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Black Maiden 2

 ──ねえ、キティ。君は僕から逃げたりしないよね?

 そう問われた時、自分の表情には恐怖が広がっていただろうと思う。彼は、自分の側に置く者が離れて行くことを嫌った。さらに正確に言えば、自らの意思で離れて行こうとする者を許さなかった。彼のもとから逃げ出そうとした少女の末路を、直接ではないがマリーは聞いていた。

 優しい笑みを浮かべて自分を見つめる男の瞳が、恐ろしかった。

 おとうさまから救ってくれた男には感謝していた。その後、少女たちにマリーの面倒を見るよう言いつけ、衣食住を確保してくれたことに恩義も感じていた。

 だが、時が経つにつれ、男の瞳に宿る異常な光に気が付いた。彼がマリーを見つめる時、その瞳には、あの時の義父おとうさまのような支配欲と劣情が混じったものが浮かぶ。

 気のせいだと思おうとした。その証拠に、彼はマリーには夜伽を求めないではないか。他の少女たちのことは、『仕事』の褒美や失敗の罰として部屋に呼ぶのに。

 マリーは実年齢より幼く見られていたし、他の少女たちも幼いマリーに『仕事』は酷だと、マリーには『仕事』を回さないようにしていた。そして、さらに周りの少女たちは、マリーが時折抜け出していることも黙っていてくれた。

 けれど、度々抜け出してはロイのもとに通い、一晩中帰らない日が続くと、とうとうボスに外出がばれてしまった。

 その時、彼は優しい笑みを貼り付けたまま言ったのだ。

「ねえ、キティ。君は僕から逃げたりしないよね?」

 その眼は、マリーの心のよりどころが、ボスではなく他の男にあることを知っているようだった。答えられないマリーに、男は『仕事』を与えた。

 その『仕事』を終えれば、マリーは一人前になり、今までのように組織の中で半人前扱いでは済まされなくなる。同時に、彼女に求められることも増えるということだ。マリーをあの場面から救い出した本人であるボスは、マリーにそういったことを求めてこなかったのだが、この時の彼の目は異常なほどに獣めいて見えた。

 マリーの初仕事は、ロイに目撃されたことで失敗に終わり、ボスの制裁を恐れたマリーは自ら目撃者を消しに行くと言って組織を出た。──そうして、マリーは二度と組織には戻らなかった。


 結局ボスは、すべてをロイに奪われた形になる。マリーの心も。きっと体も、マリーが触れることを許すのは、ロイだけだ。そのことを、ボスもロイも知らないが。


 あの男のダークブラウンの瞳に怯えて、声にならない悲鳴を上げてマリーは目を開けた。そうして、すぐ側にある温もりにすがりつくように手を伸ばして頬をすりよせた。

 少し迷惑そうに身じろぎをして、ルゥは黒い長い尻尾でマリーの腕を軽く叩いた。どうやらそれはマリーを宥めているようだった。自分のベッドで丸くなる黒猫のルゥを撫で、マリーは小さく溜息をこぼす。窓からは薄い朝の光が差し、もうすぐ起床時間が迫っていることを教えた。

 そういえば、ロイに出会ったきっかけはルゥだった。ボスがマリーを近くに置こうとするのが恐ろしくて、小間使いのようなことをしていたのをいいことに、買い物のついでにマリーは街を彷徨うことが多かった。そこで、傷ついた黒い仔猫を見つけた。最初は、戻らなくてもいい口実にするために仔猫を助けようと思った。そして見つけた医院に掛け込んだ。そこにいた医師は、マリーの望みを叶えてくれた。つまり、仔猫を助け、戻りたくないマリーが仔猫と一緒にいることを望むと、困惑しながらも医院に留まることを許してくれた。

 猫が寝かされたソファで、猫の隣を陣取って猫の様子を見ていたマリーは、目覚めた時、ベッドにいた。そこは医院の診察用のベッドのようで、医師はマリーがいたソファで舟を漕いでいたから、彼が自分をベッドに運んでくれたのだろうと容易に想像がついた。そして、そのことに驚いた。自分が、見知らぬ人の前で寝てしまえるなんて。そして、触れられても気付かないなんて。マリーは一緒に寝起きしている少女たちが寝返りを打っただけで目を覚ましてしまうほど眠りが浅く、側に人にいられることを恐れていた。それは、あの夜の義父を思い出すからにほかならなかった。

 それが、見知らぬ男性のすぐ側で眠り、あまつさえ彼に触れられても目覚めないなんて。最初から、マリーはこの医師に警戒心を抱いていなかった。彼がマリーに掛ける言葉は純粋に彼女を心配してのものだったし、マリーを見つめる瞳は優しくて穏やかだった。

