Black Swan 3
間もなくロイがセシリアと再会したのは、意外な場所だった。知り合いの産科医から緊急の協力要請があり、それに応じてロイが出産する夫人の家を訪ねると、そこにセシリアがいたのだ。
先に気付いたのはマリーだ。セシリアもマリーとロイに気付き、二人を招き入れるために近付いた。
「セシリア、どうしてここに?」
マリーが尋ねる。マリーとセシリアは、ロイが知らぬうちに友人になっていた。ロイがセシリアの診察に行っていた間も、二人は仲良く話していたものだ。
「お母様が、スコット夫人のお手伝いをなさいっておっしゃって」
産むべきかどうか迷っている様子の娘に、母は、家の近くの妊婦の世話を命じた。おそらく、母親は出産とはどういうことなのかを娘に教え、彼女の覚悟を量ろうとしているのだろう。
セシリアの案内でロイとマリーはスコット夫人が出産している部屋へと入った。夫人の側についていた産科医はロイの姿を認めると安堵したように微笑んだ。セシリアとの話を一旦切り上げて、ロイは産科医から状況を聞く。陣痛が始まってから何度もいきみ、それでも子どもが産まれる気配がまったくなく、スコット夫人は既に憔悴しているという。スコット夫人の様子を診て、ロイは危険な状態だと判断した。
「帝王切開しましょう」
「いや、しかし、それでは母体が…」
ロイの決断に、産科医は渋る。母体の腹部を切って子どもを取り上げるその作業は、多くの危険を伴う。切る場所を間違えれば胎児を傷つけてしまう。無事に子どもを取り上げることができても、母親の命は保証できない。帝王切開は、母体の死を前提とした術式なのだ。
「いいえ、母子ともに救います」
しかし、技術の進歩により、術者の技量によっては母子ともに救える方法になりつつもあった。そしてロイには、その腕がある。
「そのために僕を呼んだのでしょう?」
ロイのヘイゼルの瞳に貫かれ、産科医は「ああ」と頷いた。ロイとは同じ大学の出身で、その縁で同門の医師からの紹介で度々顔を会わせており、彼が内科医でありながら外科医としての腕も良いことを知っていた。
部屋はにわかに慌ただしくなる。ロイの指示で産科医はスコット夫人に麻酔をし、マリーはテキパキと手術の準備を始める。ロイは術衣とマスクを着け、手を消毒して手袋をはめる。出産の手伝いにきていた女性たちは、産湯を用意するために部屋から出された。
ロイはスコット夫人の腹部を消毒し、迷いなくメスを入れる。
多くの人が心配気に待つ部屋の外に、赤ん坊の泣き声が聞こえたのは、それからしばらく経った後だった。
スコット夫人が麻酔から覚めるまでは少し時間が掛かったが、無事に彼女は目を開けた。彼女を囲む人たちに安堵の空気が流れる。
「おめでとうございます」
マリーが抱いていた赤ん坊をスコット夫人に見せる。涙を見せて、スコット夫人は我が子との対面を喜んだ。産科医とロイ、そしてマリーに礼を言い、ベッドの枕元に寝かされた我が子に触れる。
「…夫が不在で出産するのは、とても不安だったの」
夫であるスコット氏は海軍の高官で、現在は任務で海に出ているのだった。
「でも、みんなのお陰で心強かったわ。セシリア、あなたも良くしてくれたわ、ありがとう」
スコット夫人はセシリアを近くへ招き、赤ん坊を抱くように促した。恐々と赤子を抱いたセシリアは、その命の重みと熱に、泣きそうになった。
後のことは産科医に任せて、ロイとマリーは一足先にスコット家を辞すことにした。セシリアが二人を見送りに来る。そして、ロイを見上げて宣言した。
「ロイ先生、私、産みます」
「そうですか。よく決心しましたね」
セシリアの決意に、ロイは微笑んだ。
「あなたと、あなたのご両親にお見せしたいものがあります」
そう言って、ロイは待ち合わせ場所と時間を伝え、セシリアは了承した。
一旦セシリアに別れを告げ、スコット家を出ると、ロイは辻馬車を拾った。マリーを連れてルーファスの邸へ向かう。マリーを馬車で待たせたまま、ロイは門番に声を掛け、やがて中からヴァンシタート家の執事が現れた。彼から鍵を受け取ると、ロイは再び馬車に乗り、それから、セシリアに伝えた待ち合わせ場所へ行く。
