的に、彼の手に握られた折り紙の量に、自分の心はますますグレーになっていく。
「わかったよ……」と歩は投げやりに言葉を返すと、真一が手に持っている折り紙の束から半分だけを抜き取った。
「せこ!」とすかさず声を発する真一を無視して、歩は足元に置かれていたハサミを手に取ると作業を始めた。
不服そうに歩のことを見ていた真一だったが、「しゃーねーな」とわざとらしくため息をつくと自身も作業へと戻る。静かになった班の雰囲気に、ちょきちょきとハサミの音が重なり合う。
面倒くさいと思いながらも、ただの単純作業の繰り返しは、今の自分にとっては多少の気晴らしにはなるようだ。
考えようとしなくとも常に頭の片隅にある真那の存在は、何にもしないでいると心まで飲み込んでしまいそうなほど大きくなってしまう。
それを少しでも小さくしていくかのように、歩は左手に持った折り紙を細かく切り刻んでいく。
しばらくそんな作業を続けていると、不意に背中越しから誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。
「おい真一。雨降ってるけど、みんなのユニフォームちゃんと部室に戻したのか?」
頭上から聞こえた和輝の声に、「やっべ!」と真一の顔が青ざめる。
「お前、三宅先輩にブチ殺されるぞ。早く戻してこいよ」
やばいやばいやばい、と小声で連呼しながら慌てて立ち上がる真一の姿に、同じ班の女子たちがクスクスと肩を震わせている。
真一はそんな彼女たちに、「ごめん! すぐ戻るから」と言うと、飛び出すようにして教室を出ていった。
「あと、カフェの制服の刺繍で二人ぐらい手を借りたいんだけど……」
和輝はそう言ってぐるりと歩たちの班を見る。「え?」と頭の中で呟いた歩も、同じようにメンバーを見渡す。真一を除けば、視界に映るのは女子二人。
いちいち分かりきったことを聞くなよと思いながら、歩は黙ったまま作業を続けた。
「刺繍だったら、私たちがいこうか?」
歩の様子に気を遣った女子たちは、互いに気まずそうに顔を見合わすと小さな声で言った。
直後、目の前に座っていたそのうちの一人が、「工藤くん、一人で大丈夫?」と心配そうに声をかけてきた。歩は、「ああ」とぶっきらぼうに返事をする。
「そしたら二人とも頼むよ。ありがとう」
ニコリと微笑む和輝に、彼女たちはこくりと頷くとそのまま立ち上がる。歩はあえて彼らを見ないように、右手に握ったハサミを動かしながら作業を続けていた。
何か一言ぐらいあるだろうと思ったが、和輝は何も言わず、二人を連れてそそくさと離れていった。
歩はそんな彼らの後ろ姿をチラッと見ると、動かしていたハサミを止めて小さくため息をつく。
どうせアイツにとって、今の俺なんて存在しないのと同じだ。
変わり果てたかつての繋がりをその手で切るかのように、歩は右手に握っているハサミを再び動かしていく。
しばらく黙って作業を続けていると、今度は和輝とは違う足音が近づいてくることに気づいた。
「……手伝おうか?」
聞き覚えのある声にそっと顔を上げると、こちらを覗き込む椿の姿。
はらりと落ちた横髪を耳にかけ直しながら、彼女はその大きな瞳を幼なじみへと向ける。
「あっち、大丈夫なのかよ?」
くいっと顎を動かし、歩は椿たちのグループの方を示す。
「うん。明日香が私に任せとけって」
そう言って友人をチラリと見る椿に合わせて、歩も明日香の方を見た。すると目があった椿の友人は、意味深長なウインクを送ってくる。
首を傾げる歩に、椿は少し頬を赤くすると、「ほら、早く準備進めよ」と慌てた様子で明日香に背を向けた。そんな彼女の様子を見て、明日香は声を出さずに笑っている。
「これ、今どんな作業してるの?」
目の前に乱雑に広げられた折り紙を見ながら、困ったように椿が言った。歩はその中から一枚折り紙を手に取ると、無言でハサミを動かし始める。
「……ただ切るだけ」
つまらなさそうに呟く歩を見て、椿がぷっと吹き出した。
「なんか、地味だね」
「俺に言うなよ」
たしかに地味ではあるが簡単だ。少しでも楽をしたい自分にとってはありがたい。そんなことを考えながら、歩が作業を続けているとと、隣にいる椿がふいに口を開いた。
