Black Bird 3
翌日、まだ喉の腫れは残るものの、すっかり元気になったフィリシアは、祖母に呼びつけられ、マリーと一緒にお小言を頂戴する羽目になった。ただ、祖母は言葉ほどには怒っておらず、しつけやけじめの意味合いが強いのだろうとフィリシアは推測した。その証拠に、言うべきことを言い終えてしまうと、祖母は優しい顔になり、マリーにこの家の滞在を楽しむようにと微笑んだ。
男爵夫人の部屋を辞すと、マリーはフィリシアにお礼を言った。
「フィリシア様、ありがとうございました。おかげで夢のような時間をいただきました」
「おじさまは何て?」
「綺麗だと言ってくれました」
ダンスの直前、ロイはマリーにだけ聞こえる小さな声で「綺麗だよ」と褒めてくれたのだった。
「それだけ?」
不意に昨夜の額へのキスが蘇り、マリーは頬が熱くなるのを感じたが、フィリシアに対しては「それだけです」と答えた。
そこへ、メルルがやってきて、もうすぐ家庭教師の先生がいらっしゃいます、とフィリシアを自室へ促した。マリーはメルルにも昨夜のお礼を言う。彼女は夜会の後、マリーの着替えを手伝ってくれたのだ。メルルは小さく頭を下げ、フィリシアを連れて行った。
ロイは、父に誘われて書斎でチェスに付き合っていた。そこへ長兄が加わり、二人のチェスを観戦する。次兄は家令として領地を守っているので、ロンドンの邸にはいない。
「昨晩の美人はどこのご令嬢なんだ? ヴァンシタート伯爵と並んでも見劣りしない美人なんて、そうそういないぞ」
マリーのことをよく知らない兄は、ロイにそう尋ねる。父には既に話してあったが、自分の医院にいる看護婦だとロイは説明した。
「へえ、それで、あんな若い娘に手を出したのか」
「手を出すなんて…! ……何もしてないよ」
一瞬、昨夜彼女の額にキスしたことを思い出して、少々後ろめたいロイであった。
「ダンスの後も、片時も離さなかったくせに」
「…あれは、彼女はああいう場に慣れていないから」
兄のからかうような口調にも、ついロイは言い訳めいた反論をしてしまう。不慣れな彼女を一人にできなかったのは本当だ。だが、それは一人にすればすぐに男が寄って来るからで、悪い虫が付かないようにという意味合いが強かったことは否めない。
「何にせよ、無責任なことはするなよ」
父の言葉にロイは、ただ「はい」と頷いた。
フィリシアと別れたマリーは、フィリシアの母親を訪ね、昨晩の謝辞を述べた。ドレスや宝飾品は全て彼女からの借りものだったのだ。しばらくフィリシアの母親と話をし、マリーは彼女の部屋を辞した。
フィリシアの母に勧められたとおりに庭でも散策しようかと外に出た時、メルルが声をかけた。勉強が終わったら一緒にお茶をしたいとフィリシアが言っており、彼女を待つ間、庭の東屋でお茶をどうぞと案内された。
メルルが出してくれた紅茶は、バラの香りをつけたもので、とても上等なものだった。ロイの家にある紅茶もそれなりのものだが、ロイ自身は紅茶にそれほどこだわりがないので、銘柄も特別高級なものではない。だからマリーは、飲み込んだ時のほんのわずかな違和感を、飲み慣れない高級なものだからだと片付けてしまった。
「フィリシア様のお勉強が終わるまで、まだもう少しありますから、お庭を散策なさってはいかがでしょうか。とても綺麗ですよ」
フィリシアの母にも勧められていたこともあって、メルルが案内してくれると言うのでマリーは頷いた。
メルルはマリーを伴って庭の花々を説明しながら、どんどん木々の立ち並ぶ林のほうへと進む。ロンドンにある貴族の邸は、たいてい領館よりも敷地が狭いものだが、それでも広大な庭は慣れない者には迷路のようだ。うっそうと茂る木々の葉が影を作り、林の中はひんやりと薄暗い。マリーは昨日の靴ずれもあって遅れ始め、鈍い頭の痛みに歩みが止まる。「どうしました?」と振り向いたメルルの前で、マリーは側に立っていた木を支えにゆっくりと崩れ落ちた。
気を失うように眠りに落ちたマリーを、メルルは見下ろした。
