Black Jack 3
ニコニコと笑顔を崩さない医師と、冷ややかな視線を投げつける伯爵とを前にして、一体どうしたことかと孤児院の院長は困惑する。目の前に立つ二人の温度差が、いっそ怖い。
「ここ3カ月程の献立表を見せていただけますか?」
「こ、献立表?」
子どもたちに与えた食事を記録に取っていないのか、と医師に問われ、特に記録はしていないと答える。
「…では、帳簿を」
「え? どうしてですか?」
「購入したものがわかれば、食事の内容も推測できるでしょう」
あとはシスターの証言と、子どもたちの記憶を参考にすればいい。
「いえ、しかし、帳簿は部外者の方にお見せすることは…」
「僕はウェセスター伯爵から、この孤児院の子どもたちの体調管理をするよう仰せつかってきました。困りましたね、帳簿を見せていただけないと、ご命令に背くことになります」
嘘である。ロイはウェセスター伯爵と面識はあるが、この件に関しては、今のところ彼はノータッチだ。結果次第では、ウェセスター伯爵に報告して判断を仰ぐことになるが。
「院長、帳簿をお見せ願いたい」
抑揚のない声でヴァンシタート伯に言われると、なぜだか迫力満点だ。渋々と院長は帳簿を差し出す。
「ご協力、感謝いたします」
笑顔を崩さぬまま、ロイは礼を言って受け取った。
帳簿を吟味したところ、大体の食事内容は知れた。シスターの証言や子どもたちの記憶どおり、ここ最近は新鮮な野菜や果物が少ない。冬場は野菜も果物もあまり採れないので、どうしても少なくなるのは仕方のないことだ。
だが、少々値が張るが、レモンなどの柑橘類は冬が旬だ。手に入れようと思えば入れられるし、ザワークラウトなどは船での保存食なのだから冬でも食べられる。この孤児院では、子どもの食事の管理には、それほど力が入れられていないということか。そういう知識がないのだとすれば、一概に虐待しているとは言い難い。
だが、帳簿をめくりながら、ロイは奇妙な違和感を抱く。
「…ずいぶん逼迫しているな」
同じ感想を、ルーファスも抱いたようである。孤児院は、決して儲かるものではない。だが、そこは寄付金などでやりくりしているはずだ。
「そうだよね。食べ物も安価な保存食ばかり。いくら建物の改修をしたからといって、こんなになるものかな」
当然、建物の改修には金がかかるが、その分寄付は集まっているだろう。でなければ、そもそも改修ができない。ウェセスター伯爵がどれほどの寄付をしているのか、ロイにはわからないが、建物を改修すると聞けば、それなりに増額もするだろう。
「妙だな。ウェセスター伯爵からの寄付金以外が、帳簿に載っていない」
ルーファスが帳簿を繰って首をひねる。
「この改修の前に、ジャック・ロジャーという人物から寄付がされているはずなんだが」
「ジャック・ロジャー?」
聞いたことのない名だ。ジャックはよくある名前だが、ロイの知る貴族にそのような名と姓を持つ者はいない。
「改修で入り用になると思って用意したが、ウェセスター伯爵の手前、あまり出しゃばることはできないから、偽名だ」
つまり、ルーファス自身の寄付である。そしてルーファスが言うには、寄付者が一人とは考えにくいので、他にも貴族でなくともジェントリや裕福な商家などから寄付があるはずだという。
「じゃあ、他の人たちの寄付はどこへ消えてしまったんだろうね」
この帳簿が、万一ウェセスター伯爵が見てもいいようにと付けられたものなら、他の寄付については書かれていなくても構わないと思っているのだろう。
「帳簿に載っていない金の流れについて調べさせよう」
ルーファスの言葉に、ロイは頷いた。
翌日、たくさんのオレンジと共にウェセスター伯爵令嬢は孤児院を訪れた。今日も彼女の婚約者ヴァンシタート伯爵と医師と看護婦を伴っている。そして、もう一人。
