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Black Jack 1

 午後の診療時間は、急病以外の患者は少ない。そんな時間を見計らったかのように、ロイとマリーが紅茶を飲んで休憩しているところへ訪ねてくる者があった。患者かと思ってマリーが出る。すると、そこには既知の人物がいた。

「伯爵様! 先日は、ありがとうございました」

 自分を気遣い、ロイの家まで馬車で送ってくれた、ロイの友人だという若い貴族にマリーは頭を下げる。

「ああ。大丈夫か?」

「はい。大きな怪我もありませんでしたし、痣も治ってきました」

 準男爵に付けられた腕の痣は、だいぶ色が薄くなってきた。マリーがロイを呼びに行こうと振り返ると、既にロイはそこまで来ていた。

「やあ、ルーファ。この間はありがとう」

 にこやかに笑いながら近付いてくるロイに、ルーファス・アズラエル・ヴァンシタート伯爵は、鮮やかなブルーグリーンの瞳を向けた。

「俺の知らない間に、お前がこんな若い娘とどうにかなっていたなんて意外だったな」

「ルーファまでそんなことを」

 患者たちは、マリーがロイの恋人に違いないと噂を立てていた。マリーのロイへの想いは一目瞭然で、ロイもまんざらではないようだ、というのが患者たちの大多数の意見だ。

「違うのか? あの時のお前は、愛しい女を想う男みたいだったぞ」

 責任感が強く情に厚いロイなら、自分が雇っている看護婦が危機に遭っていると知れば、助けには行くだろう。だが、ルーファスにしてみれば、ロイの行動は、それだけでは説明が付かない。マリーを助けたあと、ロイはずっと彼女に寄り添い、肩を抱いていた。まるで、壊れものでも扱うみたいに。

「あるいは──可愛い娘を心配する父親か」

 ルーファスの言葉に、面食らったようにロイは目をしばたたかせた。マリーはマリーで、頬を赤くしてよいものか、残念がるべきかと困惑の表情を浮かべる。

「ところで、ルーファ。用向きは? 僕らをからかいに来たわけじゃないだろう?」

 すぐに持ち直したロイは話題を変える。

「ああ、お前に相談があって来た」

「相談? 君が?」

 今となってはロイのことを頼りになどしてくれないほど、大きくなってしまったルーファスである。ロイのあとをついて歩いていた幼い頃が懐かしい。

「いや、俺は代理だ。貴族の令嬢は、行動範囲が限られているからな」

 鉄道網も敷かれ、地下鉄が走り、馬車よりも早い自動車が街を走る時代になっても、貴族令嬢の外出先は限られていた。むろん、ロイの医院があるような街角のストリートなどには来られない。

「ああ、リリーだね」

 ロイはすぐに本来の相談主がわかったようで、ルーファスの婚約者であるウェセスター伯爵令嬢、リリーローズ・ウィンフィールドの名を口にした。ルーファスを応接室に招いてマリーにお茶を頼む。マリーは先程まで自分たちが飲んでいた紅茶を一旦下げて、新しいものを淹れに行った。

「それで、相談というのは?」

 マリーが新たに淹れてくれた紅茶を前に、ロイは尋ねた。ルーファスが構わないと言うので、マリーも同席している。

「リリーの父親、ウェセスター伯爵が名誉院長を務めている孤児院があるんだ」

 貴族の主な仕事は、領地経営と社交と議会と、社会貢献だ。その一環として、貧しい人たちに施しをしたり、身寄りのない子どもたちのための孤児院に寄付をしたりしている。名誉院長を務めるということは、つまり多額の寄付をしているということだ。

「その孤児院の子どもたちの元気がないようだとリリーが心配している」

 名誉院長であるウェセスター伯爵は、時々孤児院の様子を視察に行っていた。先日は、孤児院の改修が終わったため、娘のリリーローズを伴って行った。

 そこでリリーローズは、孤児院のシスターから子どもたちの体調についてひそかに相談を受けた。さりげなく観察すると、子どもたちの肌がカサカサして乾燥している様子なのが気になった。袖をまくりあげてみると、細かな痣のようなものが多数ある子どもが多い。リリーローズの目の前で転んでしまった女の子の腿には、大きな痣が見えた。虐待を疑ったが、決定的な証拠はない。