昨夜、ロイに頼まれてマリーの着替えを手伝いに行った時、マリーはドレスに男物の上着をはおったままベッドに腰掛けていた。上着がロイのものであるとメルルは瞬時にわかった。部屋に戻って来たロイは上着を着ていなかったし、そのデザインは確かにロイの支度を手伝ったメルルが彼に着せたものだった。「どうなさったのですか?」と訊いたメルルにマリーは何でもないと答えたが、ロイと何かあったのだろうとメルルは思った。
あの時、彼女の中に嫉妬が芽生えた。ロイと自分の身分の違いをメルルは十分に理解しており、彼が自分に優しいのも、他の使用人と同様に、平等に優しいのだと知っていた。けれど、ロイの優しさは、この少女にだけは平等ではない。彼は、この少女にだけ、特別に甘く優しいのだ。自分と同じように低い身分でありながら、彼女はロイの隣に立つことを許されている。
自分の実らぬ想いを他人のせいにして、己を弁護することが愚かだと重々承知している。けれど、このやり場のない妬みや嫉みをあの男には見抜かれ、抗うことができなかった。音もなく現れたその男は、自分は彼女を欲している、彼女に紅茶を飲ませ庭の奥に連れてくるだけでいいと言った。それだけで、お前の望み──マリーをロイから引き離すこと──は叶うだろうと。
彼女がいなくなったからといって、ロイの心が自分に向くわけではない。そんなことはわかっている。でも…。メルルは何かを振り切るように、その場にマリーを残して来た道を戻っていった。
頭の奥に鈍い痛みを伴ってマリーが覚醒を得た時、彼女の上半身は誰かに抱きかかえられていた。それは乱暴ではなく、むしろ丁寧な扱いであったが、反射的にマリーは相手の胸を押しのけた。
「やあ、目が覚めたかい、キティ?」
目の前に現れたアッシュブロンドとダークブラウンの瞳に、マリーは小さな悲鳴を上げた。
「…ボス…!」
言ってしまってから、しまった、と思った。マリーは急速に事態を把握した。メルルの出した紅茶を飲んだ時の違和感は、睡眠薬が入っていたためだと、先程の急激な眠気と鈍い眠りから醒めた今の状態でわかった。その睡眠薬の影響で思考が鈍っているのかもしれない。先日初対面だと言った相手に、昔の呼び方をすれば、ばれてしまう。
「……先日の…ミスター・ブラウンでしたわね。どうやってここに?」
厳重な警備をされている貴族の邸に入り込むのは容易なことではない。
「哀れなクロツグミを手懐けるなんて簡単なことさ」
それだけで、男の言わんとするところがわかってしまう自分が嫌だった。この男には、簡単だろう。愛の唄を歌うことを自ら封じてしまった哀しいクロツグミを、掌に乗せて転がすことなんて。
「…こんなところで何をなさっているのです?」
必死に男の腕の中から抜け出そうとするが、体が重くて言うことをきかない。それに、男の腕の位置も巧妙にマリーの動きを封じている。
「君を迎えに来たに決まってるじゃない」
マリーの演技を一切無視して男は微笑んだ。昔と変わらぬ優しい笑みだ。人を殺す時でさえ、この男は同じ笑みを浮かべている。
「どなたかと勘違いなさっています。私はあなたのことなど知りません」
途端に男は悲しそうな顔をしてみせる。
「ひどいな、僕は君のことを忘れた日は、一日だってないっていうのに」
それはもしかしたら、本当かもしれない。だが、そんなことはこの際どうだってよかった。あの日、組織を逃げ出したマリーは、この男には二度と会うまいと決めていた。この男の優しげな笑みの裏に隠された残忍さを、見て見ぬふりをして組織に留まっていたことを死ぬほど後悔した。自分を逃がすために犠牲になった少女がいることも知っている。
「離してください。私はキティではありません」
この男は、出会った時からマリーのことを「キティ」と呼んでいた。だから彼は、マリーの本名など知らないはずだ。出会った時は、「アマーリア」だったのだから。
「そうやって、君は自分の過去を隠して、あの男の側にいるの? それで自分の罪が消えるとでも? 君は、僕と同じ穴の狢さ。僕の側こそ相応しい」
その罪が許されないことなどわかっている。けれど、ロイの側にいたい。それが叶わなくとも、自分のいるべき場所は、この男の隣ではない。
「……離して!」
渾身の力を込めても、男の微笑を揺るがすことさえできない。自分の無力さに、マリーは泣きそうになる。
