Black Jack 2
ウェセスター伯爵令嬢リリーローズ・ウィンフィールドは、父と一緒に訪れた孤児院を再訪した。今度は、婚約者のヴァンシタート伯爵と、医師と看護婦を連れて。
「お嬢様。またご訪問いただき、ありがとうございます。それで、本日はどのような…?」
孤児院の院長と副院長が慌てたようにやってきた。名誉院長の視察などというのは時々行われる程度のもので、これほど頻繁に来ることなどない。しかも今回は、何の前触れもなく突然令嬢がやってきたのだ。
「ごめんなさい、突然来てしまって。子どもたちと過ごすのがあまりに楽しかったものだから、また来てしまったの」
そう言われてしまうと、院長たちは「ありがとうございます。子どもたちも喜びます」としか答えられない。実際、視察に来た時には、子どもたちに混じって遊んでくれる伯爵令嬢は、子どもたちの人気者になったのだ。
「それで、私があまりこの院の話をするものだから、ルーファス様もご覧になりたいとおっしゃって」
「わたしもウェセスター伯爵を見習って社会貢献をと考えておりまして、参考にさせていただこうと、こうして来た次第です」
ウェセスター伯爵令嬢の婚約者、ルーファス・アズラエル・ヴァンシタート伯爵は、由緒ある家柄の、かなり裕福な貴族だ。その彼の訪問を断ることなどできない。
「少しでもお役に立てればと、今日は子どもたちの健康診断をしてもらうために、医師と看護婦を連れてきました」
「えっ?」
「何か不都合でも?」
驚きを隠せない院長に、ルーファスはブルーグリーンの瞳を向ける。
「あ、いえ、伯爵様。ご覧の通り、子どもたちは元気でございますゆえ、お医者様にかかることなど…」
ちらりと院長の目がロイへ向けられる。
「僕は構いませんよ。せっかく来たことですし、どうせですから全員診ましょう」
迷惑そうな顔をしてやったほうが院長のためではあったかもしれないが、ロイは人好きのする笑顔で答えた。
「そ、そうですか。お医者様がそうおっしゃってくださるのならば、お願いいたします」
院長のその言葉を受けると、ロイは早速準備に取り掛かった。小さな部屋を一室借り、そこを臨時の診察室にする。
リリーローズが子どもたちの順番を割り振り、一人ずつ診察室に入る。小さな子は、同性の年上の子が一緒に入る。診察室ではマリーが子どもが服を脱ぐのを手伝い、椅子に座らせる。ロイは聴診器を使って心音を聴き、目の中、口の中などを健診する。子どもたちにいくつか問診をして、その答えによって診る場所を増やす。
何人かの子を診たあとで、ロイはさらに問診や診る場所を増やしつつ、順調に診察を終えて行く。初めて医者にかかる子どもも多く、何をされるのかと怯えている様子だったが、優しい伯爵令嬢に促され、看護婦に優しく接してもらいつつ、穏やかな笑顔の医師の前に座ると、自然と子どもたちは落ち着いて診察を受けることができた。診察を終えた後は、伯爵令嬢の婚約者である伯爵様が、ご褒美にとびきり美味しいキャンディをくれた。
全員の診察が終わると、ルーファスとリリーローズが診察室に入って来た。
「ロイ先生、いかがでした?」
心配そうな顔でリリーローズが尋ねる。
「リリーの言っていた通り、皮膚が乾燥している子が多いね。多くには、毛穴の周囲に点状の出血が見られた。それから、何人かには歯茎の腫れと出血もあった。さらには下肢の腫脹と、腿に痣のような皮下出血がある子もいる」
そして問診の結果、脱力感や倦怠感、体の不調を感じる子や、眩暈を起こす子もいた。中には貧血の子もいることだろう。
「これは、壊血病だね」
ロイの診断に、リリーローズは目を丸くした。
「壊血病? でも、あれは船乗りがなる病気ではないのですか?」
「陸上でもなるものなのか?」
ルーファスも驚きを隠せない。
「確かに、壊血病は船上でよく起きる病気だよ」
