文化祭の準備
一学期の終わりを告げる終業式もあっという間に終わり、待ち望んでいた夏休みが始まったが、文化祭の準備は思っていたよりも本格的でハードなものだった。
休みに入っても制服を着ていると、学生生活で一番長い休暇に自分が身を置いていることもまるで実感がわかない。授業が無いとはいえ登校時間は同じだし、作業が長引くと夕方ぐらいに終わることもある。
これじゃあ、いつも通り学校に通っているのと同じだ。
開始三日目にして歩は早くも、夏休みが奪われていく文化祭の準備に絶望し始めていた。それに、オルゴールを海に落としてしまった件もあるので、気が気ではない。
しゃわしゃわと蝉が鳴く中、首筋に汗を滲ませながら教室に到着すると、同じ班のメンバーの女子たちがすでに作業を進めていた。ダンボールを床に敷き詰めて、その上で何やら大量の画用紙に色を塗っている。
見るからに面倒くさそうな作業に、歩は心の中で「まじか……」と呟く。
「あ、おはよう」と歩が来たことに気づいた班の女子が、さっそく彼が座る場所を指差す。そしてその前に画用紙の束をばざっと置いた。
「これが今日の工藤くんのノルマね」
そう言ってニコリと笑う彼女に、歩は苦笑いを浮かべると、ご丁寧に座布団のような形に切り取られたダンボールが置いてある上へと座る。座り心地はもちろん、悪い。
「で、今日はこれに色を塗っていけばいいのか?」
歩が嫌そうな表情を浮かべながら、束になった画用紙を持ち上げる。百均とかで売っている画用紙の、ゆうに三倍の量はありそうだ。
「うん。レンガ模様にして教室の壁に貼るんだって」
彼女はそう言うと、茶色い塗料がたっぷりと入った大きな缶を渡してきた。ちゃぷんと音を立てたその缶には、すでに人数分の巨体な筆が刺さっている。
「……」
無言で筆を手に取った歩は、目の前にある画用紙にとりあえず適当に色を塗っていく。真っ白な紙に茶色が染み渡っていくほど、自分の心も滅入っていく気がした。
これだったら茶色の画用紙を買ったほうが早かったんじゃないか? という歩の疑問は、レンガっぽい風合いを見せたいからという謎のこだわりによって打ち消された。
決まったものは仕方ない、と無理やり納得させるかのように力任せに色を塗っていると、慌ただしい足音と共に真一が姿を現した。
「わりぃ! 朝練で遅れた」
そう言って自分たちに大げさに頭を下げながらダンボールの上に腰を下ろす真一を見て、歩はのっそりと教室の後ろの方を見てみる。そこには、だいぶ前から作業を始めている和輝の姿。歩は再び視線を戻すと、怪しむような顔で真一を見つめた。
「マジで朝練で遅れたんだって! 俺今日、お片づけ当番だったし」
その台詞を聞いて、思わず歩がぷっと吹き出した。前を見ると、同じように女子たちも肩を震わせている。
「なんだよその小学生みたいな変な当番」
歩が呆れた口調で言うと、真一がわざとらしくむっと眉間に皺を寄せた。
「お前、今お片づけ当番バカにしただろ。この当番が無かったら我が校のサッカー部は……」
「はいはい、わかったって。とりあえずこれ、今日のお前のノルマだから」
そう言って歩は彼の目の前に置いていた画用紙に、こっそりと自分の画用紙も混ぜて渡す。
「なんか俺だけ量多くない?」
「そうか? みんな同じぐらいだぞ」
「いやいやいや、俺だけ辞書みたいに分厚いって」
「あー、俺らは先に始めてたからな。もう結構塗ったんだよ」
ほんとかよ、と目をキョロキョロとさせて班のメンバーの手元を見る真一に、歩たちは黙って作業に戻りながら、声を抑えて笑うのを我慢していた。
「マジかよ……」と絶望感をたっぷりと滲ませた声で真一は呟いた後、しぶしぶ目の前にある筆を手に取ると画用紙に色を塗り始めた。おそらく今日は、真一だけ終わるのが夕方コースだ。
そんなことを考えていた時、ふいに真一が「あっ」と何かに気づいたかのように声を漏らした。
「ついに歩も時計買ったんだな!」
「え?」
その言葉に隣を見ると、真一が羨ましそうな顔をしながら人差し指を自分のつけている腕時計に向けている。
「いいなー、それ。新しいデザインのやつだろ? この前雑誌に載ってたぞ」
真一は人懐こっい笑顔を浮かべたまま、腕時計へと顔をぐっと近づける。時計は今この瞬間も自分たちが未来へ進んでいることを知らせるかのように、一秒ずつ時間を刻んでいた。
「結構高かったんじゃないか?」
「あー……そうだな」
歩は言葉を濁すようにそう答えると、チラリと椿のいる方を見た。文化祭実行委員の彼女は何やら他の班に指示を出しているようだ。その時、歩の視線に気づいた椿が彼の方を見るとニコリと微笑む。それを見て、歩も小さく笑った。
そのまま作業に戻ろうとすると、隣にいる真一がニヤニヤとした笑みを浮かべながらこちらを見ている。
「ほんと仲良いよなー。お前ら」と何かを期待するように茶化してくる彼の言葉に、「黙れ」と歩は端的に答えると、手元に残っていた画用紙の半分を手に取り、真一のノルマを勝手に増やしておいた。