「この前は、ごめん」
「え?」
突然謝った椿に、歩が少し驚いた表情を浮かべる。すると彼女は、長い睫毛を少しだけ伏せた。
「お祭りで勝手に帰ったりして……」
ぼそりと呟かれた彼女の言葉を聞いて、歩の脳裏に祭りの時の光景が浮かぶ。
打ち上げられた花火の音と共に思い出すのは、もう残された時間は少ないと告げた真那の姿。
歩はハサミを握った右手に無意識に力を込めると、「べつに謝ることないって」と返事を返す。
「体調、悪かったんだろ?」
「え?」
「明日香から聞いた」
「……うん」
椿は少し気まずそうに顔を伏せた。その指先が何かを確かめるかのように、二つに折り曲げられた折り紙の端をそっと撫でる。
触れていることをほとんど感じることができないその感覚は、何だか頼りない自分の心に似ている。椿はそんなことを思った。
黙り込んでしまった彼女を見て、歩は小さく息を吐き出すと、再びゆっくりと口を開く。
「この前真一が言ってたぞ。カフェの制服、めちゃくちゃオシャレじゃんって」
「ほんとに?」
はっと我に返った椿が、少し驚いたように目を大きくして歩の顔を見た。それを見て、「ああ」と歩も返事を返す。
「良かった……。女子はみんな直接感想言ってくれるけど、男子の意見あんまし聞いてなかったから。どう思われてるのかちょっと心配だった」
そう言って椿はふうと息を吐き出すと、その唇で緩やかな弧を描く。
「やっぱり歩のおかげだね」
「え?」
「だってあの時歩が褒めてくれなかったら、私ここまで頑張れなかったもん」
彼女はそう言うと、隣にいる歩の顔を見上げてニコリと微笑む。
いつもの笑顔を浮かべる椿の表情を見て、歩も安心したかのように口端を上げる。
「なら今度、昼飯よろしく」
「えっ、何それ? それはちょっとおかしくない?」
頬を膨らませてわざとらしく目を細める椿に、歩は「そうか?」とクスリと笑う。そんな彼の様子を見て、椿も小さく吹き出すとクスクスと笑い始めた。
笑って少し気が楽になったのか、椿はその後も作業を続けながら普段のように会話を楽しんでいた。
明日香と最近食べに行ったクレープ屋さんが美味しかったこと。この前塾で受けた模試の結果が微妙だったことなど。
何気ない彼女の日常の話しを聞いていると、自分の胸の中にあるざわめきも少しは和らぐような気がした。
歩はそんな椿の話しに相槌をしながら、束の間の日常の世界に心を溶け込ませていた。少しでも、やがて訪れるであろう非日常な別れから目を背けるように。
一通り目処のついた折り紙の破片たちを、椿はそっと両手ですくうと紙コップへと入れていく。白い空間の中身が、小さく切り刻まれた淡いピンク色によって満たされる。
すりきりいっぱいまで入ったそれを、椿は慎重に右手で持つと、同じようなコップが並べられている目前まで運ぼうとした。
その時、「あっ」という彼女の声が聞こえたと同時に、歩の目の前で紙吹雪が舞った。
「あー……やっちゃった」
歩の顔を見て、椿は誤魔化すようにぴっと小さく舌を出す。足元には、ピンク色の小さな折り紙たちが敷き詰められていた。
「何やってんだよ」と呆れたように笑う歩が腕を伸ばして拾おうとした時、椿がぼそりと呟いた。
「なんだか、桜の花びらみたいだね」
その言葉を聞いた瞬間、歩の手がふと止まった。そして脳裏には、いつか真那が話していた言葉が浮かぶ。
あとは、あの桜を一緒に見たいかな。
彼女がまだ生きていた頃、たしかそんなことを真那が言っていたのを、歩は思い出した。
固まったままの彼の目の前で、「早く片付けないと」と椿は細かく切り刻まれた折り紙をもう一度拾い上げていく。
歩はゴクリと喉を動かすと、恐る恐る口を開いた。
「なあ椿。真那のことなんだけど……」
突然姉の名を口にした歩の言葉に、椿は折り紙を掴んだ指先をピタリと止めた。そして一瞬黙り込んだ彼女は、小さく深呼吸をする。
「……お姉ちゃんが、どうしたの?」
椿は少しでも心の動揺を悟られないようにと、普段通りの口調で聞き返す。そんな彼女の横顔を見ていた歩がそっと視線を逸らした。
「いやその……真那って桜とか好きだったのかなって思って」
「……」
