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Black Cat 3

 アークライトに三つの事件現場を連れ回されて、警視庁ヤードに戻ってきたロイは、今度は事件に関する写真を見せられていた。事件解決の糸口が見つからず、アークライトに泣きつかれたのだった。医師の立場から、何か気が付くことはないか、と。

「こういうのは、ルーファに頼めばいいでしょうに」

 共通の知り合いの名を挙げると、アークライトの表情が苦くなる。ロイにとっては友人だが、アークライトにとっては、ある意味で天敵でもある相手である。

「うっかり頼んだりしたら、どんな死神を連れてこられるか、わかったものじゃない」

 “死を運ぶ伯爵”。それが、の人物の呼び名だった。その異名ゆえにアークライトは顔を会わせることが多く、出来ればあいつには会いたくないというのが本音だ。

「ところで、医院のほうは大丈夫か?」

 朝から連れ回しておいて、今さらである。話題を変える意図だったのだろうが。

「今日はメアリーに留守番してもらっています」

 いってらっしゃい、と送り出された時のことを思い出す。なぜか、あの青い瞳で見つめられると、頭を撫でてやりたくなる。自分をひたと見つめるその瞳が、かつて膝の上に乗ってきたり、ベッドに潜り込んできたりと無邪気に自分を慕ってきた少女を思い出させるのだ。名前も、髪の色も、年齢も違うというのに。あの青い瞳だけが同じで。

「──思っていたよりも、僕はマリーを気に掛けていたのかもしれない」

 心の中でロイはひとりごちた。気まぐれにやってきた少女が、黒猫のルゥを残して姿を消して早三年。どこで何をしているのか。……僕は、無意識に彼女はきっと帰ってくると自惚れていたのかもしれない。だから、メアリーがマリーに見えるのだ。そんなこと、あるはずがないのに。名前は偽れても、髪はかつらでごまかせても、年齢は変わらない。あの時マリーは十かそこら。現在は十三、四歳のはず。だが、メアリーは十七だ。

「…これは?」

 ふと、手にしていた写真に視線を落としてロイは呟いた。

「ああ、それか。腕に残っていた痕だ。三人目の被害者の」

 手首の少し上のほうに、うっ血したような紋様が見える。何か硬いものがぶつかった時にあざになって残ったのだろうか。どこかで見たような紋様だとは思ったが、はっきりとは思い出せなかった。

 それから、ロイは現場や写真を見ての感想を述べ、何か気付いたことがあったら知らせるとアークライトに約束してヤードを出た。



 医院に戻ると、そこには留守番をしているはずのメアリーがおらず、ロイはメアリーの名を呼びながら医院の奥へ入っていった。

 すると、ルゥが駆け寄って来た。その口に何かをくわえ、必死にロイに差し出している。しゃがんでそれを受け取ると、メアリーの残したメモだった。

「準男爵夫人に呼ばれたので、先日のお屋敷へ行って参ります」

 それを見た瞬間、ロイは飛び出した。準男爵夫人は実家へ戻っている。その旨の手紙が今朝届いたばかりだ。その準男爵夫人が呼び出すなどあり得ない。少なくとも実家へ呼ぶはずだ。その矛盾に気付くと、嫌な予感しかしない。

 準男爵の屋敷へは、馬車を使わなければならない。だが、ロイは馬も馬車も持っていない。瞬時に導き出した、最も速い方法を採るべく行動を起こす。辻馬車を捕まえ、「ヴァンシタート伯爵邸まで」と告げる。御者は驚いていたが、急いで向かってくれた。準男爵の屋敷の何倍も立派な邸宅の前で降りると、門番に名乗って取り次ぎを頼む。すぐに通されて、ロイはその足でうまやへ向かう。

「ロイ、どうした?」

 門番からの連絡が行ったのだろう、邸の主が自らやってきた。

「すまない、ルーファ。駿馬を一頭貸してくれないか」

「それは構わないが、何かあったのか?」

 手短に事情を話すと、とびきりの駿馬を貸してくれた。礼を言って馬にまたがる。馬を駆ってロイは準男爵の屋敷へ急ぐ。馬車よりも馬が速く、駿馬ならなおさらだ。

 準男爵の屋敷に着くと、玄関先まで乗り付けて、近くの木に馬を繋ぎ、案内を待たずに屋敷へ入る。そこで鉢合わせた使用人に準男爵の居場所を吐かせ、その部屋に案内させる。

 ロイがそのドアを乱暴に開けた時、準男爵の手はメアリーの襟もとのボタンを引きちぎったところだった。白い肌が晒され、恐怖に震えるメアリーの目には涙が浮かんでいる。ロイは無言で近付き、準男爵を殴り飛ばした。準男爵が転がっている間にメアリーを助け起こし、自分の上着を脱いでかけてやる。

