Black Swan 1
暗い夜の道を、ロイは足早に歩く。大都会とはいえ、こんな時間になれば街は暗く人気もない。先程から降り出した雨は本降りになっている。ロンドンは雨の多い街だ。それゆえにロンドンっ子は雨に濡れることをあまり厭わない。だが、この夜の雨は、濡れるには雨足が強く、そして冷たかった。
ロイは、冷たい雨を、まるで罰でも受けるかのように背中で受け止めていた。どこかで雨宿りするという気は起こらなかった。それに何より、一刻も早く家に帰りたかった。
凍てつく雨に、吐き出す息は白く視界を染める。バシャバシャと水はけの悪い道を踏みしめる自分の足音だけが耳に響く。
「ただいま」
家のドアを開け、ロイはいつもと変わらない言葉を口にする。
「お帰りなさいっ!」
待ちわびていたようにマリーがリビングから飛んできた。だが、ロイの姿を目にすると、驚いて立ち止まる。
「大変! タオルを持ってくるわ」
目の前で踵を返すマリーの手首を掴みそうになって、慌ててロイは手を引っ込める。雨に濡れた自分の手を眺めてロイは自嘲する。何を、こんな十も年下の少女に甘えようとしているのだろう。こういうことがあることは、覚悟していたはずだ。今日が初めてというわけでもない。
「こんなに濡れて、雨、そんなに降ってた?」
タオルを持ってマリーが再び現れた。ありがとう、とマリーからタオルを受け取り、ロイはずぶ濡れになった頭を拭く。コートの水滴も大まかに拭き取り、コートを脱いでロイはリビングへと歩き出す。マリーはロイの手からコートを受け取り、コート掛けに掛ける。
ソファに座ってガシガシと髪を拭くロイの手から、マリーはタオルを奪う。
「貸して」
そしてロイの頭にそっとタオルをかぶせ、優しく丁寧に髪を拭く。ロイの様子がいつもと違うことはマリーにはわかっていた。ロイがそれを表に出そうとはしないので、何も言わずにいる。ロイは、深夜の急患の往診にはマリーを連れて行かない。そして、治る見込みのない患者を診に行く時にも。
マリーは看護婦なのだから、ロイが一緒にいてくれるのなら、そんな気遣いはなくても大丈夫だと思うのだが、それがロイの優しさから来るものだとわかっているので口出しはしない。でも、もう少しくらい、自分のことを頼ってくれてもいいのに、とも思う。もう自分は、あの頃のロイに甘えるばかりの幼い子どもではない。
タオル越しのロイの頭を、マリーはそっと包みこむように抱き締める。
「……マリー? 濡れるよ?」
こんな時でも、ロイの声は穏やかだ。
「…ロイ、私は、ロイが無力だなんて思ってないからね」
すっと手を引いて、マリーはロイの頭を解放する。それから、タオルをまくってロイの顔を覗き込む。
「お風呂の用意をしておいたから、入ってきて」
「ありがとう」
ロイは微笑んで立ち上がり、先に寝てていいよ、と言い置いて浴室へ向かった。ロイの背中が見えなくなると、マリーはそっと息を吐いてソファに座る。ロイを慰める術などマリーは持っていない。でも、きっと伝わったと思う。
少しうとうとしながらマリーがロイを待っていると、風呂を終えたロイがリビングに戻って来た。
「あれ、まだ起きてたの? 寝てていいって言ったのに」
まだ寝ていないことを少し咎めるような口調は、マリーを小さい子ども扱いしている。ムッとしてマリーは言い返す。
「寝る前に、よく眠れるおまじないしてくれるって約束よ」
ベッドに潜り込んだマリーをロイは叱ったが、マリーは「だって眠れないんだもん」と抗議し、毎晩眠る前におまじないをしてもらうという結論を勝ち取った。
ふっと笑ったロイは、両腕を少し広げる。
「おいで」
マリーはソファからロイに駆け寄ってギュッと抱きつく。ロイの手が背中に回されて少し力を込めてくれる。ロイからほんのりと石鹸の香りがした。
「おやすみ」
背の高いロイの声は、マリーの耳よりも上から降って来る。
「おやすみなさい」
すぐに離されてしまう手を寂しく思いながら、マリーも体を離して顔を上げる。それからロイに促されて寝室に向かう。途中で振り向いて「おやすみなさい」ともう一度言うと「おやすみ」とロイが返してくれた。
「あらあらあら、まあまあまあ、んまあぁ~」
ロイの向かいに座って朝食を摂っていたマリーを見つけたエマの反応は、ロイが雇っている通いのメイドとほぼ同じ反応だった。
「ロイ先生ったら、いつの間にこんなに可愛らしいお嬢さんを。ロイ先生も隅に置けませんね」
続く言葉もほぼ同じだ。
「いや、違うから」
ロイが返す言葉も同じだった。
「彼女は君の後任の看護婦だよ」
マリーが来るまでロイの医院で看護婦として働いていたエマだが、マリーとは手紙のやり取りだけで会うのは今日が初めてだ。とはいえ、三年前に会っているので、マリーのほうは彼女のことを覚えているのだが。
「家が火事に遭って、新しい家を見つけるまで部屋を貸しているだけだよ」
「まあ、そうなんですか」
どれほど信用したのかはわからないが、一応エマはそう答えた。
「ところで、エマはどうして家に?」
話題を変えようと、ロイは早朝に訪問した理由を尋ねた。
「ああ、そうそう。オレンジをいただいたので、ロイ先生にもぜひお裾分けをと思って。朝食に召し上がっていただこうと、ジュースにしてきましたの」