セシリアと彼女の両親と落ち合い、徒歩で目的の場所へ向かう。細い路地に入るロイに、セシリアの両親はどこへ行くのかと訝しがるが、セシリアの表情は硬く、その場所を知っているようだった。
「ロイ先生…」
ロイが足を止めた場所を見て、セシリアはその背中に声を掛けた。ロイは小さく微笑んで、鍵をドアに差し込む。先程ヴァンシタート家の執事から預かった鍵だ。ガチャリと音がして鍵が開く。ドアを開けたロイは皆を中に促し、部屋の真ん中に置かれたイーゼルに歩み寄る。イーゼルに掛けられた布をロイが取り払うと、光を浴びたような絵が現れた。
白鳥と、その対のような黒い鳥が戯れるように踊る湖上の絵だった。
「綺麗…」
「彼の絵よ」
呟いたマリーにセシリアが答える。
「お父様、お母様、これが彼の絵なの。綺麗な絵を描く、とっても素敵な人だったの。私、あの人の子どもを産みたい」
娘の言葉に、両親は娘を見つめた。
「彼は、ティモシーは、貧しい移民の名もない絵描きだったけれど、私の愛した人なの。私、この子を産むわ」
自分のお腹に大切そうに手を当てて宣言する娘を、母親は涙ぐんで抱き締めた。
「…わかっているのか。父親のいない子どもなど、苦労するだけだぞ。お前に相応しい男なら、わたしがいくらでも見つけられる。身分低い移民の子どもなどを産んで、苦労するのは目に見えている。それでもお前は、その男の子どもを産むというのか?」
「はい、お父様」
決意に満ちた娘の瞳に、父親は沈黙する。
「……かつて、ヨーロッパに住む人間にとって、黒い白鳥──黒鳥はあり得ないものの象徴でした」
ロイの静かな声が、ティモシーが使っていたアトリエに響く。
「でも、オーストラリア出身の彼は知っていたんです。黒鳥は、ごく自然にいるものだと」
ヨーロッパには白い白鳥しか存在しないが、オーストラリアには黒い白鳥──黒鳥が存在する。
「そして、もう僕たちは知っている。黒鳥が、“あり得ないもの”ではないと」
七つの海を支配すると言われるこの国では、オーストラリア原産の黒鳥の存在を、もう既に知り得るのだ。
貴賎婚を嫌うこの国では、身分違いの婚姻は苦労するばかりだ。それどころか、セシリアは結婚もしていない。それなのに、身分の違う男の子どもを産むことは、人に後ろ指差される行為になるかもしれない。それは、彼女の両親の世代や世間にとっては“あり得ない”ことだ。
けれど、大きく時代の変わるこの世紀末に、本当にそれは“あり得ない”ことだろうか?
そういった疑問を投げかけるロイの言葉に、セシリアの父親は黙ったまま、ティモシーの描いた絵を見つめた。
「いい絵だな。俺が買い取ってもいいんだが」
戸口からした声に、全員が振り返る。
「伯爵様!」
マリーが驚いて呼びかけると、それに答えるようにルーファスは手を上げた。
「ヴァンシタート伯爵。これは、セシリア嬢が持つべき絵ですよ」
「わかっている」
窘めるように言ったロイの隣まで歩いてくると、ルーファスはセシリアとその両親を振り返った。
「もっと早くに彼の絵を知っていれば、パトロンとして名乗り出たものを。残念だ」
セシリアの父親は当然ヴァンシタート伯爵の顔など知らなかったが、名門貴族であるヴァンシタート家の名は知っている。そして、その当主がとても若いということも。その若き伯爵が、娘の恋人だった男の絵を高く評価している。これは凄いことだった。
「セシリア」
「はい、お父様」
「好きにしなさい」
セシリアは顔を輝かせる。
「ただし、条件がある」
父親の出す条件を、娘は硬い表情で待つ。
「きちんとわたしたちを頼ること。いいな」
「…はい!」
セシリアは涙して父親に抱きついた。母親もセシリアに寄り添い、親子三人が抱き合う。