 ボスの、見せかけの優しい笑みとは違う。朗らかで温かな人柄がにじみ出るような、優しく澄んだヘイゼルの瞳がマリーを安心させた。何の警戒も要らない安心なひと。

 マリーがロイに懐くのに時間は掛からなかった。何度か会ううちに彼はマリーを簡単に懐に入れてしまい、その安心感にマリーは虜になった。彼に会いたくて夜を越え、彼に触れたくて何かと彼にひっつき、彼の側で眠りたくてベッドに潜り込んだ。ロイは簡単にそれを許し、そのことが一層マリーをロイに夢中にさせた。

 マリーが安心して熟睡できるのは、今でもロイの側にいる時だけだ。

 実は、ハートネット邸から帰って来たその日、あまりの夢見の悪さにマリーはロイのベッドに潜り込んだ。だが、翌朝、自分の夜着を握って眠りこけるマリーを見つけたロイに「マリー!」と焦りと呆れを含んだ声で起こされ、朝食抜きで小一時間ほど説教をされた。「君は自分が年頃の娘だっていう自覚があるのか」「君はレディなんだから、昔みたいに簡単に僕の部屋に入ってはだめだ」「だいたい君は、僕が男だってことを忘れてないか」と延々オコゴトをもらい、さすがにマリーは反省し、ルゥを寝室に連れ込むことで我慢している。

 もともとリビングの片隅に寝床を持っていたルゥだが、マリーの気持ちを察してか、今は寝床をマリーの寝台に移している。

 だが、ロイが甘いのは、マリーを叱りつつも根本的には怒っていないところだ。

 それゆえ、眠る前のおまじないは、変わらずに行われている。あの舞踏会の日のようにロイが額にキスしてくれることはなかったけれど、そんなことを毎晩されたらとても眠れないので、マリーはそっと一瞬抱きしめてもらうだけで満足することにしていた。



「マリー!」

 伯爵邸に着くなり、リリーローズに抱きつかれてマリーは焦った。だが、彼女が自分を心配してくれていることはわかっているので素直に抱きしめられた。

 ハートネット男爵邸で起こった事件をルーファス経由で知ったリリーローズは、マリーがマナーの講義にやってくる時に危険な目に遭わないようにと、護衛付きで迎えの馬車まで寄越した。さすがに医院の前に伯爵家の馬車をつけられては悪目立ちするので、ロイがマリーを大通りまで送り、そこへウェセスター伯爵家の馬車が迎えに来ることで落ち着いた。

 ロイは、ルーファスには表向きの事情とともに真相も話している。というのも、あのままメルルをハートネット邸に置いておくのは彼女のためにも良くないだろうと両親と相談した結果、紹介状を持たせて新しい就職先を与えることにしたのだが、それには事情を知った上で引き受けてくれる人が必要だったので、ルーファスの人脈を頼ったのだ。ルーファスは領地の田舎で隠居生活を送る元男爵夫妻の邸を紹介した。寛容で穏やかな老夫妻のもとならば、メルルも穏やかに暮らせるだろうと。ロンドンを離れ、ハートネット男爵の領地とも遠いその地ならば、ロイやマリーのことでメルルの心が乱されることも少ない。そして、ロンドンから遠く離れれば、あの男に口封じされる可能性も少ない。あの男の様子から口封じなどをする風ではなかったが、一応ロイは念を入れた。

 ルーファスは、すべてではないが、リリーローズにも大筋は話してある。ロイから聞いたマリーの“ボス”であったという男が、マリーを狙っているのだとしたら、一緒にいることがあるリリーローズにも事情を知らせておいたほうがいい。リリーローズの身を守るためにも、そして何より、マリーを守るためにも。

 マナーの講義を終えたあと、恒例の二人のお茶会をしながら、リリーローズはマリーからハートネット邸での話を聞いた。舞踏会の話や、ロイがマリーの額にキスをしたという話では、目をキラキラと輝かせて年頃の少女らしく身を乗り出したが、マリーがボスと会ったという話を聞くと、神妙な顔をした。

「ねえ、気晴らしにお買い物にでも行かない?」

 それはマリーのための誘いではあったが、マリーは頷くべきか逡巡する。

「大丈夫、護衛も連れて行くわ。この間、ルーファと一緒に出かけた時に、素敵なお店を見つけたのよ。でも、場所があんまりよくなくて、お父さまにはいい顔をされないんだけど、護衛付きなら許してくれると思うの」

 さりげなく自分のためなのだとアピールしてくれるリリーローズの気遣いに、マリーは「それじゃあ」と頷いた。自分にこんな返答を許してくれるこの伯爵令嬢にマリーは感謝したが、「友達なんだから、いちいち感謝とかしなくていいのよ」とリリーローズは言いそうなので言葉にはしないでおく。



 連れて行かれた店は、雑貨屋とでも言うのだろうか。とても品のいいお洒落な商品を取りそろえていた。貴族向けというよりは、富裕層向けなのだろう。だから、店のある場所は、貴族の邸宅が並ぶ地区ではなく、商家の多い街だった。

