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Black Bird 2

 フィリシアの部屋に戻って来たロイは、疲れた様子でベッドサイドの椅子に腰を下ろした。「どうしたの、おじさま?」というフィリシアの問いかけに、ロイは深い溜息をついて頭を抱えた。

「……はめられた」

 フィリシアとマリー、そして部屋に控えるメイドのメルルは顔を見合わせる。

「どういうこと?」

 代表してフィリシアが尋ねた。

「…今夜、夜会に出ろって、母様が」

 ああ、とフィリシアは納得した。今晩、このハートネット男爵邸で男爵夫人主催の夜会が開かれる。フィリシアは社交界デビューをしていないのでまだ出席の義務はないが、父と母は出席すると聞いている。そんな日に家に帰ってくれば、当然ロイも引っ張り出されるだろう。

「仕方ないわよ、おじさま。社交の季節(ザ・シーズン)ですもの。おばあさまは、おじさまの奥様候補を見つけようとなさっているのよ。今まで逃げ回っていたおじさまが悪いのだわ」

 大人のようなことを言ってフィリシアはロイを諭した。夜会は単に貴族のたのしみや社交の場としてだけではなく、配偶者を求める場でもあった。

 ロイはとっくに社交界デビューは果たしていたが、住み込みでルーファスの家庭教師をしていたこともあり、夜会に出る回数は少なく、軍医となってからは一切出ておらず、町医者になってからも遠のいていた。もともと、そういった場があまり得意ではなかったロイは、家を出てからは極力避けていたのだ。

 社交の場に出る機会が少なかったことが、ロイが未だに結婚できない理由だとロイの母親は思っていて、半ば強引に夜会への出席を勝手に決めたのだった。いわば、今夜の夜会はロイの結婚相手を探すためのものだ。だから、それほど深刻ではないフィリシアの病のことなど持ち出して、ロイを家に呼んだのだ。

「あの、それでは、お支度のお手伝いなどをしたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」

 メルルが遠慮がちに口を開いた。最後の確認は、フィリシアに対してのものだ。

「いいわよ。もともとメルルはおじさま付きだったんでしょ。手伝ってさしあげて」

 現在はフィリシア付きとなっているメルルは、ロイが邸にいた頃は、ロイ付きのメイドだった。彼女はロイを好いている、と女の勘でマリーは知っている。先程一緒に庭のベリーを摘みに行った時、12歳でフランスから奉公に来た彼女に英語を教えてくれたのはロイだという話を聞いた。だから彼女の話す英語は綺麗なクイーンズイングリッシュだ。

 ロイは邸の使用人たちに言葉や文字を教えていたので、この邸の識字率は高い。分け隔てなく親切に教えてくれるロイは、使用人たちに好かれ、今でも親しみを込めて「坊ちゃま」と呼ばれている。さすがに年下の者は「ロイ様」と呼ぶが。

「ロイ様、では、お支度を」

 メルルもその一人で、ロイより三歳年下の彼女は、不安いっぱいでこの邸に来た時にフランス語で話しかけてくれたロイの名前を誰よりも先に覚え、以来「ロイ様」と呼んでいる。

 渋々といった様子でロイは席を立ち、今夜は泊りになるから、与えられた部屋で先に休んでいるようにとマリーに言った。

「泊りってことは、マリー、ずっといるのよね?」

 嬉々としてフィリシアは、マリーの腕を取った。初めてマリーを見た時から、フィリシアには試してみたいことがあり、マリーが泊ることで、それが可能になったのだった。



 侍女たちの手が何本もマリーに伸びて、彼女たちの手によってマリーは磨き上げられる。抗議の声は綺麗に聞き流されて、彼女たちはマリーを飾ることだけに集中しているように見えた。ロイヤルブルーのドレスは腰をコルセットで締め上げられ、寄せて上げられた胸が所在を主張する。肌にはよい香りのするクリームが塗られ、マリーには畏れ多い高価な宝石が飾られる。香油を塗り込めた髪は、いつも以上に艶がよく、綺麗にまとめられている。瞳と同じ青い宝石で作られた髪留めは、彼女のために作られたように思える。

「すごい! きれいだわ、マリー!」

 興奮したようにフィリシアがソファから身を乗り出す。彼女はベッドでおとなしくしていることを義務付けられていたのだが、今はソファに横になり、上半身を起こした状態だ。

 母が夜会の準備をする隣で、フィリシアはソファから自分の侍女たちに指示を出してマリーを飾り立てていた。実のところ、夜会の準備をする若奥様の侍女たちが羨ましかったフィリシアの侍女たちは、自分の主を飾れない代わりに、マリーを彼女の理想どおりにすることに非常に協力的だった。フィリシアの母も、娘がおしゃれに目覚めたのなら喜ばしいことだと、咎めないどころか自分のドレスを貸して推奨した。