「そこで、一度お前に診てもらいたいそうだ」

「そういうことなら、早めに行ったほうがいいね。僕はいつでも大丈夫だから、リリーが行く時に僕も同行できるようにしてくれないか」

「ありがとう、恩に着る」

 礼を言ってルーファスは立ち上がる。虐待にしろ何かの病気にしろ、対応は早いほうがいいので、すぐに手配することにした。

 帰りざま、思い出したようにルーファスは振り返った。

「ああ、マリー」

 初めて会った時に馬車の中で“メアリー・ブラック”だと名乗ったのだが、ロイがマリーと呼ぶので、ルーファスもそれに倣うことにしたようだ。

「お前もロイと一緒に来てくれ。リリーが気に入りそうだ」

「…はい!」

 マリーの良い返事を聞くと、女性がうっとりしそうな笑顔を閃かせてルーファスは帰っていった。

「ルーファに気に入られたみたいだね、マリー」

 感心したようにロイが言う。

「リリーはちょっと複雑な背景がある子でね、ルーファは彼女を溺愛してるから…熱愛と言ったほうがいいかな、彼女に近付く人間にはナーバスなんだ」

 そのルーファスが、マリーとリリーローズを引き合わせようとしている。つまりそれは、マリーを自分の婚約者に会わせるに相応しい人物だと判断したということだ。

「ルーファに初めて会った時の君の対応は、僕も感心したしね。ルーファはその辺が気に入ったのかな」

 あんなことがあったあとで、混乱していてもおかしくない状況だった。だが、マリーは明らかに高位の人間であるルーファスに対してしっかりと答えていた。

「あれは…ロイが側にいてくれたから」

 一人だったら、まともに答えなど返せなかったかもしれない。だが、ロイが側にいて肩を抱いていてくれた。その温もりだけで、マリーは心を落ち着けることができた。

「ねえ、ロイ。私、前にロイが好きだって言ったでしょう?」

 三年前、ロイの前から姿を消す直前、マリーは自分の中に初めて生まれた感情をロイに伝えている。それはロイも覚えていて、うん、と頷いた。

「それからずっとロイが好きで、離れている間も好きなままで、今も好きよ」

「ありがとう。僕も好きだよ」

 むう、とマリーは眉根を寄せる。ロイは全然わかっていない。自分の必死の想いがロイには全然伝わっていない。マリーの『好き』と、ロイの言う『好き』は全く別物だ。マリーにとってロイは初恋の相手で、今でも好きな人だ。ロイにしてみれば、自分は幼い少女のままで、保護者のような気持ちでいるのだとしても。

「ロイ、私、もう子どもじゃないのよ」

「うん、わかってるよ」

 どうだか怪しい。微笑むロイの瞳は穏やかで、それは父親のような光を宿している。二十七歳のロイにとって、十七の娘など子どもと同じなのかもしれない。もどかしい気持ちを持て余して、マリーはこのまま抱きついてやろうかなどと考える。

「マリー、今日はもう上がっていいよ。疲れているだろう?」

「え?」

 唐突に話題を変えられて、マリーは首を傾げる。

「あんまり顔色が良くないよ。環境が変わったこともあるし、この間は大変な思いをしたし、今日は早く帰ってゆっくりお休み」

 マリーはサファイアの瞳でロイをじっと見上げた。ロイは医者なのだから、顔色が良くないなんて、簡単にわかってしまうのかもしれない。だけど、ロイの側にいたほうが、マリーにとっては心が休まるのだなんてことは、わかっていない。

 眠れない夜を、何とかやり過ごして、朝になればロイに会えることだけを支えにマリーが夜を超えているなんてことを、ロイは知らない。暗い夜の恐怖に、ロイの温もりを求めているなんて、穏やかに笑うこの人は、知らないのだ。



「さあ、こっちへおいで、アマーリア」

「…おとうさま? なに、するの?」

 暗い部屋の中で、肌が恐怖に粟立つ。普段は優しいその男が、今はなぜだか酷く恐ろしい。これ以上近付いてはいけないと、心臓が激しく打って警鐘を鳴らす。

「いいから、来なさい」

 強引に連れ込まれたベッドの上で仰向けにされ、男が覆いかぶさってくる。

「いい子だね、アマーリア」

 触れる手に、かかる息に、嫌悪と恐怖がせり上がる。

「…いや! おとうさま、やめて! いやあっ!」


 ガバリとベッドから起き上がって、マリーは自分の叫び声が夢の中の出来事であったことを認識した。浅くなっている呼吸を宥めるように、大きく息を吸って、深く吐き出す。指を見遣れば、冬の木枯らしに揺れる枯れ葉のようにカサカサと小さく震えている。自分の手をもう一方の手で包み、額を当てる。

 夢が、ここまでで終わって良かった。あの後の悪夢のような出来事を思うと、とてもではないが、これ以上眠れそうにない。あの準男爵の事件以来、忘れていたはずの悪夢を見ては飛び起きて、今はもう眠るのが怖い。

「……ロイ」

 ベッドの上で小さくなって、マリーは一番側にいて欲しい人の名前を呼ぶ。ただ、側にいてさえくれれば、それでいい。なぜロイを好きかなんて、もうわからない。初めて会った時から、ロイはマリーにとって特別だった。何の警戒もする必要のない、安心なひと。穏やかな眼差しも、大きな手も、すべてが優しい。ロイのベッドに潜り込んで、その温もりを感じて、彼の服をギュッと握って眠るのが好きだった。

「───ロイ、お願い、側にいて……」

 三年前、彼の前から姿を消したのは、これ以上側にはいられないと思ったからだった。“メアリー・ブラッド”の目撃者になってしまった彼の側に自分がいれば、いつかボスに見つかってしまう。それは避けなければ。その思いだけで、姿を消した。

 けれど、それでもやはり彼に会いたくて、マリーとしてでなくていいから、側にいたくて、別人として彼のもとに戻って来た。彼は、泣き方ひとつで見破ってしまったけれど。バレてしまった以上、本当は側にいるのは彼を危険にさらしてしまうかもしれないけれど。

 ──それでも、側にいたくて。自分の罪を隠し続けたままでも……。

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