Black Maiden 1
「マリーに僕を殺せないなんてこと、わかってる」
暗殺者の目撃者となったロイを、組織の掟に従って殺しに行ったマリーに、ロイはいつもと同じ穏やかな口調で言った。
「だって、君は僕を好きなんだから。そうだろう?」
穏やかなロイのヘイゼルの瞳は、恐怖を欠片も宿していなかった。ロイの自分を見る目が、自分の正体を知っても変わらないことに安堵した。
「───ロイが好き」
初めて知る感情は、自分でもどうしたらいいのかわからないくらい扱いに困って、勝手に溢れる涙の理由もわからなかった。優しくロイが拭ってくれる手の温もりが心地よくて、ああそうかこの手に頼ればいいのかと安心した。
「…ロイ、ぎゅってして」
あれ以来、ロイがその願いを拒否したことはない。いつでもロイはマリーの望みどおりに優しく抱き締めてくれる。
それが、あの時のように、幼子を慰めるような、そんなものだって構わなかった。ロイが自分を拒否さえしなければ、それだけで安心できた。でも、あの時知った感情は、ロイと離れたあとも続いて、再会して側にいられる今ではより大きくなって、自分が向けるのと同じ種類の想いを、ロイにも返して欲しいと思ってしまう。
ロイがあまりにも簡単に側にいることを許すから、勘違いしていまいそうになる。そんな欲張りな望みを抱いてしまう。
もうあの時みたいな子どもじゃない。わかっているはずでしょ、身分が違うのだから。メルルだって身分の差を知っていたから、口を噤んでいたんじゃない。
でも、気持ちをもう今さら隠せるわけもない。
ロイが好きで、好きで、好きで───。もしかしたら、ロイがどこかの貴族の令嬢と、あるいは裕福な商家の娘と、結婚すると言ったら、自分もメルルのように嫉妬の虜になって狂ってしまうかもしれない。
そうなったら、きっとロイは悲しむだろう。悲しむロイの顔なんて、見たくない。
ふと、マリーは目を開けた。ベッドを覆う天蓋が見えて、ここがハートネット男爵家だとわかる。そうして、自分が幼い頃の夢を見ていたのだと気が付いた。ロイの前から姿を消す前に、最後に会った時のことだ。
「目が覚めた?」
フィリシアと彼女の母が心配そうにマリーを覗き込んでいた。マリーは大丈夫だと答え、視線だけを動かしてロイを探す。
「おじさまなら、メルルと話しをしているわ」
それを察したフィリシアが答えた。
睡眠薬を飲まされたマリーを、いつも以上の優しさと甘さで寝かしつけたロイが、目を覚ました時もずっと側にいてくれると期待していたマリーは少しがっかりする。
「マリー、ごめんなさい。怖い思いをさせて」
フィリシアはメルルの主として謝った。メルルの雇い主はハートネット男爵であり、監督は男爵夫人の管轄だが、貴族の娘らしい責任感でフィリシアは自分付きのメイドの不始末を詫びた。
表向きには、メルルはマリーを庭に案内したが途中ではぐれてしまい、一人になったマリーが庭に侵入した賊に襲われたことになっている。ロイはマリーの話や状況から、メルルがマリーに睡眠薬を飲ませたことを見抜き、眠ったマリーをメルルが庭に置き去りにしたのだと洞察したが、それを人前では言わなかったので、フィリシアもメルルの不注意のせいでマリーが泣くほど怖い思いをしたのだと思っている。
「あの後、メルルが死んでお詫びするって言い出して」
ロイがマリーを抱えて戻って来た時、メルルは駆け寄って涙ながらに詫びた。「申し訳ありません、メアリー様。申し訳ありません、ロイ様」と何度も頭を下げた。ロイがマリーを連れて部屋に戻った後、自分の命をもって償うと言うメルルを、周りが何とか抑えたのだった。
「それで私がおじさまに頼んだの。マリーのそばには私がいるから、おじさまはメルルと話しをしてほしいって」
ロイはマリーを心配して側を離れることをためらったが、フィリシアに請われて了承したのだった。
「おじさまも罪つくりよね」
フィリシアの言う意味は、ロイの大事なマリーを危険な目に遭わせたのはメルルだが、死のうとする彼女を思い留まるよう説得できるのはロイだけだということだ。メルルのロイに対する想いは、フィリシアも気付いていた。その叶わぬ想いが、それほど深刻に彼女を蝕んでいるとは、フィリシアには想像もつかなかったけれど。
フィリシアの言葉は、ある意味では真実だった。表向きにしろ、真相にしろ、──そこには過失か故意かという大きな違いはあるが──ロイが大事にし、ハートネット家が客人として遇した人間を危険に晒したことは、使用人として許されることではない。だが、その彼女を許せるのはロイだけで、今、彼女が耳を傾けられるのはロイの言葉だけなのだ。