本来の目的を思い出したらしく、エマは持ってきたジュースの入った容器をテーブルの上に置いた。看護婦を辞めたあとも、エマはこうして時々差し入れを持ってきてくれる。ただ、それはロイの家にであって、前任の看護婦がいたのでは新しい人がやりにくいだろうと医院には顔を出していない。だからマリーとも初対面なのだ。
「ありがとう、いただくよ」
ロイはお礼を言って早速グラスに注いで飲む。美味しいよ、とロイが微笑めば、エマは満足そうだ。エマや患者の女性たちがロイに差し入れをするのは、ロイの笑顔が嬉しいからだ。
そこへ、階下から声が聞こえた。誰かが医院の入り口で大声で呼んでいるようだ。立ち上がろうとしたロイを制して、エマが「ここは私が」と医院へ向かった。ロイもマリーも着替えは済んでいるが、既に一仕事終えているエマのほうが反応は早かった。
「何です、朝から大声で」
医院のドアの前で大声で喚いている男に向かって、ドアを開けたエマは呆れたように言った。急患というのとは、雰囲気が違う。
「ロイ・ハートネットという男がいるのはここか?」
「何ですか、不躾に」
中年の男が不機嫌を隠さない態度で問うので、対するエマの声にも剣がこもる。
「ロイ・ハートネットは僕ですが、何か御用ですか?」
エマの後からやってきたロイが名乗り出る。エマの顔には、こんな失礼な人に名乗り出なくたっていいのに、と書いてある。
「あんたか、うちの娘を孕ませたっていうのは!」
怒り心頭の様子で男はロイに詰め寄った。
「………は?」
ロイは眉間に皺を寄せる。
「え!?」
ロイと一緒に来ていたマリーと、エマの声が重なった。
「……ええと、話がよく見えませんが」
困惑したように男を見下ろすロイに、男はお構いなしに唾を飛ばす。
「しらばっくれるな! 娘に手を出しておいて、それで知らんぷりなんて許される訳がないだろう!!」
「…誰が、誰に、手を出したですって?」
聞き返すロイに、男は憤慨してロイを睨みつける。
「あんたが、俺の娘、セシリアにだ!!」
「セシリア…」
口の中でロイはその名を呟く。
「ちょっと、あなた! 何を訳がわからないことを言っているんですか!? ロイ先生がそんなことするわけないじゃないですか!」
立ち直ったエマが抗議の声を上げる。
「ロイ先生には、メアリーがいるんですよ。第一、ロイ先生がそんな無責任なことするはずがありません!」
メアリー云々の話は正直余計だったが、エマの援護射撃にロイは感謝した。
「もしかして、あなたはセシリア・ドーズ嬢のお父上でしょうか?」
「だからそうだと言っている!」
いや、一言も言っていないのだが、興奮している男は最初の剣幕のまま言い切った。
「セシリア嬢のことは存じています。ですが、お腹の子の父親は、僕ではありませんよ」
落ち着いた様子ではっきりと否定されて、やっと男は聞く耳を持つ気になったようだ。
「あんたではないだと? 娘はあんたの子だと言っているんだぞ!?」
「どういう経緯で僕が父親だということになったのかはわかりませんが、違います」
そう言う根拠はもちろんある。行為そのものがないのだから当然だが、不可能なのだ。セシリアは既に妊娠三カ月。しかしロイが彼女と会ったのは一月ほど前なのだから。
「それじゃあ、誰が父親だって言うんだ!?」
「それは僕にはお答えできません」
その答えが、ロイが父親を知っているためなのか、知らないからなのかは判断できなかった。だが、ロイからは聞き出せないということはわかる。自分が父親でないことを証明するためには、他の男の存在を告げれば早いのに、ロイはそれをしないのだから、聞くだけ無駄というものだろう。
渋々といった具合だったが、諦めがついたのか、男は「万が一お前が父親だったら、ただじゃ置かないからな」と捨て台詞を残して帰っていった。
やれやれと溜息を吐いたロイに、エマは尋ねる。
「一応念のためお聞きしますが、本当にロイ先生ではないんですよね?」
「誓って僕じゃない。エマは僕がそんな風に見えるの?」
「いえ、先生のことは信用していますけれど」
男と女のことはわかりませんからねぇ、とエマは頬に手を添える。それからちらりとマリーに視線を向けて、「では、家族の朝食の支度がありますので」とエマも帰っていった。
残されたロイとマリーの間に微妙な空気が流れる。
「…まさか、マリーまで僕を疑ってるんじゃないよね?」
エマに疑われたことがショックだったのか、ロイの声には拗ねたような響きがある。
「え、ううん。ロイを疑ったりしないわ」
でも、と思う。ロイにそういう可能性がないとは言い切れない。なぜかマリーはすっかり失念していたが、ロイの年齢ならば、もう結婚していてもおかしくはない。ロイに恋人がいて、結婚するということになったら、今のようには側にいられなくなる。いや、恋人がいなかったとしても、ロイは貴族だ。マリーと同じ歳のリリーローズにだってルーファスという婚約者がいるのだから、結婚を約束された相手がいてもおかしくはない。
「さあ、早く朝食を食べてしまおう。診療時間に間に合わなくなるよ」
マリーの返答に満足したのか、ロイはそう促して医院から自宅へ戻った。ロイの背中を追い掛けながら、マリーはどうかこの生活が長く続きますようにと願った。