彼らを残して、ロイとマリー、そしてルーファスはティモシーのアトリエを出る。突然のルーファスの登場に意味がわからないマリーに、ロイは「実はティモシーのアトリエをしばらくルーファに押さえてもらっていたんだ」と種明かしした。居住者がいなくなったのなら、早く次の人に貸したいという貸主に、ルーファスがその権力に物言わせたのだ。
「まさか、伯爵自ら来るとは思わなかったけど」
ロイはルーファスの執事に鍵を受け取った時点で、ルーファスの役割は十分果たしたと思っていた。
「俺がわざわざ出て行って、欲しいと言ったほうが絵の価値が上がるだろう」
そう言ってルーファスは片目をつぶる。もちろんルーファスの意図がロイにはわかったので、普段は呼ばない「ヴァンシタート伯爵」という呼称を使ったのだ。
たとえセシリアの父親が、伯爵が欲しがるほどの絵ならば、手元に置きたいと思ったのだとしても、そしてそれを描いた男ならば将来評価されて、娘の子どもの父親だと認めてもいいかもしれないと打算したのだとしても、セシリアにとって最善の策は、父親に子を産むことを認めてもらうことだ。
「まあ、実際、いい絵だったがな」
白鳥と黒鳥が戯れ、その中央には小さな小さな雛鳥が──白と黒が綺麗に混じった色で、描かれていた。ティモシーはセシリアの中に宿る自分の子の存在を知っていたのか。あるいは、それは彼の希望だったのか。
「伯爵様、ありがとうございました」
友人であるセシリアのためにルーファスがしてくれたことに、マリーは感謝した。ルーファスは「ああ」と頷いて、馬車に乗り込む。
ふと振り向いて、ルーファスはマリーに手を伸ばす。
「マリー、ロイを頼む」
ぽんぽん、と軽く頭に手を乗せられてマリーは一瞬驚く。
「…はいっ!」
けれど元気よく答えてみせれば、ルーファスは満足気に微笑んで馬車に消えた。御者がドアを閉め、馬車は走り出す。
馬車を見送りながら、参ったな、とロイは苦笑する。ルーファスには詳しいことは話していないのだが、あのアトリエが、どういう場所なのかルーファスはお見通しのようだった。セシリアの愛するティモシーの最期の場所。ロイが命を救えなかった場所。
そっとマリーの手が腕に触れて、ロイは彼女を見下ろす。
「帰ろう、ロイ」
「…そうだね」
歩き出したロイの手をマリーが握る。ルーファスがなぜマリーに自分を頼むと言ったのか、少しわかった気がした。彼女の確かな温度は、ロイに落ち込む暇を与えない。ロイは小さなその手を包むように握り返した。
数日後、セシリアがロイのもとを訪れた。
「彼のアトリエを片付けていて、これはロイ先生に持っていていただきたくて」
セシリアが差し出したのは、小さなサイズの絵だった。まだ色付けされていないが、デッサンは終わっているようだ。
「ロイだわ」
マリーが絵を覗き込んで小さく叫ぶ。そこには、微笑むロイの姿があったのだ。
「彼はロイ先生にとても感謝していました。それで、この絵を描いたんだと思います」
「ありがとう」
微笑んでロイは絵を受け取った。命を救えなかったティモシーに対して、ロイは申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、彼がロイに感謝してくれていたというのなら、少しは救われる。
「メアリーには、これを」
そう言って、セシリアはもう一枚絵を差し出した。マリーに向けられたそれは、既に色が付いているもので、先日アトリエで見た絵の縮小版といった具合だ。あの絵のための習作なのだろうか。湖上の白鳥というテーマは同じだが、構図は少し違う。雛鳥はなく、白鳥と黒鳥は静かに寄り添っている。あなたとロイ先生みたいだなって思ったのよ、とセシリアは耳打ちしてマリーを喜ばせた。
セシリアが完全に悲しみから立ち直っているとは思わないが、彼女の朗らかな表情は、彼女に残された多くのものに気付いたのだと物語っていた。
※命を生み出す出産は、昔も現代も、母体の命がけです。帝王切開自体はかなり昔から存在していたようですが、母体の死を前提とした術式だったようです。19世紀末には母体も救える技術が発達したようですが、それでもかなりのリスクを伴うものでした。