「俺も暇じゃないんですけどね」
と言いつつ、ルーファスからの突然の調査依頼をきっちり仕上げてきた律儀な男、スコットランドヤードのアークライト警部だ。
「暇じゃないロイを、捜査に借り出しているんだから、これくらいお安い御用だろう」
「ロイには感謝してますけどね。あなたに言われるのは何だか釈然としませんな、伯爵」
なぜだか会う度に言い合いをする二人である。マリーはハラハラと二人の様子を窺っているが、ロイはいつものことなので放置している。
「じゃあ、マリー、頼むよ」
「はい、ドクター」
「私も手伝うわ」
子どもたちの治療用のオレンジジュースを作りにマリーが調理場へ入り、リリーローズもそれに続く。ロイ達男性陣は、別室で院長と副院長と面会する。
「どうかなさいましたか、伯爵様?」
一体何事かと院長たちは緊張の面持ちでルーファスを窺う。
「今日は、ウェセスター伯爵からの伝言を持って来た」
今朝のうちに報告は済ませて、すべてウェセスター伯爵から承諾を得ている。
「あなた方には、即刻この孤児院を去っていただきたい」
「な…何を…!?」
孤児院は、ウェセスター伯爵の多額の寄付で成り立っているとはいえ、オーナーは院長だ。あまりの物言いだと院長は激昂する。
「孤児院はウェセスター伯爵が買い取る」
「何をおっしゃっているのですか!? いくらウェセスター伯爵様でも、そんなこと、許されません!」
「では、ジャック・ロジャー氏からの寄付金はどこへ消えたか説明してもらおうか」
具体的な名前を出されて、院長は言葉に詰まる。
「改修のためにと寄せられた寄付も改修には使われていないようだ」
リリーローズが調理場は改修の痕跡は見られなかったと言っていた。改修すると言った手前、ウェセスター伯爵が視察に来るだろうから、見える部分は改修したのだろう。だが、伯爵が決して入らない調理場のような見えない個所は手つかずというわけだ。
「帳簿に書かれていない寄付金の行き先は、賭けで大負けした外科医だったな」
見る見るうちに院長の顔色が悪くなる。
「ここ3カ月ほど、お前たちからその男へ金が流れているようだが」
アークライトが追い打ちをかける。この手の調査は、アークライトにとっては難しいものではない。
「ジャック・スミスと名乗っていたか」
ただ、肝心のその外科医の正体は知れない。その名も偽名だろう。アッシュブロンドだということだけは情報が入っている。
「…仕方なかったんです。賭けで、負けて…」
「というのは建前で、本当はお前たちの裏稼業について脅されでもしたんだろう」
院長と副院長の顔色はますます悪くなる。
「調べればわかることだ。数年前まで、この孤児院で死んだ子どもたちは、軒並み大学病医院の解剖室へ回されていた。まあ、いわゆる死体ビジネスってやつだな」
基本的には、解剖に使われるのは死刑囚やホームレスの遺体だが、医学の進歩に伴い、皮肉なことに死体の需要が増えた。それを補うために、大学病院の解剖室ではそれを金で買っていた。一昔前には、墓を掘り起こしたり、そのための殺人が起きたこともあったが、さすがに現在は法で規制されている。
「子どもたちを殺して売っていたというならともかく、亡くなった子の遺体を大学に売ること自体は法に触れるものではありません。僕たち医療従事者はその恩恵を受けてもいますから、そのことを責めるつもりはありません」
倫理的な問題はあるが、それ自体は法に触れるものではない。そうして得た検体によって医学が発達したのも事実だ。子どもの遺体は数が少ないから重宝もされただろう。
「ただ、そのことが公になれば、孤児院の院長としての名誉と信頼は失われ、寄付金も減るでしょうね」
「そ、そうなんです。それで、私たちは、子どもたちを守るために仕方なく…」
