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Black Swan 2

 暗い部屋に置かれた一枚の絵。描き上げられたばかりのようで、まだイーゼルに乗せられたままだ。蝋燭ろうそくの灯だけの薄暗い部屋なのに、その絵だけがはっきりと見えた。白い鳥と黒い鳥が戯れるように踊る。名もない芸術家が描いたというその絵は、見事な出来だった。惜しむらくは、それがスワンソングだということだ。

 目を開けたロイは、薄暗い部屋のベッドに体を起こす。夢でも鮮明なまでに描かれたあの絵を思い、ロイは額に手を当てる。月明かりが射すだけのこの部屋と同じくらいに暗いあのアトリエで、の人は何を思ってあの絵を描き続けていたのか。

 何事にも、限界はある。医者は万能ではない。仕方のないことだったと、冷静な頭では思える。けれど、自分の無力を痛感するのも、こういう時だ。

「私は、ロイが無力だなんて思ってないからね」

 あの夜、マリーが口にした言葉を思い出す。彼女が何を思って言ったのかはわからない。もしかしたら、見抜かれているのかもしれない。それでもマリーは何も訊かずに、ロイを慰めるようなことを口にした。

 結局、甘えてしまっているじゃないか。十も年下の少女に。

 ロイは口の端に笑みを乗せる。けれどそれは、自嘲の笑みではなかった。


 数日後、ロイのもとに飛び込んできた急患の知らせは、ロイを驚かせた。

「た、大変です! ドクター! お嬢様が!!」

 息せき切って駆け込んできたのは、ロイの顔見知りの青年だった。

「落ち着いて。お嬢様というのは、セシリア嬢?」

 青年は息を切らせたまま頷く。彼はドーズ商会で働いているのだ。

「お、お嬢様が…血が、たくさん出て……お倒れになって…。お願いです、ドクター! 今すぐ来てください!」

 医院に居合わせた患者たちが、行ってやってくれとロイを促した。今日来ている患者は定期的に掛かっているだけなので、後日でも問題ないだろう。礼を言って、往診の準備をしようとロイが診察室へ向かうと、既にマリーが往診用の鞄一式を用意していた。

 ロイとマリーは青年と一緒に、彼が駆って来たドーズ商会の馬車に乗り込む。すぐに医者を連れて来られるようにと、馬車を運転できる彼が医者を呼びに行く役を任されたのだ。

 ドーズ家の屋敷に着くと、すぐに執事らしき老紳士に部屋に案内される。セシリアの部屋に入ると、部屋の一角に血の染みた絨毯が見える。その近くのソファにも血の跡がある。ソファ前のローテーブルの上の手紙らしきものとペーパーナイフにも血が付いている。ある程度は拭きとられているようだが、かなりの出血だろう。青白い顔をしたセシリアはベッドに寝かされていた。すぐそばに彼女の父親がおり、その隣に母親らしき女性が心配そうにセシリアの顔を覗き込む。少し離れたところに若いメイドが立っており、その隣にはメイド長だろうか、年嵩のメイドがいた。

「お医者様がおいでになりました」

 執事の声に、セシリア以外の部屋にいた人々は振り返った。セシリアの父親がロイの顔を見て何か言いたそうに口を開いたが、「話は後です」とロイはそれを受け付けなかった。ロイが近付くと母親らしき女性が場所を空け、セシリアの父親を促す。渋々セシリアから離れた父親は、ロイがセシリアの腕を取るのを見つめる。

 セシリアの手首には止血のための布が巻かれていた。年嵩のメイドが巻いたのだという。「正しい判断です。どうもありがとう」とロイに褒められると、安堵したように頭を下げた。

 皆が心配そうに見守る中、ロイの処置は手早く進む。ロイは、止血の布を外して血を拭き取り、傷口を確かめる。それからマリーに指示して消毒薬を受け取る。縫うほどの傷ではないと判断して、ロイは包帯を巻く。止血のために少し強めに巻き、手の下にクッションを敷いて高い位置に手を置く。