 等身大の着せ替え人形よろしく、フィリシアにいいようにされたマリーだけが、嬉々とした人々の中で疲労困憊していた。

「あの、フィリシア様…私は夜会に出るわけではないので…」

 それはフィリシアも承知していたが、子どもらしいわがままで自分の興味──マリーをプロデュースして美しくすること──を優先したのだ。

「でもマリー、出ても問題ないわよ。おじさまだって、これを見たらイチコロよ」

 侍女に鏡を持って来させ、マリーの前に置く。まるで自分ではないような、少女というよりは女性と言ったほうが相応しい、自分の姿を見たマリーは言葉を失った。

 侍女たちの手で化粧を施されているマリーは、いつもより何倍か大人びて見える。どこからどう見ても、今のマリーは美貌の貴族令嬢だ。

 言いながら、フィリシアはさらに思いついてしまったようだ。ソファから飛び起きる。ベッドで寝ているように諭す大人たちに、ソファでおとなしくしていれば一緒だと言い張ったフィリシアは、それを忘れ、とうとう自分が風邪をひいていることさえ忘れたようだ。

 フィリシアの母がいれば叱ったかもしれないが、彼女は既に夜会に行ってしまっていた。マリーも名を呼んでフィリシアを諭そうとしたが、意味はなさなかった。

「行きましょう!」

「行くって、どこへですか?」

「決まってるじゃない、夜会の会場よ!」

 必死に止めるマリーを振り切ってフィリシアは元気よく歩き出してしまい、マリーは慌てて後を追った。履き慣れないハイヒールがマリーの足を遅くさせ、ついて行くのがやっとだった。

 会場のドアの前でフィリシアは立ち止まり、追いついたマリーに振り返って教える。

「だめです!」

 慌てて引き返そうとするマリーの手を掴み、フィリシアはドアを勢いよく開けた。きらびやかな光が目に入り、マリーは一瞬視界を失う。その瞬間、後ろから体を押されて、マリーは数歩よろけた。

「じゃあね、マリー。楽しんで!」

 振り向いたマリーの目の前で冷酷にもドアは閉まり、マリーは会場の内側に取り残された。慌ててドアノブを掴んで外に出ようとするが、「お嬢さん」と声をかけられて断念せざるを得なかった。これに応えるのは義務だと、マナーの講義で教わったからだ。

 声に向き直ったマリーに、声の主である青年は、頬を赤く染めて言葉を失い、それからマリーをダンスに誘った。ダンスなどしたことがない、いやそれ以前にこの場に相応しくないと思うマリーは一刻も早く立ち去りたかったので、断りたかったのだが、夜会でダンスを申し込まれたら応じるのがマナーだと教わったばかりだ。断り方もあったはずだが、自分には関係ないと聞き流していたので思い出せなかった。

「悪いが、先約だ」

 困惑と緊張で固まるマリーを救ったのは、よく知った声だった。

「ヴァンシタート伯爵様!」

 悠然と近付いてきたルーファスは、青年とマリーの間に入り、ごく自然にマリーの手を取った。自分より格上の貴族、それも名門ヴァンシタート伯爵にそう言われたのでは引き下がるしかなく、青年は残念そうにその場を離れた。

「マリー、どうしてこんなところに?」

 問われて、マリーはフィリシアのいたずら心に翻弄された経緯と状況を説明した。

「お願いです、伯爵様。私をこっそり会場から出してください」

「それは難しいな」

 マリーの懇願は、期待した言葉をもっては報いられなかった。

「お前は人目を引くほどに十分美しいし、俺と一緒にいる時点で、こっそりは不可能だ」

 良くも悪くも、ルーファスは目立つ。その彼と一緒にいれば、当然人目につく。しかも、最近ルーファスは婚約者のリリーローズ以外の女性を夜会で連れていたことがないので、婚約者以外の美しい女性といるルーファスは注目されていた。一緒に姿が見えなくなろうものなら、どんなさがない噂を流されるかわかったものではない。

「まあ、ここは時間を稼いで、あとはあいつに引き取ってもらうことにしよう」

 ルーファスはひとりごちるように言って、視線を投げる。つられて見遣れば、貴族の紳士として身なりを整えた、いつもより三割増しくらいで上品なロイが、美しく着飾った貴族の令嬢たちと談笑していた。自分の知らないロイの姿に、マリーは不安になる。

「ダンスはしたことがあるか?」

 マリーの手を引いて歩き出したルーファスに尋ねられ、マリーは首を左右に振る。一応、基礎的なステップは夜会のマナーの話の中で聞いたが、やはり自分には無関係だと思っていたので、それほど熱を入れて聞いてはいなかった。しかも実践も伴わないものだ。