「…ロイ…」

 呆然としたように、メアリーが名を呼んだ。

「大丈夫かい?」

 ロイの問いかけに、メアリーは頷く。軽傷は負っているようだが、大事には至らなかったようだ。「怪我は?」と問うと首を左右に振ったが、ロイが腕をとると顔をしかめた。袖を少しまくると、紋様状の痣ができている。その紋様に、ロイは何かを思い出した。

「……貴様、何をする!?」

 ステッキを支えにして、ようやく起き上がった準男爵が喚いたが、ロイは冷たい視線を投げかける。普段はハシバミ色の瞳が、怒りでエメラルドに光っていた。

「僕に殴り倒される覚えがおありでしょう?」

 準男爵は顔を真っ赤にしてステッキを振り上げたが、殴り飛ばされた時に机に背中をぶつけたため、痛みに顔をしかめた。

 そこへ、慌てた様子で使用人がやってきて叫んだ。

「旦那様、警察が来ました!」

 準男爵は飛び上るほど驚いたが、体に痛みがあるため物理的には動いていない。

 数人の警官が入ってきて、準男爵を引き立てる。何か喚き散らす準男爵を警官たちが引き摺って行く。ドアの外に目を向けると、アークライトがロイに片目をつぶって見せた。静かにドアが閉まり、部屋にはロイとメアリーだけが残された。

「メアリー、大丈夫かい? 怖い思いをさせて、ごめん」

 こうなった原因の一端は自分にあると自覚しているロイは頭を下げる。

「……ロイ、…ロイ…」

 うわ言のように名を呼んで、メアリーはロイに触れる。ロイが手を握り返してやると、安心したのかポロポロと涙を零す。

 青いサファイアからとめどなく溢れる大粒の涙は、彼女の頬を濡らしていく。

「───マリー?」

 思わず、その名を口にしていた。ロイの前でたった一度だけ泣いたことのある少女は、やはり同じようにサファイアの瞳から大粒の涙を落とした。

 一瞬目をみはった少女は、さらに涙を零す。

「…ロイ、ギュッてして」

 その言葉は、小さな少女が甘えるそれで、ロイは優しく抱き締めた。三年前、飛び込んできた小さな温もり。抱きついて胸にすがる少女が、あの時の幼い少女だとロイは確信した。あの時よりも背丈が伸びて少女らしくなったけれど、帰って来た、とロイは思った。

「…怖かった」

「うん、ごめん」

 ロイは少し腕に力を込め、背中を撫でてやる。

「助けに来てくれて、ありがとう」

 安心させるように、髪を撫でる。小さく震えていた体は、ロイの温もりに安心するかのように次第に震えが消えた。



 マリーが落ち着くのを待って、ロイは部屋を出てリビングへ向かった。マリーの肩を支えてやりながら、ゆっくりと歩く。

 リビングには、二人の男が待っていた。アークライトと、もう一人。身なりの良い若い男だ。立派な仕立ての服と、男の威風堂々とした様子から、貴族だと一目でわかる。

「ルーファ、ありがとう」

 ロイは微笑んで男に近付いた。ロイが彼の邸を出てすぐに、彼がアークライトに連絡してくれたからこそ、こんなに早く警察が来たのだろう。そして彼自身も、心配して駆け付けてくれたということか。

 男の目がマリーに向き、「大丈夫か?」と尋ねられる。「はい、お気遣いありがとうございます」と小さい声ながらもマリーは答えた。アークライトにも心配され、マリーは感謝を述べた。

「家まで送る」

 男が言って、ソファから立ち上がる。歩き出したのをアークライトが追う。ロイもマリーを促してそれに続いた。屋敷の前には立派な四頭立ての馬車が停まっていた。ロイが乗って来た馬は既に回収している旨を告げて、男は馬車へ乗るよう促す。ロイとマリーが乗り、向かいに男とアークライトが乗る。