大航海時代には、原因不明の病であったため、海賊以上に恐れられた病気だ。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の航海においては、半数以上がこの病で死亡したという。大航海時代の伝説に多い幽霊船なども、この病が原因で乗組員が全員死亡し、人を失ったまま海を漂う船だったのではないかと言われている。
「長期間新鮮な野菜や果物を摂らないことが原因で起こる病気だから、新鮮な食物に乏しい船ではよくある病だ」
かつて軍の船医をしていたことがあるロイにとっても、無関係ではいられない病だった。ロイが乗っていた船には、ロイの指示で大量のオレンジやレモンを積んでいた。また、食事にはよくザワークラウトを出すようにしていた。それらの食材が壊血病の予防に効果があることは既にわかっていたからだ。そのお陰で、ロイが自分の船の乗組員たちを壊血病で失うことはなかったけれど、行きあった船や、港で隣にいた船から助けを求められ、何度か壊血病の患者には出くわしている。海軍では、ライムジュースを乗組員に飲ませるようにしていたが、すべての船が守っているわけではなく、民間の商船にはそのような知識がないこともあった。
「陸上でも、船の上と同じような条件になれば、罹る病気だよ」
つまり、長期間にわたり新鮮な野菜や果物を摂らない状況が続けば、陸上でも壊血病にはなるのだ。そして、子どもたちは陸上にいながらにして、その症状を呈している。
「ルーファ。レモンを用意してくれるかい?」
子どもたちの治療に使いたい、とロイは言った。
「すぐに手配しよう」
そう言って、ルーファスは従僕に指示を出す。頷いたヴァレットは足早に孤児院を出て行った。
「レモンが届いたら、マリーはレモンジュースを作って子どもたちに与えてくれ」
「はい、ドクター」
ロイの指示にマリーが頷く。
「リリー、子どもたちの元気がないようだと君に教えてくれたのは、シスターたちだったね?」
その確認にリリーローズは「ええ」と答える。視察に来たリリーローズに、子どもたちの元気がない様子が気になるのだと耳打ちしてくれたのは、実質子どもたちの面倒を見ているシスターだった。院長は、子どものことになど興味がないのだとも嘆いていた。子どもたちと接しているのは彼女たちだが、院長や副院長に物申せる立場ではないため、リリーローズに助けを求めたのだろう。
リリーローズに頼んでロイはシスターたちを呼び、彼女たちから詳しい話を聞く。
そうしているうちに、孤児院にたくさんのレモンが届けられた。マリーがそれを受け取って調理場へ向かうと、「手伝うわ」とリリーローズが追いかけてきた。しかも、その手にはたくさんのレモンが入った籠を抱えて。
「えっ!? あの、リリーローズ様、そういうのは、私が…」
伯爵令嬢に物を運ばせるなんて、とマリーは慌てる。
「大丈夫よ。これくらい運べるわ」
そんなに非力じゃないわ、とリリーローズは笑う。
「私、少し前までは、ロイ先生と同じストリートに暮らしていたのよ。家事だって全部自分でやっていたわ」
「え?」
「あら、ロイ先生から聞いていない?」
ロイが言っていた言葉を思い出す。
「…あの、少し複雑な背景があるって、確か…」
「そう、ね。少し複雑かもしれないわね」
そう言って、美しい伯爵令嬢はマリーに微笑みを向けた。
金色の髪に、夏の空のような水色の瞳の伯爵令嬢は、初対面でマリーをうっとりさせるくらいに美しかった。深い茶色の髪に鮮やかなブルーグリーンの眼をした白皙の美貌を誇るヴァンシタート伯爵と並んでも引けを取らないどころか、二人が並んだ姿は、どこの画家が描いた絵かと思うほどだ。
そんな麗しの伯爵令嬢が、つい最近まで、マリーと同じストリートに住んでいたなんて、とても信じられない。
「私、養女なのよ。父は本当の父だけれど、母は正妻ではなくて、中産階級の出だったの」