「脅しに屈したというわけですか」
院長は何度も首を縦に振った。
「脅されたことについては同情の余地があるとしても、子どもたちのために寄付されたものを、そんな脅しをする男に渡すなんて、言語道断です」
ロイの厳しい言葉に、院長たちは顔に張り付けていた笑みを落とした。
「あなたが守ろうとしたのは、本当に子どもたちですか? ご自分の名誉ではないですか?」
反論しようと口を開きかけた院長を許さず、ロイは続ける。
「あなたはご自分の過ちにお気付きでないようだ。切り詰めた食事の結果、子どもたちは壊血病になったのですよ」
「え…!?」
思いもよらない病名を聞いて、院長も副院長も青くなる。ちなみに、子どもたちだけに病状が出たのは、食事の違いだ。シスターたちは近所の教会からのボランティアなので、子どもたちと常に同じ食事を摂るわけではない。院長たちも外食することがあった。この孤児院の食事だけが栄養源の子どもたちに直に影響が出たのだ。幸い初期症状のため、柑橘類やザワークラウトなどを食べるようにすれば、じきに治るだろう。
「子どもを守るべきあなたが、そんなことのために子どもたちを危険にさらすなんて、許されません。あなたには、この舵を取る資格はない」
神妙な面持ちをしていた院長たちの肩をアークライトがポンと叩く。「とりあえず、横領の疑いで署までご同行願えますか」と言われ、院長たちは力なく頷いた。アークライトが院長たちを連れて、一足先に孤児院を出る。
それを見届けるように、孤児院を陰から覗く人影があった。やがてその眼は、子どもたちにオレンジジュースを配るマリーに注がれる。
「───やっと見つけた。僕の可愛いキティ・ドール」
ふとマリーが顔を上げ、孤児院を囲む生け垣のほうを見た時には、そこには誰もいなかった。一瞬首を傾げたマリーだが、ロイ達がやって来たので、すぐに気にするのをやめた。
「伯爵様、院長先生たちはどこに行くの?」
「ああ、ちょっと、用事があって遠くに行くんだ」
子どもたちの疑問にルーファスは言葉を選ぶ。
「大丈夫。代わりの院長先生をウェセスター伯爵が見つけてくれるさ」
不安そうな子どもたちだったが、ルーファスにうっとりするような笑顔を向けられると、安心したのか頷いた。そこへ、ルーファスのヴァレットが耳打ちする。
「みんな、ウェセスター伯爵からのプレゼントが届いたぞ」
ルーファスの言葉に子どもたちは顔を明るくする。ロイの助言に従って用意した柑橘類の木とベリー類の苗が届いたのだ。孤児院の庭にレモン、オレンジそしてライムの木を植える。それらは業者に頼んだが、ベリー類の苗は子どもたちとロイ、ルーファスで植えた。
「これはラズベリー、そっちはブラックベリー。初夏になれば、栄養がある美味しい実がなるよ」
これは何?と無邪気に尋ねる子どもたちに、ロイはそう教えながら、丁寧に苗を植えていった。
ロイにまとわりついてはしゃぎまわる子どもたちに、かつての自分の姿を重ねてマリーは考えにふける。もしも、あの時、自分がいた養護院にロイのような医師が来てくれたのなら。親しい友を失うことも、マリーが院を出て行くこともなかったのかもしれない。そして、あの忌まわしい出来事さえ、起こらずに済んだのかもしれない。今となっては、どうしようもないことだが…。
孤児院からは、ルーファスが馬車で送ってくれた。先にマリーの家に寄ってくれるようにロイが頼む。マリーの家はロイの医院から2ブロックほどのアパートだ。
「…何事だ?」
辺りが騒がしいので、ルーファスが御者に尋ねる。「火事のようですよ」という返事を受けて、ロイは馬車の窓を開ける。立ち上る煙、逃げる人々、野次馬の人波が目に入る。
「停めてください」