 処置を終えたロイは、セシリアの父親に向き直った。

「傷は深くはありませんから、じきに治るでしょう。ただ、出血が多いですから、数日間は絶対安静です。熱が出るかもしれませんから、しばらくは様子を診ましょう」

「……なぜあんたが?」

 セシリアの父親は、連れて来られた医者がロイであることが不満のようだ。

「わたしがお呼びしたのですわ」

 母親らしき女性が言う。「なぜこんな男を」と眉を顰める父親に「あらご存知ないの?」と女性は首を傾げる。

「ドクター・ハートネットは、この辺りでは評判のお医者様ですのよ。腕が良くって、そのうえとてもお優しいって」

 穏やかで上品な風貌の若い医師は、夫人たちの間では評判が良かった。

「お嬢様が目を覚ますまで、僕たちが付いていますから、皆さんはお仕事にお戻りください」

 夫人の褒め言葉にも表情を変えずにロイは皆を促した。父親と夫人は、商会のほうの仕事があるのだろう、心配そうにセシリアを見たが、何かあったら呼ぶようにと若いメイドに声を掛けて部屋を出て行った。年嵩のメイドと執事も一礼して去る。

 若いメイドは「お嬢様のお側にいるのが私の仕事ですから」と留まった。セシリアの体に付いた血を綺麗にしたり、汗を拭いたりといった看護はマリーに任せて、ロイはメイドに向き直った。

「何があったのですか?」

 言いづらそうに俯くメイドに、ロイは確認の意味で問う。

「セシリア嬢が、あのペーパーナイフで自分の手首を傷つけた。そうですね?」

 テーブルの上に置かれたままのペーパーナイフに目を遣って、メイドは沈黙した。口止めでもされているのかもしれない。ロイは足早にテーブルに近付き手紙を手に取る。メイドはロイを追いかけたが、遅かった。ロイの目は既に手紙に落とされている。

 それは、セシリアへの愛を綴った手紙だった。だが、同時に謝罪の手紙でもある。最後の署名に、ロイはほんのわずかに眉根を寄せる。

「……セシリア嬢は、お父上に堕胎を勧められたのではないでしょうか。それで、衝動的に自分の手首を切った」

 はっとしてメイドはロイを見上げる。なぜわかるのかと言いたげな目だった。正直、近くにあったのがペーパーナイフで良かったとロイは思う。もっと鋭利な刃物ならば、彼女の傷はあの程度では済まなかったはずだ。

「───お嬢様は、お子様を産むべきかどうか、悩んでおられるようでした。ですが、旦那様に父親のわからない子どもなど産むべきではないと言われて…混乱なさったのだと思います」