「じゃあ、俺の動きに合わせて足を動かせ。お前は勘がいい、すぐに慣れるだろう」

 一瞬止まった曲が、再び違う旋律を伴って奏でられると、ルーファスはマリーの手と腰を取ってダンスを始めた。慌ててマリーは言われたとおりにステップを追いかける。最初は必死にルーファスの動きを追うだけだったが、次第に要領を掴んでくると、マリーは周りを見る余裕が出てきた。注目されている、と気付いたのはその時だ。流れる視界の中で、驚いたように目をみはるロイが見えた。

 曲が終わり、ルーファスとダンスを終えたマリーの元へ数人の男性が寄って来た。今度は自分と踊って欲しいと誘う彼らに、ルーファスはまたしても「先約だ」と断る。

 ルーファスの視線の先で、ロイがこちらに来るのが見えた。マリーを目の前にして、彼女の名を口にすると、そのままロイは黙ってしまう。ロイを見上げるサファイアの瞳が不安げに揺れる。ルーファスはロイを肘で小突いた。

「マリー……僕と、踊っていただけますか?」

 ダンスそのものには自信などなかったが、差し出されたロイの手を取ることに、マリーに否やはなかった。微笑んで手を重ねるマリーに、ロイは眩しそうに目を細め、いつもの優しい笑みを見せた。

 そこからは、マリーにとってめくるめく夢の世界のようだった。ロイのリードはルーファス同様に巧みで、ステップを知らないマリーでも、ほとんどロイの足を踏まずに済んだ。ロイの手が触れる、手や腰が、それ自体が熱を持ったように熱い。きらめくシャンデリア、人々のざわめき。精神的な理由と身体的な原理でマリーの頬は紅潮し、それがまた彼女の美しさを増していた。



 ダンスの合間にマリーから事情を聞いたロイは、夜会の後、マリーを伴って夜会の主催者、つまり母に謝りに行った。呼ばれていない者が出席してよいものではないのだ。頭を下げるマリーに、彼女にこのような格好をさせ、会場に連れて行った者がいるのだから、マリー一人の罪ではないとロイの母は言った。ロイがマリーの手を取りダンスをしている間に、ルーファスから事の次第を聞かされていたのである。

「あの、フィリシア様をお叱りにならないでください。ほんのいたずら心だったのですわ。結果的に、その…私も夢のような時間を過ごさせていただきましたし…。お叱りなら、私が受けますから、どうか奥様」

 必死にフィリシアを庇おうとするマリーを、ロイの母は嫌いにはなれなかった。それに、ロイもルーファスもこの少女を弁護している。息子とヴァンシタート伯爵と、夜の女神に愛されたようなこの美しい娘を厳しく処断などすれば、いささか後味が悪いだろう。

「お小言は明日、フィリシアと一緒に受けさせます。あなたも疲れたでしょう。ロイ、部屋まで送って差し上げて」

「ありがとうございます、母様」

 怒るどころか気遣いまでしてくれた男爵夫人に、ロイが礼を言い、マリーは深く頭を下げることで感謝を示した。なぜだか懐いた猫のように撫でてしまいたくなる娘の様子に、これでは息子が可愛がるのも無理はない、とロイの母は感想を抱いた。

 ロイは、慣れないハイヒールのために靴ずれができて痛そうにしているマリーの腰に手を添えて歩行を助けた。それはごく自然なエスコートの形なのだが、マリーはその接触に緊張してしまう。

 マリーの肩にはロイが着ていた上着が掛けられている。肩を出す形のドレスをまとったマリーが白い肌を惜しげもなく晒しているので、その肩やら胸やらにロイが目のやり場に困った結果だ。滑らかな白い肌にほんのひと房落ちかかるようにセットされた彼女の黒い髪は、人の視線を誘い、その肌へ誘惑しているようにも見えた。幼さの残る顔立ちは化粧で大人の女性へと近付き、女性になりつつある少女の色香を漂わせていた。

 マリーを部屋に送り届けたロイは、部屋に入った彼女がドアを閉めずにロイを見上げたのを見て、思わず、という表現が正しいだろう、彼女の部屋に足を踏み入れた。

「おやすみ、マリー」

 いつもの眠る前のおまじないの言葉とともにマリーに与えられたのは、抱擁ではなくて、柔らかな感触だった。額に触れたそれが離れ、微笑を残してロイが背を向けて歩き出すと、ようやくマリーは事態を把握した。ロイの唇が触れた場所に熱は集中して、マリーは顔を真っ赤にして床にへたり込んだ。

 一方ロイは、一見優雅な足取りで廊下を進んでいたが、自分の衝動的な行動に赤面して右手で口を覆った。…父や兄のつもりなら、あんな衝動は抱かない。それを自覚したロイは、部屋で待っていたメイドのメルルに、自分よりもマリーを手伝ってやってくれと頼むのに、平静を装う努力をしなければならなかった。

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