御者はロイに従って路肩に馬車を停めてくれた。ロイは馬車を降り、マリー、ルーファスもそれに続く。「あれは…」マリーが息を詰める。火の手が上がっているのは、マリーのアパートだったのだ。
燃え盛る火に、マリーは足がすくんで動けない。
「マリー、君の部屋は?」
「…二階の…」
何とかそれだけ口にして、マリーは二階の角部屋を指差す。
「必ず持ってくるものはある?」
ロイの問いの意味がわからずに、マリーはロイを見上げる。
「ルーファとここにいて」
マリーの髪を一瞬撫でると、ロイはアパートに向かって走り出す。
「…ロイ!」
そこでやっとロイの意図に気付く。
「待って! 行かないで!」
追いかけようとするマリーの腕をルーファスが掴む。「伯爵様、離してください、ロイが…!」と混乱するマリーを、ルーファスは「落ち着け」と宥める。
「ロイは自分の命を粗末にするほど間抜けじゃない。信じてここで待て」
マリーがルーファスに視線を向けると、ルーファスのブルーグリーンの瞳がじっとマリーを見つめ返す。綺麗な色だ、と一瞬思って、それで落ち着いた。マリーは頷いてその場に留まった。両手を組んで祈るように目を閉じたマリーの肩を、先日のロイのようにルーファスが支えてくれた。
それから、どれくらいそうしていただろうか。「マリー!」と遠くから声がした。目を開けて顔を上げると、人込みをロイが走って来る。その手には、マリーがここへ来る時に持ってきた鞄があった。必要なものは、大抵鞄の中に入れてあったので、マリーの家財は一応守られたことになる。
「ロイ!」
その姿を見つけるや否や、マリーは駆け出した。手を伸ばして、その首に抱きつく。かじりつくようにしてロイの名前を呼ぶマリーをロイは受け止め、落ち着かせるように背中をポンポンと叩いた。
「ロイ、無茶しないで」
「うん、ごめん」
マリーの声は涙ぐんでいる。
「…いなくならないで。側にいて」
「うん」
ロイの大きな手がマリーの髪を撫でる。その優しい感覚に、マリーはますますロイにしがみついた。
結局、火事はボヤ程度で済んだが、アパートには住めなくなってしまった。宿を失くしたマリーをロイが放っておけるはずもなく、やむなく家に泊めることになる。
「レディが男の家に泊まるなんて、本当は良くないんだけど…」
などとロイは呟いているが、マリーはロイの側を離れようとしない。火事が怖かったのかと思うと、ロイはマリーに甘くなってしまう。空いている客間をマリーに与え、ゆっくり休むようにとロイはドアを閉めた。
翌朝、目を覚ましたロイは、体を起そうとして奇妙な引っかかりを感じる。服を何かに引っ張られている。自分の夜着に目を遣ったロイは絶句する。夜着の一部は人の手に握られていて、その主は、猫のように気持ち良さそうに寝息を立てている。
「……マリー!」
眠そうに青い瞳を開けたマリーは、この後、朝食の間ずっと、レディが男のベッドに潜り込むなんて言語道断だ、とオコゴトを受けることになる。
※壊血病は、3~12カ月に及ぶ長期・高度のビタミンC欠乏により、正常なコラーゲン合成が阻害され、血管等の損傷が起こる病気です。皮膚・粘膜・歯肉の出血、創傷治癒の遅れ、感染への抵抗力の低下などの症状が出ます。大航海時代には原因不明だったため、海賊より恐ろしい病気とされました。海軍などでも多くの罹患者がおり、船の乗組員は戦死者よりも壊血病で死ぬほうが多かったとも言われています。18世紀には新鮮な野菜や果物、オレンジやレモンを摂ることで予防ができることをイギリス海軍の軍医ジェームズ・リンドが発見しています。19世紀末当時は、ビタミンCはまだ知られていません。ビタミンCと壊血病の関係が明らかになるのは20世紀です。(これらの情報はWikipediaなどを参考にしています。)