メルルは同僚を監視に付けられ、使用人が部屋をもらっているフロアにある一室に閉じ込められていた。そこにロイが現れ、ドアの外で見張り役をしていた従僕は慌てた。主人一家が来るような場所ではないのだ。だが、ロイは、こんな時ばかり主人家族の一員であることを振りかざしてドアを開けさせた。そして、監視役のメイドを退室させ、メルルの向かいの席に座った。メルルは慌てて席を立つ。座るようロイは促したが、メイドであるメルルはそれを固辞した。
「とりあえず、どういうことなのか、話してくれるかい?」
話さずにいられるとは思っていなかったメルルは頷いた。
「申し訳ありません、ロイ様。私…どうかしていたのです。あんなことをするなんて…。実は、昨夜、私の部屋に一人の男が現れたのです」
アッシュブロンドとダークブラウンの眼をした男は、メルルと同室のメイドが部屋を出ている隙に、音もなく現れた。面識のない男だった。一瞬賊かと思ったが、柔和な笑顔がそうではないと思わせた。だが、それ以上に恐ろしい男だった。正確にメルルの心情を言い当て、彼女を巧妙に従わせたのだ。
「男は、私に紅茶を渡し、メアリー様にそれを飲ませて庭の奥の林に連れてくるようにと言いました」
その茶葉に、睡眠薬が入っているとは男は一言も言わなかった。だが、ただの紅茶ではないことはメルルにはわかっていた。それでも、男の口車に乗ってしまった。
「最初は拒否しましたが、男はこう言ったのです。男はメアリー様を欲しており、私は彼に従うだけで、自分の望みを叶えられる、と」
「君の望みとは?」
「……メアリー様をロイ様から引き離すことです」
ロイの問いに、観念したようにメルルは答えた。
「私は、使用人としてロイ様の幸せをずっと願ってまいりました。ですが、ロイ様のお隣に立つお方は、あの方ではなく、もっと高貴なお方をと思ってしまったのです」
メルルは嘘をついているわけではなかった。本当のことを言っていないだけで。メルルはロイの奥方は自分よりも身分の高い女性がなるものだと思っていた。それならば、諦めがつく。だが、マリーはメルルと同じ労働者階級だ。それではメルルの想いは行き場を失う。だからマリーはロイに相応しくないとメルルは決めつけた。
「…今では、どれほど罪深いことをしたのか、わかっております」
いつものメルルなら、使用人として、ロイに絶対の忠誠を誓う身として、決してロイの客人に手を出したりしなかっただろう。そんなことをすれば、この邸で働けなくなり、ロイにも会えなくなる。
「ですからロイ様、どうか、この命をもって償わせてください」
「ばかなことを言うものじゃないよ」
メルルが男にそそのかされた証拠などはどこにもなかったが、ロイはメルルの言葉を信用した。彼女が一人で実行したのだとしたら、あの男が現れたのはタイミングが良すぎる。
ロイはメルルの命で贖ってもらうつもりなど、毛頭なかった。メルルがマリーに対してしたことは、確かに許しがたいものだ。だが…
「君にあんなことをさせたのは、僕なんだろう?」
メルルは弾かれたように顔を上げ、激しく首を左右に振った。
「いいえ! いいえ、違います! 私が愚かだったのです」
「…僕が、気付いていないとでも思っているの」
ロイはメルルの気持ちに気付いていた。いや、正確に言うと、薄々感じてはいたが、はっきりと知ったのは今日だ。自分が酷い目に遭いながらメルルを庇おうとするマリーと、先程自分を見た時のメルルの瞳とをもって、パズルのピースが埋まっていくようにロイは理解した。メルルがあんなことをした理由──彼女は、マリーに嫉妬しているのだ。
「メルル、僕はマリーが大事だ。あ、いや、たぶん、君が思っているのとは少し違う意味だと思うんだけど、でも、彼女に何かあれば君を許せないくらい、大事に思っている」
「…はい、ですから私を、どうぞ罰してくださいませ」
ロイの態度や彼女へ向ける眼差しを見れば、そんなことはメルルにはすぐにわかった。
「君のしたことは、使用人として、罰されるべきことだ。だけど、それは、僕ではなくて男爵夫人の裁量で行われることだ」
メイドの管理監督は邸の女主人の管轄であり、ハートネット男爵邸ではロイの母の役割だ。そして、今回の過失は──庭ではぐれたというだけならば──、ハートネット男爵邸では命を懸けるほどのものではない。使用人一人の命など高価なペットの毛ほども大事にされないこともあるが、ハートネット男爵邸では使用人は比較的厚遇されていた。メルルの断罪を男爵夫人に委ねるということは、つまり、ロイはメルルを許すという意味になる。
「僕は、君に死なれるのは嫌なんだ」
メルルはロイの顔を見て、泣きそうになる。
「僕は人の命を救いたくて医者になったんだ。だから、死ぬなんて二度と言わないでくれ」