「ふふ、可愛いキティ」
微笑の影に、男の瞳の奥に、愉悦の色が浮かぶ。男の手がマリーの頬を撫でた。
東屋を片付けて邸に戻ったメルルは、廊下を歩いていたロイと鉢合わせて、胃の奥が重く痛む気がした。
「メルル、マリーを見なかった? 邸のどこにも見当たらないんだ」
普段と変わらぬ優雅な歩き方を崩してはいなかったものの、ロイはどこか焦っている様子だった。ロイが彼女を心配していることは明白だった。たかがこの広い邸で姿が見えないだけで探すなんて。それだけに、自分のしでかしたことの重大さと後ろめたさがメルルの表情を暗くする。
「メルル?」
彼女の様子が普段と違うことを見てとったロイは、そっと肩に手を置く。
「……実は、メアリー様のことで、ロイ様にご報告に行こうと思っていたのです」
沈痛な面持ちでメルルは口を開いた。
「先程、お庭の散策をお勧めして、途中まではご案内していたのですけど、……途中ではぐれてしまって…お姿が見えなくなって…」
自分の口から流れる出まかせに自分で呆れた。自分の罪をこの期に及んで隠そうとして、そのくせ暴いて欲しいと願う。彼女があの男に連れ去られたら、きっとロイはメルルを許さないだろう。
「はぐれたのはどこ?」
メルルは自分が彼女を置き去りにしてきた方角を指差した。「わかった、ありがとう」と言い残してロイは駆け出した。
「…いや! 離して! お願い、ボス! いやあっ!」
必死に抵抗するマリーをあざ笑うかのように、男の顔がマリーに近付く。頬を撫でる手にマリーの肌は粟立った。
突如として、鈍い音とともに男がマリーから離れた。
「……何をしている?」
拳を握り締めて、ロイはマリーを庇う位置に立ち、男を睨みつけた。低い声には怒りが滲み、ロイの瞳はエメラルドに燃え上がっていた。
「残念。騎士の登場だ」
ロイに殴られた頬を押さえ、うすら笑いを浮かべながら立ち上がった男は、いくつかの足音を聞き取っていた。
「僕は諦めないからね、キティ。きっと君を迎えに来るよ」
言うや否や男は木々の影に姿をくらませた。ロイに続いてきた使用人たちが辺りを探したが、男の姿は見当たらなかった。
「マリー、大丈夫かい?」
涙を溜めるマリーをロイは優しく助け起こし、そっと抱き寄せる。ロイにすがりついて泣くマリーの背中を宥めるように撫でる。
「…ロイ、お願い、側にいて」
「うん」
ジャック・ブラウンという男の正体が、ただの医師でないことは、もはや明白だ。そして男はマリーのことを知っている。当然マリーも。だが、ロイは泣きじゃくるマリーを抱きしめ、事情を聞くのは後だと決めた。
しばらくして、落ち着いたマリーが立ち上がるのにロイは手を貸したが、マリーは昨日の靴ずれの影響か上手く歩けないようだった。実は睡眠薬の後遺症なのだが、ロイはまだそれを知らない。ロイはマリーの背中と膝の後ろに手を差し入れると軽々と持ち上げた。慌てるマリーにロイは掴まっているよう言い、おずおずとマリーはロイの首に腕を回した。
邸に戻ったロイは、診察の結果、マリーに睡眠薬が使われたことを突き止めた。そしてマリーから簡単な事情を聞くと、明敏な彼には、睡眠薬を盛ったのがメルルだとわかってしまった。
マリーはロイにメルルを責めないで欲しいと懇願した。
「きっと彼女は知らなかったのよ。私だって、気付かずに飲んでしまったんだから」
ベッドサイドに座るロイをベッドからマリーは見上げる。ロイは、もう一日実家に滞在することにして、大丈夫だと言うマリーを半ば強引にベッドに寝かせたのだった。
ベッドに横たわるマリーの黒い髪をロイは指で梳く。彼女がメルルを庇っているのは確かだが、何のためにメルルがそんなことをしたのかロイにはわからない。この後、マリーを見舞いにきたフィリシアが、ロイが席を外している隙に「おじさまも罪つくりよね」と評し、マリーはそれに同意を示す苦笑を返すのだが、それはロイの知らない話である。
「ともかく、今はゆっくりおやすみ」
詳しい事情を聞くことも何もかも後回しにして、ロイはマリーの体調回復を最優先した。黒い髪を撫で、そっと前髪をかき上げると、一瞬逡巡してから、ロイはマリーの額に小さなおやすみのキスを落とした。