考え込むように黙り込んだ椿の様子に、歩は慌てて再び口を開いた。
「ほら、もうすぐ真那の誕生日だろ? だから……、なにか真那が好きだったものでもお供えしに行こうかなって思ってさ……」
言い訳をするかのようにぎこちなく話す歩に、椿はそっと両目を伏せる。そして強く結んでいた唇を小さく開くと、静かな声で言った。
「そんなの……、わたしに聞かないでよ」
感情を無理やり押し殺したその声に、さっきまでの椿の面影はなかった。
様子がおかしいことに気づいた歩が、「つば……」と彼女の名を口にしようとした時、相手は何も言わず突然立ち上がる。そしてそのまま、逃げるように教室の扉へと足早に向かっていった。
慌てた歩が声を掛けようとするも、「椿!」と教室の後ろの方で作業をしていた和輝が急いで彼女の後を追う。
慌ただしく出ていった二人の後ろ姿を、歩はただ呆然と立ち尽くして見ていた。
ふと足元に視線を落とすと、さっきまで椿が丁寧に切っていた折り紙の破片が、無残にも打ち砕かれた心のように散らばっていた。
椿の後を追って和輝が廊下を進んでいると、どこからかすすり泣くような声が聞こえてきた。
その声の方へと向かっていくと、廊下の突き当たりの階段のところで、両腕に顔を埋めてしゃがみ込む椿の姿が見えた。そんな彼女に、和輝がそっと近づく。
「椿……大丈夫か?」
その言葉に、椿は顔を上げることなくコクリと小さく頷いた。和輝は心配そうな表情を浮かべたまま、彼女の隣へと静かに座る。
「歩のやつに、何かひどいこと言われたのか?」
声を抑えて話す和輝に、椿は首を横に振るとゆっくりと顔を上げた。その両目は赤く潤んでいる。
「私のほうが、歩にひどいこといっちゃった」
椿がぼそりと呟いた。その言葉に和輝が黙り込む。彼女は頬に伝う涙を右手の甲で拭うと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ほんとはね、わかってるんだ。歩には私よりもお姉ちゃんの方が必要だったって。私じゃ全然歩の力になれないってことも……。幼いときから一緒にいるのに、私はいつも歩に支えてもらってばっかりで、なのに全然何もしてあげられなくて……」
椿はそう言うとぐすりと鼻をすすった。両目からは今まで抑え込んでいた気持ちがとめどなく溢れる。
「お姉ちゃんが亡くなってからしばらくたった頃、歩がサッカー部やめちゃって学校にもあんまり来なくなって……あの時私、ほんとはすごく怖かった。もしかしたらお姉ちゃんだけじゃなくて、歩もいなくなっちゃうんじゃないかって思って……。
だから、少しでも歩の力になって支えてあげたいって決めてたのに……私がこんなのじゃ、ダメだよね」
そう言って椿は両手で顔を覆う。自分にとって一番大切な人のそばに寄り添うことができない悔しさが、指先を伝って流れ落ちていく。
足元に残った彼女の涙の跡を、隣にいる和輝は黙ったまま静かに見つめる。
彼の心に込み上げてくるのは、椿とは違う色を滲ませた悔しさだった。息苦しい沈黙が続く中、再び彼女がぼそりと呟く。
「ごめんね。和輝くんにいつも迷惑ばっかりかけちゃって……」
悲しみで潤んだ瞳が自分の姿を映した時、和輝の胸の奥がぐっと熱くなる。そんな感情が、自然と彼の唇を強く動かした。
「俺は迷惑だなんて思ったことないし、椿が一人で苦しむぐらいならいつだって力になるよ。だって俺は……」
その次の言葉を声にしようとした瞬間、和輝は思わず口を噤んだ。
衝動にも近い感情を無理やり抑え込もうとすると、それは再び悔しさへと姿を変えていく。それでも彼は、気持ちを落ち着かせようと深く息を吸い込んだ。
自分が今彼女にできることは、この言葉を告げることじゃない。
そう静かに悟った和輝が、ゆっくりと口を開く。
「俺で良かったらいつでも力になるからさ。だから、椿がしんどい時は頼ってほしい。一人で全部抱え込むのは辛いだろ」
和輝はそう言って彼女の顔を見つめると、優しく微笑む。その言葉に少しだけ頭を伏せた椿は、「ありがとう……」とか細い声で言った。
そんな彼女を見て、和輝は両手にぎゅっと力を込めた。
皮膚に食い込む爪の痛みは、まるで自分が椿に対してできることを教えているようだった。