ロイが医者になった理由はそれだけではなかったが、今ここでそれを話す必要はない。ただ、こう言えばメルルが命を投げ出すことはないとロイは確信していた。ロイは、医者だからという理由だけでメルルを救おうとしているのではない。メルルが何も言わないから、あえて言及はしなかったが、ロイ自身のメルルに対する情もあるし、マリーが彼女を庇おうとしたことも理由の一つだった。
果たして、メルルは素直に頷き、「申し訳ありませんでした」と涙をこぼした。
ロイがマリーの部屋に戻ると、マリーはベッドに体を起してフィリシアたちと談笑していた。ロイの姿を認めると今にもベッドを降りそうになるので、ロイは手で制する。
「マリー、もういいのかい?」
ロイはベッドサイドに歩み寄り顔色を見た。
「ええ、もう大丈夫よ」
そう答えるマリーの顔色はよく、もう体調は心配ないようだった。ロイが頷き、マリーの体調に太鼓判を押したことで安心したのか、フィリシアたちは退室していった。
「ねえ、ロイ、少し外の風に当たりたいわ」
庭に出たいということを意味するマリーの言葉にロイは少し迷う。怖い思いをした場所にロイは彼女を連れて行きたくなかったのだ。だが、マリーがそう言い出したのには理由があり、それはきっと自分に何かを話したいのだとロイは理解した。この邸にはいたるところに使用人がおり、もちろん現在マリーの部屋にもメイドが控えている。彼らに聞かれたくない話──あの男のことなのだろうとロイは推測し、マリーの希望を聞き入れた。
メイドたちに手伝ってもらって着替えを済ませたマリーは、ロイと一緒にゆっくりと庭を歩いていた。供の者はロイが断った。その代わり、ロイははぐれないようにとマリーの手を取った。
「……私、ロイに言ってなかったことがあるの」
しばらくして、意を決したようにマリーが口を開いた。
「ヘンダーソン伯爵邸で会ったジャック・ブラウンは、私がいた組織のボスだったの」
やはり知り合いだったのか、と思ったが、ロイは頷くに留めた。
「組織にいた頃は、“キティ”と呼ばれていて本名は言ってなかったし、金髪だったんだけど、ボスは私に気付いたみたい」
組織を抜けたあと、あの組織や一緒にいた少女たちがどうなったのか、マリーは知らなかった。男の現在の職業も、本当なのかどうか怪しい。
「私はボスに黙って組織から逃げ出したから、きっと私を許せないのだわ」
「それで、君を連れ戻そうとしているということ?」
メルルの話では、男はマリーを欲していると話したという。マリーを支配下に置きたいということなのだろう。
「……たぶん、そういうことだと思う」
組織から抜け出す時、逃亡を手伝ってくれた少女に言われた。「捕まってはだめよ、ボスはあなたが欲しいんだから」と。あの時はその意味を考えるのを拒絶したが、今なら考えずともわかる。あの男は、「自分のモノ」としてマリーを『欲しい』のだ。
ゾクリ、と頬に触れた男の手の感触を思い出してマリーは身震いをした。
ロイは足を止め、手を繋いでいないほうの手でマリーの肩に触れた。温かな手は、彼女の震えを消すように、優しく肩をさする。
「ほら、マリー、見てごらん」
黙り込んでしまったマリーの気を逸らすためにロイは明るい声を出す。ロイに促されて見ると、白い百合がいくつも風に揺れて、甘い芳香をマリーに運んできた。
「父の領地には百合の群生する谷があるんだ。とても綺麗だよ。いつかマリーにも見せてあげたいな」
ロイが言うと、顔を上げて百合の美しさに見とれていたはずのマリーは、無言のまま俯いてしまった。「マリー?」不審に思ってロイが覗き込むと、マリーの目は小さな湖をたたえ、そのサファイアの瞳がロイを睨みつけた。
「…何か、怒ってる?」
思わぬマリーの反応にロイは戸惑う。
「……ロイは、全然わかってない」
口を開いた拍子に、マリーの目からはぽろぽろと大粒の真珠が転がった。
「私がロイの言葉に、どれほど幸せになって、どれほど不安になるか、わからないでしょ」
ロイはただ、百合に感動するマリーを喜ばせようと、おそらく無意識に、特別な意図はなく、言ったのだろう。けれど、マリーにしてみれば、その“いつか”まで側にいることを許されているようで、泣きたいほど幸福な気持ちになる。と同時に、側にいられなくなる恐怖におののく。
ボスがああしてマリーの前に現れた以上、あの男は邪魔となればロイを消すことに躊躇しないだろう。ロイを守るためには、ロイの側を離れなくてはならない。
ロイがあまりに容易く側にいることを許すから、マリーは離れがたくなる。
「ロイ、ギュッてして」
そう言う前に、マリーはロイの腕に包まれていた。背の高いロイの胸にすっぽりと包み込まれてしまうマリーは、この上ない安心感を得て、ぎゅっとロイにしがみついた。