「こちらは、ルーファス・アズラエル・ヴァンシタート伯爵」

 ロイがマリーに紹介すると、ルーファスは、自分はロイの友人だと言った。実はロイとルーファスは姻戚関係にある。

「しかし、何だって準男爵はこんなことを?」

 ロイに寄りかかるように座っているマリーを気遣いつつも、アークライトは尋ねた。

「おそらく、僕が夫人に梅毒の感染源は準男爵だと言ったからでしょうね。夫人はそれを理由に準男爵に離婚を迫っています。それで逆恨みしたんでしょう」

 夫人のほうの事情は、今朝貰った手紙で知っていた。

「その逆恨みのとばっちりを受けたんですよ、彼女は」

 マリーの肩を抱くロイの手に力が籠る。

「そういえば、警部」

 ロイはマリーに断ってから、彼女の袖口をまくる。そこに現れた痣をアークライトに見せる。

「この痣、さっき見た写真によく似ていませんか?」

「ああ、そうだな。これは?」

 アークライトに訊かれ、マリーは準男爵のステッキを防ごうとしてついたものだと説明した。

「準男爵のステッキは、杖代わりになるように特注品のはずです。紋様をよく調べてみてください。亡くなった女性の体に残っていたものと一致するか」

「……そういえば、準男爵は、何か変なことを言っていたわ」

 ロイの言葉にマリーは準男爵の独り言を思い出した。

「“あの女のように黙らせてやる”って言って私をステッキで殴ろうとしたの。それに…」

 ついでに準男爵と彼に梅毒をうつしたとおぼしき女性の会話も暴露する。

「…警部、三人目の被害者は、梅毒患者でしたね」

 もしかして、とアークライトは呟く。そして、ちょっと停めてくれ、と御者に頼み、慌てて馬車を降りる。ヤードに連行された準男爵の取り調べにでも行くつもりだろう。


 ルーファスに馬車で家まで送ってもらい、礼を言って別れたあと、ロイはマリーを自宅のリビングに招いた。マリーをソファに座らせて、温かいココアを与える。彼女がそれを飲んで落ち着いた頃合いを見計らって、ロイは尋ねる。

「大丈夫かい?」

 詳しい事情は、どのみち後でアークライトに話さなければならないだろうから、今は聞くつもりはなかった。だが、彼女の無事だけは確認しておかねばならない。マリーはこくりと頷き、「怖かったけど、大丈夫。ロイが来てくれたから」と答えた。ロイは手を伸ばしてマリーの髪を撫でる。それを黒猫のルゥのようにうっとりと受け入れて、マリーは目を閉じる。

 再び目を開けたマリーは、今度は自分がロイに尋ねた。

「…どうして、私のこと、わかったの?」

 名前も姿も変えて、──名前はさほど変わったとは言えないけれど──、自ら名乗ることもなく過ごしてきたのに。

「泣き方」

 ロイの答えに、マリーは目をしばたたく。

「泣き方がマリーと一緒だった」

 そんな。そんな、ことで、わかってしまうなんて…。ロイに自分のことを隠しながら、心のどこかで気付いてほしいと思っていたマリーは、そんな些細なことで自分を見つけてしまうロイには敵わないと思う。

「…本名は? どれが本当の名前なの?」

 マリーがロイに名乗った名前は三つ。マリー、メアリー・ブラッド、そして今の名前メアリー・ブラック。

「マリエ」

 そのどれとも違う名前を答える。

「マリーは、マリエの愛称。母がずっと私をそう呼んでいたわ」

「じゃあ、メアリー・ブラッドは?」

 それは、彼女がロイの前から姿を消す時に名乗ったものだ。

「それは、私個人の名前じゃなくて、あの時所属していた組織の通り名だったの。ボスが集めた、私と同じくらいの年の子が何人もいた、暗殺集団」

 法では裁けない罪人や、悪事を巧妙に隠している人物を暗殺する組織だった。

「私は当時、十四歳だったんだけど、見た目が幼いから、仕事は免除されてた。周りの子も、私が仕事をしなくてもいいようにしてくれていたし。それで、ロイに目撃されたのが初仕事だったの」