昼過ぎになると、今日の大方の作業は終わりを迎えたようで、他の班のクラスメイトたちが片付けをし始めていた。歩たちも一通り色を塗り終わり、同じように散らかった塗料やゴミを片付けていく。
一人だけ大量にノルマがあった真一だったが、結局早く作業の終わった自分や女子たちが手伝ったのだった。
「おい真一! そろそろ部室行かないとやばいぞ」
床にずらりと並べられた塗料が乾いた画用紙を拾い上げていると、教室の後方から突然和輝の声が聞こえた。その声に、女子たちと楽しそうに話していた真一が、はっと顔を上げて黒板の上の時計を見る。
「うわっ、マジでやばいじゃん!」
目の前であれだけ楽しそうな表情を浮かべていた真一の顔から、みるみるうちに笑顔が消えた。そして突然頭のスイッチを切り替えた彼は、高速で腕を動かしながら画用紙を拾い上げていく。
なんだかその姿が、熟練の農家の人が稲を植えていく姿みたいに思えてきて、歩は思わず顔を逸らすと肩を震わせた。
「よっし! とりあえず俺の分は集めたから、あとは頼んだ!」
真一はそう言うと、集めた画用紙を歩の前に置き、スポーツバッグを肩にかけて和輝が待っている教室の扉へと走っていく。
バタバタと騒がしい足音を聞きながら、歩は呆れるようにため息をついた。目の前には、慌ただしく出て行った彼の痕跡だけを残すかのように、乱雑に画用紙の束が置かれている。
「西田くんって面白いよね」という班の女子たちの彼への優しい評価を片耳に聞きながら、歩は真一の努力が詰まった画用紙を拾い上げた。よくよく見ると、真剣な表情をしていた割に塗り方が結構雑だ。
そんなことを思った後、足元に散らばっていた画用紙を全部拾いきると、今度は背中越しに明日香の声が聞こえてきた。
「椿、一人でそんなに運べる? 大丈夫?」
その声に歩がチラリと椿の方を見ると、彼女の目の前には様々な大きさの段ボール箱が積み上げられていた。
「うん。何回かに分けて運ぶから大丈夫。それに明日使う家庭科室の準備もしときたいし」
そう言って彼女はふんと気合いを入れるように明日香に向かって力こぶを作る。それを見て、「全然力こぶないじゃん!」と椿の友人は面白そうに笑っていた。
そんな彼女たちの様子を眺めていた歩は小さく肩を落とすと、そのままゆっくりと椿の方に向かって歩き始めた。
「それ、家庭科室に運ぶのか?」
椿のもとに歩み寄った彼は、くいっと顎を動かすと積み上げらた段ボールを示した。
「あ、うん……そうだけど」
「なら俺も運ぶの手伝うぞ」
歩はそう言うと、手前にあった箱に手を伸ばした。その隣で、「……ありがと」と椿が少し恥ずかしそうに呟く。
彼女が歩の顔から視線を逸らすと、自分のことを見ていた明日香と目が合った。友人はニヤリと口端を上げると、「良かったね」と何故か口パクで言ってきた。それを見て椿は思わず顔を伏せる。
「とりあえず先にこれだけ運ぶか」
積み重ねた段ボールを両腕に持つ歩が言った。自分だと持ち上げることも難しそうなその量を、ひょいと簡単に運んでいく彼の後ろ姿に、頬を赤らめた椿の胸がドクンと脈を打つ。
込み上げてくる気持ちを隠すように、彼女は胸元に段ボール箱を抱きかかえると、「ちょっと待ってよ」と言って、歩の後ろを早足でついて行った。
教室を出ると、自分たちと同じように文化祭の準備をしている他のクラスの生徒たちの姿が視界に映った。彼らも今日の作業は終わったのか、各々に片付けを始めている。
歩はそんな間を縫うようにして、家庭科室がある四階を目指した。階段を上っていると、腕の中で揺れる段ボールに思わず顔をしかめる。少し……持ち過ぎたかも。
やっとの思いで四階まで辿り着くと、歩たちは真っ直ぐに廊下を歩いていく。階段で足が疲れたのか、隣を見るといつの間にか椿と同じペースで自分も歩いていた。彼女はその小さな唇をぎゅっと結んだまま、頑張って段ボールを運んでいる。
大丈夫か? と自分のことは棚に上げて歩が口を開こうとした時、ふいに椿の声が聞こえた。
「腕時計、付けてくれてるんだね」
そう言って彼女はこちらを見てニコリと微笑む。
「まあな」
「気に入ってくれた?」
「ああ。真一も羨ましがってた」
その言葉を聞いた椿は「えっ?」と思わず目を丸くすると、頬を真っ赤に染めた。
「もしかして、私がプレゼントしたって言ったの?」
よほど焦ったのか、ぐらっと段ボールを落としそうになった椿に、「危ないって」と歩が声を掛ける。
「心配しなくても、べつに椿から貰ったなんて言ってないって」
「良かった……」と、ふうと椿が胸を撫で下ろした。
「そういえば、制服の方は順調なのか?」
前方に『家庭科室』の文字が見えて、歩が思い出したように尋ねた。
「うん! この前歩が選んでくれたデザイン画を和輝くんや明日香も褒めてくれて。だから明日から作り始めるんだ」
そう言って嬉しそうに話す椿に、「そっか」と歩も微笑む。とりあえず彼女の努力が報われたようなので良かった。すると椿はその大きな瞳をくるりと動かして彼の顔を見上げる。そして薄桃色に潤んだ唇をゆっくりと開いた。
「歩のおかげだね」
窓から差し込む陽光を浴びながら白い歯を見せる彼女の姿が、何故か歩の心にやけに印象的に映った。