 私がお話したということは内密にしてください、と言い、メイドはそう教えてくれた。ロイがそこまで見抜いているのなら、むしろ話したほうが良いと判断したのだろう。

「ドクター」

 マリーが声を掛け、ロイは振り向いた。ベッドのセシリアが目を開けている。「お嬢様!」とメイドが駆け寄る。ロイもすぐにベッド脇へ行く。

「目が覚めましたか、セシリア嬢」

 ぼんやりとロイを見つめていたセシリアは、やがて息を呑んだ。

「……どうして…?」

「僕は医師ですよ。こういうことがあれば、僕が来るとは思いつかなかったんですか」

 ロイはそっとセシリアの手首の包帯に触れる。痛かったのか、セシリアは眉を寄せた。

「───何という、愚かなことをしたのですか、あなたは」

 珍しく怒った様子のロイに、マリーは驚いた。口調も表情も、いつもの穏やかなものと変わらないが、ロイは確かに怒っている。

「あなたの体は、あなただけのものではないのですよ」

「…もう、どうでもいいわ」

 セシリアの怪我をしていないほうの手は、無意識にお腹に当てられていた。

「僕はお腹の子のことだけを言っているのではありません。あなたに何かあれば、周りの人たちが心配するとは考えなかったのですか」

 実際、セシリアの両親も、使用人たちも酷く心配していた。

「……もう、いいのよ。あの人のいない人生なんて、生きる意味がないわ」

「───そのことは、申し訳なく思っています。ですが、あなたの生きる意味は、彼だけではないはずです」

「わかったようなことを言わないで! 彼を救えなかったくせに! 偉そうに言わないでよ。医者のくせに彼を助けられなかったのに!」

 先程まで力なく話していたセシリアが急に声を荒げてマリーは驚く。ロイは沈痛な面持ちで口をつぐんだ。

「……申し訳、ありません」

 やっとのことでそれだけを口にした様子のロイに、思わずマリーはその腕に触れる。ロイはマリーに微笑んで見せようとしたが、それは成功しなかった。わずかに動いた口角は笑顔にならないまま、ロイは目を伏せる。

「ドクター、あとは私が看ますから、ドクターは医院へお戻りになってください」

 マリーの言葉にロイは一瞬戸惑ったようだが、マリーが微笑んで見せると、「あとは頼むよ」と頷いて部屋を出て行った。実際、処置は終わっているので、あとは看護婦の仕事だ。マリーは、メイドに「ドクターを医院へ送ってくだるよう、執事さんにお願いしてくださいますか?」と頼み、メイドは一礼してドアを出て行った。

 セシリアと二人きりになって、マリーは彼女を見下ろす。

「……あなたのお腹の子の父親は、亡くなっていらっしゃるのですね。そして、それをドクターが看取った」

 セシリアはマリーを見上げて、きゅっと唇を噛む。

「ドクターは何もおっしゃいませんでした。けれど、救えなかったことを、とても悔やんでいるのは、私には痛いほどわかります」

「……あなた、ドクターが好きなの?」

 マリーから視線を外してセシリアが問うた。

「はい。ドクターは私のすべてです。彼がいなければ生きられないほどに。だから、あなたの気持ちも少しはわかります」

 愛しい人がこの世を去ってしまったら、どうやって息をすればいいのかもわからなくなってしまいそうだ。

「でも、もし、彼が私に子どもを残してくれたのなら、私は命に替えても、その子を守ります」

 それに何より、自分がいないことを理由にマリーが命を絶つようなことをしたら、ロイは酷く悲しむだろう。もしもロイがその命をマリーに残してくれるのなら、それと共に生きていける。生きて行かねばならない、と思う。今のところ、残念ながら、彼の子ども云々ということは一切ないけれど。

 セシリアはそっと自分のお腹に手を当て、マリーから顔を背ける。

「…ドクターが彼を救おうと必死になったくれたことは、私だってわかってるわ」

 もう望みがないと多くの医師に見捨てられた彼を、ロイだけは見捨てなかった。病気の完治が無理でも、少しでも命が長らえるようにと懸命に治療してくれた。それゆえに、彼は、最後の絵を描き上げることができたのだ。

 母から評判の医師の噂を聞いた時、藁にもすがる思いでロイを頼った。不治の病である結核を患う彼を、すべての医師はさじを投げた。けれどロイだけは、彼と、彼と共に生きたいと願うセシリアに寄り添ってくれた。

「だから、父親が誰かって両親に訊かれた時に、ドクターの名前を言っちゃったの」

 両親に妊娠がばれ、子どもの父親は誰かと問い詰められた時、とっさにロイの名前を出した。医師という地位と、良い評判を持つ彼なら、両親はこの子を産むことを許してくれるかもしれない、と。

「ドクターに迷惑が掛かるなんて、その時は考えられなかったのよ。ごめんなさいね」

 怒鳴り込んだ父に、あっさりロイが否定してしまって、その目論見もくろみは崩れてしまったけれど。まったく、気の利かない朴念仁ぼくねんじんだと心の中でロイをなじった。

「私、どうしたらいいのか、わからないのよ。悲しくって、辛くって、もう生きていけないって思った。この子を産まなくちゃって思うのに、お父様に父親のいない子なんて不幸になるだけだって言われたら、そうなのかもって思っちゃって」