 その初仕事をロイに目撃されたことで、マリーは『仕事』を失敗している。つまり、彼女は“メアリー・ブラッド”として人を殺していないことになる。それにロイは安堵した。

「あのあと、組織を抜けて、田舎町の医院で働く看護婦に拾われたの」

 その看護婦を師匠として看護婦修業をしたマリーは、その看護婦がエマの友人だったという偶然から、再びロイの元へ戻ることになった。

「メアリー・ブラックという名前は、その師匠が付けてくれたの。当時、私は名乗る名前を持っていなかったから」

 名前の由来はひどく単純なものだ。メアリーはよくある名前で、呼びやすいからと安易に付けられた。ブラックはマリーの髪が黒かったからだ。

 その名は、マリーが逃げてきた組織の通り名に似ていたが、組織を逃げた者がそんな名を使うとは思われないだろうし、忘れてはいけない過去でもあるのだから、とマリーはその名を受け入れた。

「髪の色は、黒が本当?」

「うん。母も黒かったの。でも、目立つといけないからって、母は私に金髪のかつらをさせていたわ」

「年齢は、今、十七なんだよね?」

 これが最も気になることだった。ロイは年齢を理由にメアリーとマリーが同一人物ではないかという疑念を否定してきたのだから。

「ええ、そうよ。ロイに最初に会った時は十四歳。でも、他の子に比べて体が小さかったから、ずっと子ども扱いされていたわ」

 今でも小柄だが、女性らしい体型になったことで、年齢をあまり低く見られることはなくなった。

「どうして、ずっと黙ってたの?」

「…だって、私は組織を逃げ出したのよ。本当のことを言ったら、ロイに迷惑がかかるわ」

 組織を逃げ出したということと、以前と違う名を名乗っていることに関連性があるのだろうとは簡単に想像が付く。だが、自分には隠さなくてもいいのに、とロイは思う。

「それに、暗殺集団にいたなんて知ったら、ロイは私を嫌いになると思って……」

「君を嫌ったりしないよ。それに、君は『仕事』をしていないんだろう?」

 マリーは眉尻を下げ、少し困ったような、泣きそうな顔で頷いた。ロイは、黒猫の毛皮のように艶やかなマリーの黒い髪を撫で、優しい笑みを浮かべる。

「お帰り、マリー」

 やはりこの呼び方が、一番しっくりくるように思える。

「…ただいま、ロイ。会いたかった…!」

 ロイに抱きついて、その腕の中で「ああ、帰って来た」とマリーは思う。この温もりこそが、自分が帰るべき場所だと。



 その日の夕方、アークライトが訪ねてきた。マリーに話を聞くためだ。その時には既にマリーは落ち着いていて、今日のことを詳細に説明した。

「あの腕の痣、やはり準男爵のステッキの紋様だった」

 アークライトは、準男爵が女性を殺したことを認めたと報告した。ただし、認めたのは三人目の被害者一件のみ。他の二件は否認しているという。準男爵は、自分に梅毒をうつした売春婦を恨んでいた。それで、一夜限りの関係を結んだ相手を探し出し、相手を責めたところ、言い返されて腹が立っての犯行だという。遺体をあんな風に刺したのは、以前の二件の連続殺人に似せ、その連続殺人のうちの一件と警察に思わせるためだ。

「お前の見立てどおり、二件と今回は別件らしい」

 現場と写真を見てのロイの感想は、前の二件と最後の一件では、犯人が異なるだろう、というものだった。それから、黒猫の毛については、何かの意図でも犯人の落ち度でもなく、単なる偶然だろうとロイは言った。辺りを黒猫が何匹か歩いていたから、現場をたまたま通っただけだろうと。

「そっちについては、振り出しに戻っちまったよ」

 アークライトは溜息をついて、肩をすくめた。マリーの足元にいたルゥが、ちらちとアークライトに目を遣って、せいぜい頑張れよとでも言うように「なーん」と鳴いた。

※梅毒は、梅毒トレポネーマの感染による、いわゆる性感染症です。物語上では、夫人の症状は第1期(感染後3カ月まで)、準男爵は第2期(感染後3カ月~3年まで)くらいのつもりで書いています。症状については、医学的知識がない作者は、Wikipediaなどのウェブ上の記述を参考にしています。梅毒菌の発見や、特効薬であるペニシリンなどの抗生物質の発見は20世紀になってからのため、物語の舞台である19世紀末には、まだ病気の解明はされていません。そんな訳で、治療については文中には描いていません。(当時の治療方法は、水銀療法とかそのくらいだったかと思われます。)ロイは名医なはずなので、ペニシリンはなくとも、何か良い治療法を知っていたと思われます。

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