その母がロイの患者だったことから、ロイとは既知なのだという。どうりで、ルーファスの婚約者というだけではない親しさが二人の間にあったわけだ。
「母が亡くなって、私はコンパニオン(上流階級の娘の話し相手)なんかをしていたんだけど、その時に父が私を見つけて、引き取ってくれたの」
「そう…なんですか」
彼女は、自分と違って父親に愛されているのだと思った。
「慣れ親しんだ街を去るのは、本当は不安で寂しかったんだけど、今は、父の元へ来て良かったと思ってるわ」
貴族社会は、貴族以外の人間が自分たちの社会に入って来ることを嫌う。それゆえに、彼女への風当たりも弱くはないだろう。だけど、彼女はそう言ってしまえる。
「そのお陰でルーファに会えたし、あなたにも会えたわ、マリー」
「え、私?」
マリーはきょとんとして伯爵令嬢を見遣る。
「初めて会った時から、私、この子と友達になる、って思ったわ」
屈託なく笑うリリーローズに、マリーは困惑する。今の今まで、リリーローズとマリーは自己紹介くらいしか会話をしていないのだ。
「……どうして、そんな…?」
「あら、人を好きになるのに理由が必要? 恋人だって友達だって、好きになるのに理由なんかないわよ。ただ、好きなだけ。私は最初からあなたを好きだって思ったわ」
何だかすごいことを言われた気がするが、悪い気はしない。マリーは自覚していないが、彼女の頬はうっすらと色づいている。
「あなただって、ロイ先生を好きになるのに、理由なんてなかったでしょ?」
「えっ!?」
初対面の人間にロイへの想いを言い当てられて、マリーは慌てる。看護婦として側にいる時は、ロイのことは「ドクター」と呼ぶし、人には気付かれないようにしているつもりなのに。
「ふふ、私には、お見通しよ」
実はルーファスからの情報があってのことなのだが、それは口にしない。
「──私は、あなたが羨ましいです、リリーローズ様」
「リリーでいいわ」「いえ、でも」「リリーって呼んで」「じゃあ、リリー様」「リリー、よ。友達なんだから、敬語も禁止!」という会話を挟んで、仕方なくマリーは要求を飲む。
「あなたが羨ましいわ、リリー」
美しくて、聡明で。好きな人と釣り合う身分を持っていて。屈託なく人を好きだと言える。人の愛情を信じられて、無邪気に人を愛せる。
「…私は、ロイに相手にされていないんだもの」
「そうなの?」
調理場に着いて、マリーはレモンの籠を置く。リリーローズは調理場を見て一瞬眉を顰めたが、気を取り直したように大張り切りで腕まくりをした。彼女がレモンを洗う気満々だと知って、マリーは慌てて自分に洗わせてくれと頼んだ。けれど結局リリーローズは「二人でやったほうが早いでしょ」とレモンを洗い始める。リリーローズに促されて、マリーは話の続きを口にする。
「ロイは私のこと、子ども扱いしてるのよ」
ロイの自分に対する態度は、三年前のままだ。幼子に接するような大らかさ。その穏やかさや優しさが好きだと思うけれど、同時にもっと女性扱いして欲しいとも思う。
「でも、ロイ先生があなたを大事に思っていることは、私にもわかるわ」
リリーローズは、桶に入った水で丁寧にレモンを撫ぜる。
「脈はあると思うわよ。私はあなたの味方だから、頑張って、マリー」
レモンを手にしながら、片目をつぶってみせる伯爵令嬢に、マリーは思わず笑顔を零す。とてつもなく羨ましい人だけど、自分もこの人を好きだと思う。引き合わせてくれた伯爵様に感謝しなくては。
「…私の母の名は、百合という意味なんだと言ってたわ」
唐突に変わった話題にも、リリーローズは変な顔をしなかった。
「あなたのリリーと同じ意味なのが、何だかとっても嬉しいの」
「光栄だわ!」
高級な服に水が飛ぶのも気にせずに、せっせとレモンを洗う伯爵令嬢と、マリーは友達になれる気がした。