 セシリアは両手で顔を覆って泣き出した。

「ドクターの優しさに、これ以上つけ込まないでください」

 思わぬマリーの厳しい言葉に、セシリアは泣くのをやめて手をどける。

「そうやって悲しんでいれば、ドクターが手を差し伸べてくれると思っていませんか? あわよくば、あなたの恋人を救えなかったことを申し訳なく思っているドクターが、父親役を買って出てくれると思っているんじゃないですか」

「そ、そんなこと…」

「あなたがすべきことは、真実をご家族に話して、頼ることです。あなたはまだ、お腹の子の父親が誰なのか、話していないのでしょう?」

 マリーはソファ前のテーブルに置かれた手紙を取り上げる。ロイの表情から、これが彼女の恋人からのものだと当たりは付いていた。

「このままでは、ティモシーさんだって悲しむんじゃないですか?」

 手紙には、セシリアを愛していること、けれど自分の命はもう長くはないこと、一緒にいられないことを詫びる内容が書かれていた。セシリアとずっと一緒に生きたい。身分低い僕だけれど、君と過ごせたなら、どれほど幸せか。できることなら、僕が君を幸せにしたい、と綴られている。子どものことは、知らなかったのかもしれない。

「……だって、彼は、移民の、名もない絵描きなのよ。お父様がそんな人の子を産むことを許すはずがないわ」

 セシリアは中産階級だが、裕福な家の娘だ。結婚相手にもそれ相応の地位や経済力が求められる。そのどれも満たしていないティモシーは生きていたとしても、彼女の相手として父親に認められないだろう。

「それでも、あなたの愛した人なんでしょう?」

 彼女が彼の生きた証を残さないで、他の誰が残すというのだろう。


 マリーがドーズ家の馬車に送られて医院へ戻ると、ロイが心配そうに待っていた。マリーは医院のドアを入るなりロイに抱きつく。医院には既に患者はいなかったが、ドアを開けたままだったため、目の前の御者が赤面してしまいロイは慌てる。

「ちょっ…、マリー?」

 御者はゴホンと咳払いをして、なるべく二人を見ないようにして帰っていった。ロイはマリーの背をポンポンと叩いて、ドアを閉める。

「どうしたんだい、マリー? 僕のせいで、何か言われた?」

 マリーは首を左右に振る。

「ロイ、ギュッてして」

 いつものマリーが甘える時の台詞だ。急にどうしたのか、やはり何か言われたのではないかと心配しつつ、ロイはマリーの要求を呑む。

「セシリアが、ご両親に本当のことを話したの」

 それは良いことだとマリーは思っていた。彼女の決意を応援し、マリーは側で見守っていた。だが、セシリアの心配どおり、彼女の父親は激怒した。そんな男の子どもなど産ませられない、しかももう死んでいるなんて、と。

「それで、セシリアは、産むのを迷ってしまったみたい」

 真実を告げることだけが、良いことではないのかもしれない。自分がロイに真実を話していないように。と、マリーも迷う。もちろんロイを父親役になどはできないが、黙っていれば、セシリアの愛した人を父親に全否定されることはなかったかもしれない。

「……仕方がないよ。最後に決断するのは、彼女だ」

 ただ、決断までには時間がないのも事実だ。産まないことを決意したなら、すぐに堕胎しなければ、母体も危険にさらされる。むろん、産むにしろ産まないにしろ、出産に関わることは、命がけだ。だからこそ、他人が決めることはできない。たとえ医師であっても。

 翌日、様子を診に訪れたロイにセシリアは「失礼なことを言ってごめんなさい」と謝った。それから数日間、ロイはドーズ家に顔を出してセシリアの傷を診た。幸い、傷による発熱などは起こさなかったようで、順調に回復していった。けれどその間、セシリアの口から子どものことが出ることはなく、家族や使用人も同様だった。ロイやマリーから尋ねることも憚られ、結局、彼女がどうするつもりなのか聞けないままになってしまった。

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