 マリーにはとても手がない品物から、頑張れば手が届きそうな品物まであった。ロイからのお給料は、たぶん他の医院に比べるとかなりいい。その上ロイはマリーの衣食住まで面倒を見てしまうものだから、マリーは有り難くも申し訳なく思ってしまう。

 ロイへのプレゼントでも買おうかとマリーは思案する。マリーはロイに世話になってばかりで、ロイはマリーに与えてばかりなのだ。この店ならば、ロイに贈ってもみすぼらしくない品物が見つかるだろう。

 リリーローズに相談すると、彼女はプレゼントを贈ることに賛成してくれた。リリーローズと一緒に、マリーは慎重にロイへのプレゼントを選んだ。

 二人が楽しくああでもない、こうでもないと相談し合って少女らしい買い物の仕方をしていると、外からいくつかの悲鳴が聞こえた。普通の令嬢ならば、店を出るようなことはしないのだが、そこですぐさま外に出て様子を見るのが、この二人の少女だった。マリーはともかく、リリーローズも、普通の深窓の令嬢などではないのである。

 悲鳴は店の入り口がある表通りではなく、裏通りからだった。二人は令嬢らしからぬ素早さで裏通りに回る。そこには、狭い通りに血まみれの女性が倒れており、幾人かの通行人が彼女を遠巻きにしている。通行人の悲鳴につられて出てきた人たちも、倒れた女性に近付こうとはしない。

 マリーは女性に駆け寄ると傍らに膝を付き、女性の状態を確認する。少々浅黒い肌は、彼女が純粋なイギリス人ではないことを示していた。顔は蒼白で目をつぶっているが、エキゾチックな美貌はマリーに既知の人物を思い出させた。マリーの呼びかけにわずかに眉をしかめて反応することから、意識はあるようだ。

 出血は腕からだった。衣服はボロボロで、あちこちに擦り傷や殴打の痕も見られるが、大きな怪我は腕の外傷だけのようだ。マリーはスカートの下のペチコートを裂き、包帯代わりにして女性の止血に取り掛かる。

 その時、女性がうっすらと目を開けた。その琥珀色がマリーを捕え、マリーと女性は互いに目をみはる。

「キティ…、だめよ、ここにいては。逃げて、ボスが…」

 一瞬、女性はマリーの手を握ったが、するりと手から力が抜け、意識を失った。

「警察はまだなの? 誰かロイ先生を呼びに行って」

 マリーが女性の手当てをしている間、リリーローズはぼーっと突っ立っていたわけではない。護衛の男たちに医師と警察を呼ぶように指示を出していた。

 お嬢様の護衛であるのに側を離れるのは、と渋る護衛をリリーローズが叱りつけようとした時、「その必要はない」と落ち着いた声が聞こえた。

 振り向いたリリーローズは、そこに見知った顔を見つけた。

「アークライト警部!」

 隣にはロイもいて、リリーローズは安堵した。リリーローズ達が倒れた女性のもとに来る前に、誰かが警察に通報していたようだった。

 ロイはリリーローズに一つ頷いて、懸命に女性の手当てにあたっているマリーに近付く。声を掛けられて顔を上げたマリーはロイの登場に驚いたようだが、アークライトを見つけて状況を理解したようだ。

「容体は?」

「さっきまでは意識があったんだけど、出血がひどくて、今は気を失ってるわ」

 マリーはロイに女性の状態と自分の処置を伝えながら場所を譲る。ロイはマリーから治療の続きを引き取り、マリーはロイの助手に徹する。

 突如現れた医師と、外見は良家の令嬢にしか見えない看護婦の、手際のよい手当てに、周りの人たちは呆然としながらも安堵した。

「ロイが一緒にいる時に報せを受けるなんて、運がいい」

 アークライトは、リリーローズにそう言って、自分たちがすぐに現れた種明かしをした。実はこの近くで以前に起こった事件の捜査にロイの協力を頼み、彼を連れて来ていたのだった。そこに、警察と医師を呼ぶ人があり、すぐさま駆けつけたのだ。

「この辺りで起こった事件というのは?」

 事件の内容によってはルーファスに報告しなくてはと思いながらリリーローズは尋ねる。

「ブラックキャットだ」

 アークライトの意外な答えにリリーローズは首を傾げる。

「え、でもあれは、犯人が捕まったのでは…」

「捕まったのは、模倣犯のほうだ」

 以前に起きた、連続婦女殺害事件は、三件のうち、最後の一件だけ犯人が異なり、“ブラックキャット”という通称の殺人犯の犯行に偽装したものだった。そして、二件については、依然として犯人は捕まっていない。

 そして、またしても“ブラックキャット”に類似する事件が発生したのだ。もしかしたら、この怪我をした女性も、事件に何か関係があるかもしれない。そう思いながら、アークライトはロイとマリーの治療を受ける女性を見つめた。

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